松岡政則「あいさつ」「つくしたんぽぽいぬふぐり」(「現代詩図鑑」2011年初夏、2011年06月20日発行)
松岡政則「あいさつ」は「意味」の強い詩である。
まあ、そうなんだろうけれど。おっしゃるとおりですけれど。……ちょっと敬遠してしまう。私は「意味」には興味がない。「あいさつ」の強要のようにも感じられて、「困った詩だなあ」とふと思ってしまう。
が。
えっ、いま、何ていった? 急にわからなくなる。「意味」を読んでいたつもりが、ふいに「意味」がつかめなくなる。
わからないね。「世界はモノなどではなく/コトの現われだとわかる」というのは松岡の作品、松岡のことばをずーっとていねいに追ってきている読者にはわかる「哲学」だろうけれど、突然、こういうことばに出会うととまどってしまう。
それでも、私はこの詩に惹かれた。感想を書いてみたいと思った。
この離れて存在する3行、そのことばのなかに「風景」が見えたからである。「意味」ではなく「風景」が、不思議となつかしい感じがしたのだ。
「菜畑」の「菜」が何かわからない。わからないけれど、緑色が見える。そのまわりには光があふれている。その道を歩くと身体が野菜になったような気持ちになる。そういうときってあるなあ。
「あいさつはひかりの素顔/そのきわはふるふる震え」の「そのきわ」とは「ひかりのきわ」かな? でも「ひかりのきわ」って何? 「きわ」は「際」だろうけれど、ひかりのはしっこ?
わからないながら、この「きわ」、そしてそれが「ふるふる震え」ているということばに出会うと、私の肉体の「きわ」がひかりに共振して震えるような感じがするのだ。そして、共振して震えることで、ひかりが私の肉体のなかに入ってくるのか、それとも私を包む肉体の表面の「闇」が解きほぐされるのか、よくわからないけれど、何か変化しているのがわかる。わかる、というか、感じる。
あ、こういうことが、「あいさつ」ではなく、たとえば「菜畑」の道を歩きながら、野菜を見るとき、その緑を美しいと思うときも、起きているのだな、と思う。
私と私以外のものが、「きわ」をそれぞれ震わせて「解体」する。ほどけてしまう。「きわ」がほどけてしまうと……言い換えると(松岡のことばを借りて言い換えると)、「私」や「私以外」の「モノ」が「きわ」という「輪郭」をなくし、ほどけてしまう。そうして「もの」がなるなると、きっと「コト」だけが残る。「コト」が「ほどけた輪郭」の奥から「現われてくる」ということかな?
私は菜畑の道を歩く。そのとき、「私」も「菜畑」も「道」もない。ただ「出会い」がある。「出会い」という「コト」だけがある。「コト」だけになったとき、「躰が晴れてくる」。「晴れる」という「コト」が「現われる」。
私の「きわ」が消え、「菜畑」や「道」の「きわ」も消える。そのとき、きっと生きている人間と「死者」の「きわ=境界線」も消える。死者というのはこの世から消えてしまった人だけれど、「きわ」がないのだから、死者が、いま/ここに住んでいてもかまわない。いま/ここで死者に出会ってもかまわない。
実際、そういうことはある。なつかしい道を歩いていて、ふと、そこですれ違った遠い人、死んでしまった人のことを思い出す「こと」がある。思い出すという「こと」のなかで、死者と出会うという「こと」がある。
「こと」には「きわ」がないのだ。
「もの」には「きわ」があるけれど、「こと」には「きわ」がない。
「あいさつ」は、「こと」のなかでの「出会い」なのだ。
そんなことは、松岡は書いていない?
そうかもしれない。そして、松岡が書いていないのだとしたら、つまり松岡が書いていないことを私がかってに「誤読」しているのだとしたら……。
何と言えばいいのだろう。
このとき、私は松岡の「意味」から自由になって、自分で勝手に動いているという「晴れやかな」気持ちになる。
そして、あ、この詩、後半がいいなあ、と思う。
「後半が好きだよ」という「あいさつ」を松岡に送りたくなる。「前半は嫌いだけれど、それは私が松岡をまだよくわからないから。そのうちわかるようになるかもしれないから、それまで待っていてね」と言いたくなる。
「つくしたんぽぽいぬふぐり」は最初の3行にやはり「意味」が強く書かれているのだが、そのあとは「あいさつ」(誰かとの出会い)と、「あいさつ」による「きわ」の変化が書かれている。「きわ」が消えて「肉体のなかのコト」があらわれてくる様子が、やわらかなことばで書かれている。
「足もとから叱ってもらえたような」の「足もと」がいいなあ。「肉体」を「足」に感じている。「足もと」というのは、まあ、「肉体」ではなく、松岡の立っている「地面」かもしれないけれど、そこに地面があることを「足」で感じている。「頭」で感じているのではなく「肉体」で感じている。だから「足もと」ということばになるのだと思う。
「肉体」で感じるから、同じ「肉体」をもっている「祖々」が自然に出てくる。人間は、どんな見知らぬ人とも「肉体」でつながっているのだ。
人間は、見知らぬ人とも「肉体」でつながっている「こと」が、いまえここに「あらわれている」。(あらわれてきている。)
そして「こと」のなかから、「あいさつにはそういう力がある」という行の「力がある」というような「抽象的なことば」(哲学のことば)が自然に生まれてくる。「哲学」というのは「こと」のなかをとおりぬけてあらわれることばなんだろうなあ、と教えられる。
松岡は、このあと不思議なことばを動かしている。
そうなんだなあ。どうしていいかわからないときは、とりあえず「あいさつ」。「きわ」を自分の方からゆるめて、出会った人に、「私はあやしいものではありません」と告げる。
この2行も好きだなあ。こども--大人の(といっても、私の、ということなのだが)都合を考えないからね。子供は大人とは違う「こと」をしている。「こと」を生きている。「きわ」のつくりかたが違うのだ。
邪魔だねえ、という感じが、松岡の「肉体」と「こと」を「笑い」のなかで伝わってくる。
松岡のことばは「意味」から出発しても、しっかりと「肉体」へたどりついている。「肉体」をはなさずに、「こと」の内部へおりて行く。そして「哲学」をつかみとってくる。そういう安定感がある。
松岡政則「あいさつ」は「意味」の強い詩である。
あいさつには現生人類の
底力のようなものがある
間合いを見計らいながら
互いの生をよろこび合う
いにしえからの人間運動
まあ、そうなんだろうけれど。おっしゃるとおりですけれど。……ちょっと敬遠してしまう。私は「意味」には興味がない。「あいさつ」の強要のようにも感じられて、「困った詩だなあ」とふと思ってしまう。
が。
脈脈たる血つづきがよい
死者たちも住むのがよい
えっ、いま、何ていった? 急にわからなくなる。「意味」を読んでいたつもりが、ふいに「意味」がつかめなくなる。
あいさつはひかりの素顔
そのきわはふるふる震え
世界はモノなどではなく
コトの現われだとわかる
躰が晴れてくる菜畑の道
あいさつには逆らえない
いや逆らってはならない
わからないね。「世界はモノなどではなく/コトの現われだとわかる」というのは松岡の作品、松岡のことばをずーっとていねいに追ってきている読者にはわかる「哲学」だろうけれど、突然、こういうことばに出会うととまどってしまう。
それでも、私はこの詩に惹かれた。感想を書いてみたいと思った。
あいさつはひかりの素顔
そのきわはふるふる震え
躰が晴れてくる菜畑の道
この離れて存在する3行、そのことばのなかに「風景」が見えたからである。「意味」ではなく「風景」が、不思議となつかしい感じがしたのだ。
「菜畑」の「菜」が何かわからない。わからないけれど、緑色が見える。そのまわりには光があふれている。その道を歩くと身体が野菜になったような気持ちになる。そういうときってあるなあ。
「あいさつはひかりの素顔/そのきわはふるふる震え」の「そのきわ」とは「ひかりのきわ」かな? でも「ひかりのきわ」って何? 「きわ」は「際」だろうけれど、ひかりのはしっこ?
わからないながら、この「きわ」、そしてそれが「ふるふる震え」ているということばに出会うと、私の肉体の「きわ」がひかりに共振して震えるような感じがするのだ。そして、共振して震えることで、ひかりが私の肉体のなかに入ってくるのか、それとも私を包む肉体の表面の「闇」が解きほぐされるのか、よくわからないけれど、何か変化しているのがわかる。わかる、というか、感じる。
あ、こういうことが、「あいさつ」ではなく、たとえば「菜畑」の道を歩きながら、野菜を見るとき、その緑を美しいと思うときも、起きているのだな、と思う。
私と私以外のものが、「きわ」をそれぞれ震わせて「解体」する。ほどけてしまう。「きわ」がほどけてしまうと……言い換えると(松岡のことばを借りて言い換えると)、「私」や「私以外」の「モノ」が「きわ」という「輪郭」をなくし、ほどけてしまう。そうして「もの」がなるなると、きっと「コト」だけが残る。「コト」が「ほどけた輪郭」の奥から「現われてくる」ということかな?
私は菜畑の道を歩く。そのとき、「私」も「菜畑」も「道」もない。ただ「出会い」がある。「出会い」という「コト」だけがある。「コト」だけになったとき、「躰が晴れてくる」。「晴れる」という「コト」が「現われる」。
私の「きわ」が消え、「菜畑」や「道」の「きわ」も消える。そのとき、きっと生きている人間と「死者」の「きわ=境界線」も消える。死者というのはこの世から消えてしまった人だけれど、「きわ」がないのだから、死者が、いま/ここに住んでいてもかまわない。いま/ここで死者に出会ってもかまわない。
実際、そういうことはある。なつかしい道を歩いていて、ふと、そこですれ違った遠い人、死んでしまった人のことを思い出す「こと」がある。思い出すという「こと」のなかで、死者と出会うという「こと」がある。
「こと」には「きわ」がないのだ。
「もの」には「きわ」があるけれど、「こと」には「きわ」がない。
「あいさつ」は、「こと」のなかでの「出会い」なのだ。
そんなことは、松岡は書いていない?
そうかもしれない。そして、松岡が書いていないのだとしたら、つまり松岡が書いていないことを私がかってに「誤読」しているのだとしたら……。
何と言えばいいのだろう。
このとき、私は松岡の「意味」から自由になって、自分で勝手に動いているという「晴れやかな」気持ちになる。
そして、あ、この詩、後半がいいなあ、と思う。
「後半が好きだよ」という「あいさつ」を松岡に送りたくなる。「前半は嫌いだけれど、それは私が松岡をまだよくわからないから。そのうちわかるようになるかもしれないから、それまで待っていてね」と言いたくなる。
「つくしたんぽぽいぬふぐり」は最初の3行にやはり「意味」が強く書かれているのだが、そのあとは「あいさつ」(誰かとの出会い)と、「あいさつ」による「きわ」の変化が書かれている。「きわ」が消えて「肉体のなかのコト」があらわれてくる様子が、やわらかなことばで書かれている。
どの民族のあいさつにも
人間をささえる運動があるだろう
連綿とつづくさみしい問いがあるだろう
やまのバスをおりて
道ばたで地図をひろげていると
「ええ日和ですのう」
じげの者にあいさつされた
かるく頭を下げてあいさつをかえす
なんか、いい気分
足もとから叱ってもらえたような
祖々(おやおや)の聲に出会えたような
あいさつにはそういう力がある
あとからあとからいいものがやってくる
「足もとから叱ってもらえたような」の「足もと」がいいなあ。「肉体」を「足」に感じている。「足もと」というのは、まあ、「肉体」ではなく、松岡の立っている「地面」かもしれないけれど、そこに地面があることを「足」で感じている。「頭」で感じているのではなく「肉体」で感じている。だから「足もと」ということばになるのだと思う。
「肉体」で感じるから、同じ「肉体」をもっている「祖々」が自然に出てくる。人間は、どんな見知らぬ人とも「肉体」でつながっているのだ。
人間は、見知らぬ人とも「肉体」でつながっている「こと」が、いまえここに「あらわれている」。(あらわれてきている。)
そして「こと」のなかから、「あいさつにはそういう力がある」という行の「力がある」というような「抽象的なことば」(哲学のことば)が自然に生まれてくる。「哲学」というのは「こと」のなかをとおりぬけてあらわれることばなんだろうなあ、と教えられる。
松岡は、このあと不思議なことばを動かしている。
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どうしていいかわからないからあいさつがあるのだろう
ランドセルを揺らしながら坂をかたまりおりてくる
ここらのこども、ここらのこども、
あいさつ以外はじゃまになる
すれ違いざまに次つぎと
「ただいまかえりました!」
そうなんだなあ。どうしていいかわからないときは、とりあえず「あいさつ」。「きわ」を自分の方からゆるめて、出会った人に、「私はあやしいものではありません」と告げる。
ここらのこども、ここらのこども、
あいさつ以外はじゃまになる
この2行も好きだなあ。こども--大人の(といっても、私の、ということなのだが)都合を考えないからね。子供は大人とは違う「こと」をしている。「こと」を生きている。「きわ」のつくりかたが違うのだ。
邪魔だねえ、という感じが、松岡の「肉体」と「こと」を「笑い」のなかで伝わってくる。
松岡のことばは「意味」から出発しても、しっかりと「肉体」へたどりついている。「肉体」をはなさずに、「こと」の内部へおりて行く。そして「哲学」をつかみとってくる。そういう安定感がある。
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