詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「34歳ノート・後編」

2011-07-31 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「34歳ノート・後編」(「白黒目」30、2011年07月発行)

 豊原清明「34歳ノート・後編」は「短編映画シナリオ」である。いつものことだが、このシナリオがとてもおもしろい。

○ 僕の顔
  眼鏡をはずし、呟く。
僕「今は六月二十二日。誕生日は今週の土曜日。来週の日曜日、教会に行ったら、
 誕生カードを渡すという。」

○ ぐちゃぐちゃの部屋を映す。
声「ああ…。」
 溜息、嘆き声。

 「ぐちゃぐちゃの部屋」に「ああ…。」という声がかぶさることろが、とてもいい。ひとは映っていないのだ。ただ部屋があり、それに声がかぶさる。その部屋の荒れた感じと、声の距離感。
 眼鏡をはずした顔から、荒れた部屋へのカメラの切り返し。
 なぜ部屋が「ぐちゃぐちゃ」なのか、何の説明もないが、その説明のなさが「意味」をはぎ取って、詩、そのものになっている。

 次のシーンもとても好きだ。

○ ぐちゃぐちゃの部屋(夕)
声「祈らないと。祈らないと。」
  カーテンを閉めて、真っ暗にする。
  点滅する、電気。やがて、消し、真っ暗になる。
  暗闇の部屋に、夕日が射す。カーテンを少し、開ける。
  祈り終わって、立ち上がり、電気をつける。

 このシーン。私なら、「僕」の姿を映さない。「僕」の姿を映さずに、ただ部屋の明暗、電燈の点滅の変化、カーテン越しの夕日の光というものだけをスクリーンに拡げてみたい。
 光の変化、闇の変化、それにともなってみえるぐちゃぐちゃの部屋の変化--その変化そのものが「僕の肉体」なのだ。
 「僕の肉体」と「部屋」そのものの「肉体」が光の変化のなかで「ひとつ」になる。
 豊原の映画には、いつも「僕」が登場する。そして、その「僕」は「僕」なのだけれど、輪郭が破れている--というと語弊があるけれど、なにか「僕」を超えて、はみだすものがある。そのはみだしたものは、何かに触れて、その何かと「ひとつ」になる。そういう感じがある。それがとてもおもしろい。

○ 居間(夕)
  誕生日の粗末なケーキ。暗い部屋の貧乏さ。
父の顔「33歳、たいへんやったなあ。」
僕の顔「もう一度、挑戦してみるわ。」
父の顔「希望を持って。」
僕の顔「希望を持って。」
  お茶を一気飲みする、僕。
父の声「一気飲みはあかん。」
僕「あっ。」
父の声「お茶はちびちび飲む。」
  茶をコップに入れて、飲む。

 ここには「意味」はない。日常の、「意味」から除外された「存在」がある。「空気」がある。
 
父の顔「希望を持って。」
僕の顔「希望を持って。」

 この繰り返しは、深い過去をもっている。過去があるから、「いま」が繰り返される。「希望を持って」というのだから「未来」が繰り返されるといってもいいが、その繰り返しによって「時間」が濃密になる。
 「時間」が存在として浮かび上がってくる。
 それは、その次のお茶の一気飲みで、違った形で繰り返される。
 お茶の「一気飲みはあかん。」というのは、「僕」が何度も何度もきかされてきたことばである。何度もきかされているけれど、やっぱり、知らずに一気飲みをしてしまう。その「僕」の顔、僕の姿に、父の声が重なる。
 このとき「僕」がいて「父」がいて「父の声」がするのだが、スクリーンの上では「僕の顔」に「父の声」が重なり、「僕」と「父」が「ひとつ」になる。
 違った存在が「ひとつ」になるとき、そこに「時間」がエッジをもって浮かびあがってくる。
 これはいいなあ。
 私は映画のカメラというものを持ったことがないが、豊原のシナリオを読む度に、映画をとってみたくなる。そこに書かれていることばを映像にしてみたくなる。
 詩も、俳句もいいが、映画のシナリオはそれをはるかに超越しておもしろい。




今月のお薦め。
河邉由紀恵『桃の湯』(思潮社)
池井昌樹「無事湖」
吉浦豊久「白い光景」


夜の人工の木
豊原 清明
青土社



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古代ギリシャ展

2011-07-31 15:04:53 | その他(音楽、小説etc)
古代ギリシャ展(国立西洋美術館、2011年07月20日)

 「円盤投げ」の彫像を見ながら不思議な疑問を持ってしまった。
 モデルが誰であるかわからないが、この裸の青年の手足、頭、胸、腹、腰--つまり、その肉体はモデルの肉体を正確に再現しているのだと思うが、それを美しいと感じるのは、いったい、なぜなんだろうか。
 この前にセザンヌを見ていなければ、たぶん、こういう変な疑問は生まれなかった。
 私は、もともとピカソが好きである。それも「青の時代」とか「ピンクの時代」という初期の、リアリズムをある色で叙情的に統一した作品群ではなく、晩年のエッチングに代表されるような、いわばデフォルメの多い、猥雑で、でたらめな作品群が大好きである。そういう作品とギリシャの美術は遠く離れている。
 ギリシャ美術展の前にみたセザンヌの父を描いた絵もデッサンが狂っている。私の好きな絵は、ようするに「正確」とはかけ離れている。「正確」から「逸脱」し、狂っている、狂いを含む作品こそ芸術だと感じている。
 それなのに「円盤投げ」を見ると感心してしまうのである。美しいと思ってしまうのである。それも、その作品が、円盤を投げる動作の一瞬を切り取り、「正確」に再現しているから美しいと感心してしまうのである。「動き」を「正確」に再現している。肉体がそうした姿勢をとるときの「筋肉」の変化を「正確」に再現している。「肉体」のなかの、いのちの躍動を「正確」に再現している。だから、「美しい」。
 「美しい=正確」という「基準」が、なんの躊躇もなく、私のなかに蘇ってくる。
 それだけではない。青年の「肉体」の動き、その筋肉や骨の動きが、私の眼を通って私の肉体のなかに入ってくるとき、この青年のとっているような一瞬のポーズを私は再現できないことを知る。私は円盤投げをしたことがないから、こいうポーズをとれないが、たとえ円盤投げをしたことがあっても、こういうポーズをとれない。その肉体の動きは、私を完全に超越していると感じる。
 「正確」と「美しい」の間に、「私を超越する」という感覚がまじっている。
 と、ここまで書いて、ちょっと私は落ち着く。ギリシャの「正確」は「私を超越する・逸脱する」ことによって「美」に到達している。
 「逸脱」という項目を挟み込むことによって、もしかしたらピカソの逸脱、セザンヌの逸脱と通じるものがあるかもしれない--と考えることができる。(かもしれない)。

 でも、強引だなあ。これは。私のことばは、どこかで、それこそ「逸脱」している。

 「私を超える」ということばを何か別のことばに置き換えて考え直す必要がある。ことばを動かしなおす必要があるのだ。
 「美しい=正確」。その「正確」はほんとうにその青年を「正確」に再現しているのか。それとも「正確」をよそおって何らかなの「加工」が施されているのか。
 ここに「私を超越する」ではなく、作者を超越する、ということばを差し挟んでみる。そのとき作者にとって「作者を超越する」とは何だろうか。作者がたどりつこうとしてたどりつけないもの。
 理想。
 それは単なる「正確」ではなく、「理想」にとって「正確」ということなのだ。
 「イデア」ということばも思い浮かぶ。これは、私がプラトンが大好きだからなのだが、人間には何かしら「いま/ここ」では満足しきれない思いがあって、それがかってにつくりだすものがある。
 理想。
 この不思議なものが「正確」を制御する。「正確」を超えて、別な形にする。「正確」を超えたときにのみ、「美しさ」がほんとうに輝く。

 これ、しかし、ちょっと困ったことだなあと思うのである。
 「美術」さえもプラトンに代表されるギリシャ哲学の「領域」のなかで動いている? ほんとうは違うかもしれないが、私のことばは知らずにそういう領域で動き回る。そこを超えることができない。
 別に超える必要はないとは思うのだが、不思議なのである。
 「正確」であること、そして「正確」をより正しく「正確にする」(理想化する)ということばの運動。精神の運動。意識の働き。
 なぜなんだろうなあ。
 たとえば、そういうこととは完全に縁を切って、自堕落に酒におぼれて肉欲におぼれて、だらしなく生きたら楽しいだろうなあという「理想」も私にはあるのになあ。

 ギリシャ美術を見ながら「美術」を逸脱して「ギリシャ」そのものにとらわれてしまったのかな?
 私は美術のことはまったく知らないが、美術の専門家(あるいは歴史の専門家でもいいけれど)は、ギリシャで生まれた「美」(正確)と、いま・ここで(たとえば東北大震災後の日本で)動いている美意識との関係を、どんなふうに定義しているのだろうか。
 どうことばにすることで「鑑賞」の立場を維持しているのだろうか。
 なんだか、わけのわからないことばかり考えてしまうのだった。
                             (09月25日まで開催)



ギリシャ美術史―芸術と経験
J.J. ポリット
ブリュッケ
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