詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤恵子「ピアノ」、岡島弘子「ゆれている」

2011-07-12 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
斎藤恵子「ピアノ」、岡島弘子「ゆれている」(「交野が原」70、2011年04月20日発行)

 「わたし」を詩人はどんなふうにして描くか。
 斎藤恵子「ピアノ」は「わたし」を「女のひと」と向き合わせる形で書いている。

わたしのことをきらっていると思いました
こわいかおをしてわたしをちらりと見るや
目をそらすのです

 ここでは「女のひと」は「ことば」として登場していない。斎藤は「女のひと」を、できれば避けとおしたいのかもしれない。
 その「女のひと」と偶然、出会ってしまう。

外をあるいていると
女のひとがバイクに乗っていました
小屋のような大きな荷物を引いています
 案外かるいのよ
黒い布カバーの中から光るピアノが見えました
外側だけかもしれません
わたしのピアノのような気がします
もういらないと言ったのかもしれません
心にないことを言うのです わたしは

バイクをとめていえに誘ってくれました
一間のせまい部屋でした
奥のサッシの向こうに
ブロック塀が迫りツタが這っていました
ピアノを置いてすわったら
ドアがしまらなくて開けておきました
風が道から吹いてきます

紅茶をいただいていたら
ひとりでに鍵盤が鳴りました
はぐれた子が跳ねているのでしょう
女のひとはビールを飲みはじめました
わたしは紅茶のお代わりをしました
女のひとは声をあげて笑いました
泣きたくないからだと思いました

 「わたし」と「女のひと」の関係はあきらかにはされない。「女のひと」は「わたし」を「きらっている」ように思えると「わたし」は言うのだが、ここにかかれていることを読むと逆に感じられる。「女のひと」は「わたし」のことが好きなのである。
 でも、うまく、そういう関係が築けない。
 「わたし」にも原因があるかもしれない。

心にないことを言うのです わたしは

 「わたし」は「心にないことを言う」。そういう態度がどこかで「女のひと」と「わたし」のあいだに「壁」をつくっているということが考えられる。
 --ということは別にして、この1行は複雑である。
 もし、「わたし」の言うことが「心にないこと」なら、冒頭の1行「わたしのことをきらっていると思いました」のほんとうの「意味」は? 「わたしのことを好きなのだと思いました」だろうか。そして、「心にないことを言うのです わたしは」という1行は? ほんとうのこと? それとも、嘘?
 これは、区別がつかない。
 そして、区別のつかないことが、この世の中にはある。その区別のつかないことと向き合いながら斎藤は「わたし」を書いている。
 ピアノが比喩なのか、ほんものなのか、部屋に入らずにドアを開けたままというのはほんとうのことなのか、強調の形で書いた一種の「比喩」なのか。

ひとりでに鍵盤が鳴りました
はぐれた子が跳ねているのでしょう

 という行の「はぐれた子」とは「わたし」のことだろうか。それとも「女のひと」のことだろうか。また、「鍵盤が鳴りました」というのはほんとうのことなのか、「比喩」なのか。
 もちろん、「はぐれた子」も「鍵盤が鳴る」というのも「比喩」なのだが、その「比喩」は、そのとき「わたし」と「女のひと」に共有されたものなのか。
 詩なのだから、つまり詩として斎藤が書かずにはいられないことなのだから、これは「共有」されてはいない。斎藤だけが聞いた音楽であり、斎藤だけが目撃した「はぐれた子」になるのだが、そう考えたときも、「はぐれた子」というのが「わたし」なのか「女のひと」なのか、よくわからない。
 斎藤は、その「わからない」を「わからない」まま、「わたし」と「女のひと」に共有させたがっているように思える。
 「わからない」ことの方が「わかる」ことよりも、とても重要なのである。
 
女のひとは声をあげて笑いました
泣きたくないからだと思いました

 笑ったのは「泣きたくないからだ」というのはほんとうだろうか。もしかすると、「泣きたい」という気持ちを伝えたくて笑ったのかもしれない。
 「泣きたくない」ということばを書くとき、「泣きたい」という気持ちは、ほんとうは「わたし」にあるのかもしれない。「わたし」は泣きたくてしようがない。けれど、泣くのはいや。つまり、「泣きたい」のだけれど「涙は見せたくない」。そういう気持ちを「女のひと」のあり方として書くことで、自分のほんとうの気持ちを隠しているのかもしれない。「心にないことを言う」のが「わたし」だからである。

 なんだか奇妙な「構造」になっているが、この詩の中では「わたし」と「女のひと」としっかりと結びついていて区切りようがないのだ。「わたし」と「女のひと」という形で、外見上は別個な存在だが、「思い」のなかでは区別がない。
 --というか、すべて「わたし」の「思い」をくぐってから「女のひと」がことばとしてあらわれている。「女のひと」は「わたし」の「思い」そのものなのである。
 とても奇妙な言い方をすると、ここに書かれている「女のひと」というのは「わたし」が勝手に「共有」しているひとなのである。こんなふうに「共有」したいと願っているひとなのである。「女のひと」を書くことで、「わたし」の願いを書いているのである。

 「泣きたくない」というのは、とても不思議なことばである。「泣きたくない、泣きたくない、泣きたくない」と思っても、こらえぎれずに泣いてしまうのが人間である。
 「泣きたくないからだと思いました」と「わたし」が書くとき、そこには「泣いている」人間がいるのだ。
 それは「女のひと」であると同時に「わたし」でもある。
 「女のひと」を描きながら、ここから浮かび上がってくるのは「わたし」である。



 岡島弘子「ゆれている」。

うごきをとめてもゆれている
鏡の中の私がゆれている
鏡そのものがゆれている
鏡台がゆれている
鏡台にふれた私の腕がふるえているのだ

鏡台をおさえてもゆれている
私の瞳の中の水がゆれるのだ
水滴の中のいのちのねもとがゆらしているのだ
ふるえてゆれて
甲州のやまなみを越えて
さざなみたつ
風にゆれるサトイモの葉の上で みずたまもおどる
畑がなみうつ 甲州街道がしんどうする
県有林がきしむ
盆地を抱いた山梨県という巨大な
すりばちがずれる
富士山が火山微動する 

 込み上げる涙のために、世界がゆれる。それは、いわば錯覚なのだが、この錯覚が気持ちがいいのは「ゆれている」が「ゆらしている」に変わる瞬間があるからだ。
 斎藤の詩には「わたし」と「女のひと」の区別がなかったが、岡島の詩には「私」と「世界」の区別がはっきりしている。「ゆれている」と書いたとき、「私」と「世界」はいっしょになって震えている。「共震」している。斎藤は、いわば、この「共震」する「感情」を「わたし」と「女のひと」とのあいだでもちたいと願っていた。けれど、岡島は「共震」を脱けだす。

水滴の中のいのちのねもとがゆらしているのだ

 この行までは、岡島のことばは、いわば「私」の中心(いのちのねもと)に向かって内向するのだが、いったん、「中心」にまでたどりつくと、そこから反転する。外側へ向かっていく。
 次の行の、

ふるえてゆれて

 は、もう「私」のことではない。「私」が「ゆらす」から、「甲州のやまなみ」さえもふるえてゆれるのだ。
 そして、このときの「私」と「世界」の関係についていえば、岡島は「ゆらしている」ものが「いのちのねもと」と書くことで、「私」を絶対的な存在だと断言する。「私」の絶対性を宣言する。「私」が「いのち」であり、「私」には「世界」を「ゆらす」権利がある。
 「いのち」こそが絶対的に尊いものだからである。

 詩の最後に、「ゆらしている・私」が「ゆれる・私」になって登場するが、それは「世界」にゆすられて、ゆれる私ではない。

大地ははるか下でかたむく
さらにたかみをめざして
ゆれているのは 私自身だ

 岡島の「私」は「私」と「私以外の存在」を明確に区別し、「私」を「さらなるたかみ」へと動かしていく。このとき「私」が「ゆれる」のは、より強く「世界」をゆるすだめである。そして、ここで書かれている「私」とは「いのちのねもと」である。「私」と「いのちのねもと」(いのち)は岡島にとっては同じものである。



 いのちと「わたし」の同一視は斎藤にもあるかもしれない。ただし、斎藤の場合、その「いのち」を「わたし」に限定しない。「女のひと」もまた「いのち」である。そして「いのち」であるということで、「ゆする」よりもさきにいっしょに震えてしまうのかもしれない。震えてしまって、震えの中で「わたし」と「他者」が区別がつかなくなる。そうして、その「区別がつかなくなること」「わからなくなること」をとおして、「わかる」というか、「わかりあう」。
 斎藤にとってわかり「あう」ということが大切なのだろう。「あう」は「合う」であり「会う」でもある。岡島は「あう」ということを斎藤ほどは重視していない。「あう」よりも、強く自分と他者との区別をはっきりさせることをめざしている。はっきりさせればさせるほど、「いのちのねもと」に近づくと考えている。
 斎藤が、いわば横(水平)に広がる世界なのに対し、岡島は縦(垂直)に深まる(高まる)世界である。
 

夕区
斎藤 恵子
思潮社


野川
岡島 弘子
思潮社
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アントン・コービン監督「ラスト・ターゲット」(★★★★)

2011-07-12 22:29:44 | 映画
監督 アントン・コービン 出演 ジョージ・クルーニー、ヴィオランテ・プラシド、テクラ・リューテン、パオロ・ボナチェリ

 とても美しい映画である。映像が美しい。動く映像ではなく、静止した映像が美しい。映像は静止しているけれど、それは「過去」という「重い時間」を内にもっているから静止しているだけである。そして、その「重い時間」は、実は、動いている。人間以上に動いている--というのが、この映画である。(アクションは最小限におさえられている。まるでスチール写真をつなぎあわせたような静止した映画である。)

 ジョージ・クルーニーは殺し屋であり、同時に殺しのための銃をつくる職人でもある。この「職人」の部分が、この映画の細部に生かされている。材料をそろえる。それをていねいに加工し、組み立てる。銃弾までも手作りである。手に触れて、手になじんで、ものは美しくなってゆく。アクションは、このていねいさのなかに集約されている。
 古い街並みの美しさ、調度の美しさは、人間の手になじんで美しくなるものの代表だが、荒れた野原の毅然とした美しさにもまた人間の手が触れている。しっかりとつくられた道路。その「人工」が荒野を引き裂くとき、それに拮抗するように「神」の手が自然に触れて、全体をととのえなおす--そういう印象がわきおこってくる。(神父が重要な役割を果たしているのも、「神の手」の仕事を暗示している。)
 手が触れることで美しくなる--それは人間も同じである。
 ジョージ・クルーニーは殺し屋なのだが、古いイタリアの街で出会った娼婦に「触れて」、何かが少しずつかわっていく。娼婦もまたジョージ・クルーニーに「触れる」ことで変わっていく。触れ合い、なじむことで、美しさを手に入れる。--それは、ジョージ・クルーニーのような殺し屋が手に入れてはいけないものなのだが、手に入れてしまうのだ。
 娼婦とのセックスのあと、ジョージ・クルーニーは「快楽は、おれが求めるものであって、おまえに与えるものではない」というのだが、その「一線」を越えてしまう。つまり、快楽を娼婦に与え、娼婦がいっそう美しくなり、それがジョージ・クルーニーに跳ね返ってくる。偶然、手に入れてしまう。夜の快楽だけではない、昼の、セックスをしていないときの女の輝く美しさ。
 ジョージ・クルーニーの手が触れて、「いま」という時間が動きはじめるのだが、その「いま」の背後で「過去」の方がはるかにはげしく動く。つまり、「過去」が組み換えられようとする。言い換えると、ここからジョージ・クルーニーの人生(?)が狂っていく。ジョージ・クルーニーは「殺し屋稼業」から足を洗いたいと思うようになる。この変化を、この映画は、アクションではなく、沈殿する「時間」としてスクリーンに定着させていく。
 これが、とてもとてもとても、美しいのである。
 イタリアの古い街をジョージ・クルーニーの逃避行(潜伏場所)にしたことが、この映画の成功の一つかもしれないが、その街の古い石畳、入り組んだ路地--そこに沈殿している「時間」と、ジョージ・クルーニーの「時間」が重なり、深みを増してゆく。そこに生きている人々の「時間」がジョージ・クルーニーを静かに照らしだすのである。
 伏流の「時間」がある。
 ジョージ・クルーニーがたまたま出会った、その街の神父の「時間」が重なる。彼には隠し子がいる。どうすることもできない「歴史」がある。そういう「語れない秘密・秘密としての歴史」があって、人間は、美しくなるのだ。「時間・歴史」は美しさを支える「土台」なのである。(ジョージ・クルーニーが出会う娼婦も、その美しさの奥に、「娼婦」という「時間」がある)。

 不満をひとつ。
 映画そのものに対してではない。日本語のタイトルについてである。
 神父はジョージ・クルーニーの「暗い部分」(語ることのできない、公にできない「時間」)を感じるからこそ、彼に接近し、何事かを助言しようとする。その過程で、とてもいいことばのやりとりがある。
 ジョージ・クルーニーはカメラマンであると嘘をつく。そしてイタリアの「歴史」には興味がないという。神父は、「歴史」に関心がないのはアメリカ人だからだと断言する。「歴史」に関心をもたない生き方は感心しない。イタリアの歴史を知ってほしいと言うのである。ここでは直接的には「歴史」はイタリアの「歴史」であるけれど、実際に神父が言いたいのは「人間そのものの歴史・時間」ということである。(殺し屋は人間の「歴史」を突然奪うもの--という批判が、ここには含まれているかもしれない。)
 そして、この「会話」から映画の原題「The American」が生まれているのだが、日本語のタイトルの「ラスト・ターゲット」は、これを無視していて、ちょっとひどい。「アメリカ人」と「イタリア人」、「アメリカ」と「ヨーロッパ」、「薄っぺらないま」と「厚みのある歴史」という対比が、日本語のタイトルからは消えてしまった。
 映画なのだから、タイトルやことばというのはどうでもいいといえばどうでもいいのかもしれないが、この映画のように、アクションで見せるのではなく、静止で見せる映画では、ストーリーの展開とは無関係な「静止した台詞」に重要な「意味」があるのだから、きちんと掬い取ってもらいたい。




 私はこの映画をt-joy 博多の3番シアターで見た。3月にオープンしたシネコンだが、音が大きすぎてうんざりした。ユナイテッドシネマ(キャナルシティ)も音が大きすぎて見にゆく気がしない。どこのシネコンも同じなのだろうか。
 

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