詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川上明日夫『川上明日夫詩集』(2)

2011-07-30 23:59:59 | 詩集
川上明日夫『川上明日夫詩集』(2)(思潮社、現代詩文庫192 、2011年06月20日発行)

 ひとはことばをどんなふうに肉体に取り込むのだろうか。川上明日夫の場合、「音」に対する嗜好にそって、ことばを取り込んでいるように思えてならない。
 それはそれでいいのだが、というと、ちょっと傲慢な言い方になってしまうかもしれないが、そういうことばの取り込み方を私は嫌いではない。
 しかし。
 この、音の嗜好を中心にことばをとりこむという方法は、とても難しい。いや、取り込んでいる川上自身にとっては難しいことではないのだけれど、読む方として、難しい。
 言い方を変える。
 たとえば食べ物がある。そして誰にでも食べ物に対する嗜好がある。甘いものが好き。辛いものが好き。酸っぱいものが好き。苦いものが好き。そして、そういう嗜好を生きているとき、たとえば私は苦いもの(癖のあるもの)が大好きなので私の嗜好を中心にしていうと、私はチョコレートでもビターなものが好きである。で、私がカカオ90%のチョコレートを食べているとき、誰かが「私も甘いものが好き」と言いながら甘ったるいチョコレートの箱を開けたりすると、ちょっとぞくっとする。そして、そのひとが実際にそのチョコを食べ、その話すことばから「甘い息」がもれてくると、あ、つらいなあ、と感じるときがある。
 何かそれに似た瞬間があるのだ。川上のことばには。

まるい乳房に風をしつらえては
そのひ 水の峠をあなたが
ひくく渡った
染めるには もう とほいできごと
                           (「旅、女ひと染めて」)

 この4行。「とほいできごと」の「とほい」だけが、なぜか旧かなになっている。それを読むとき、私はしかし「とほい」にはつまずかない。ここは「とほい」が美しいと思う。それは、その「ひ」、「ひ」くく、染めるに「は」と「は行」がつづくからである。その「は行」の音のなかで「とおい」が「とほい」になるのはとても自然である。だから、美しいと感じる。
 そして、そう感じた瞬間、肉体の奥から「ぞくっ」がするものが走る。
 いや、これは、正確ではないなあ。
 最初から書き直してみよう。

 「旅、女ひと染めて」という作品がある。タイトルは、とても変である。変である、というのは、私はそういうことばづかいをしない、なじめないということでもある。
 その書き出し。

花のこもった女がいい
天のこもった花がいい
 染めるには もう とほいできごと

 「とほい」はまず3行目に登場する。なぜ旧かななのかわからないが、まあ、書きたいから書くだけなのだと思って読む。同時に繰り返される「花(はな)」という音に「は行」を感じるので、その音のために川上は「とほい」という音を無意識にえらんでいるのだろうと納得する。
 詩のタイトルにはなじめないが、書き出しの3行には、私の肉体はすっとなじむ。
 そしてなじめる音、なじみにくい音のなかをたどってきて、

まるい乳房に風をしつらえては

 にきたとき、私は、ぞくっとする。「しつらえては」が読みづらい。私は音読はしないが、もし声に出すとしたら、ここで絶対につまずいてしまう。「声」の調子が変わってしまう。
 そして、そのつまずいた「肉体」を、

そのひ 水の峠をあなたが
ひくく渡った
染めるには もう とほいできごと

 が、ゆっくり立て直してくれるのを感じる。そして、直前の「しつらえては」が、あ、ひどい「音」とあらためて思うのである。
 最初に読んだときに感じた違和感を、あらためて思い返し、「ぞくっ」と感じたことが、「感じ」ではなく「確信」になってしまう。
 「しつらえては」ではなく「しつらへては」にすればいいのに。そうすれば、とても落ち着くのに、「音」が「音楽」にまで昇華するのに、と思うのである。

 私の書いているのは単なる「音」の好みにすぎなくて、そういうものは「意味」とは無関係だから、詩にはあまり重要ではない--という意見があるかもしれない。
 しかし、私はだめなのである。「音」につまずくと、ことばが読めないのである。

寂しさなら
藍のいろがいいだろう
ききょう という花ことばひとつ
連れそって
やがてわたしも 人に
秋 る
ああ 旅せんか都忘れの咲く頃を
越前(えちぜん) 道守荘(ちもりのしょう) 社郷(やしろのさと)
狐川
やわらかな
おとこの背中にそそのかされて は
おいで おいで と
暮れてゆく

 「おとこの背中にそそのかされて は」という行の「は」だけが独立しているように、この詩では「は行」の音がおもしろい具合に動いている。「いう」は「いふ」、「やわらか」は「やはらか」にすると、その「音」の展開がもっとわかりやすいかもしれない。
 しかし私は「しつらえては」で一度つまずいているので、いま指摘した部分ではつまずかない。その表記が、もう気にならなくなっている。
 けれど。

連れそって

 ここが、我慢ができない。「連れそふ」の「ふ」が「っ」になって、「は行」が完全に消えるその瞬間に、この行は違う、と感じてしまうのである。
 「声」にこだわっている(と、私には感じられる)川上が、どうしてこんな「音」を「声」にしようとするのか、それがわからない。
 で、といえばいいのか、だから、といえばいいのか……。

越前 道守荘 社郷
狐川

 詩集のなかに何度も繰り返される、この美しい音。エッジの明確な音を、川上はどうやって「肉体」のなかに置いているのか--そのことが急に疑問になる。
 私は、その地名の美しさに触れるだけのためのようにして、川上の詩を次々へと読み進むのだが、「音」の関係がどうにも納得できない。
 きのう私は、「越前 道守荘 社郷/狐川」という「他人の音」が川上の音を洗い清めるというような印象を持ったのだが、うーん、洗い清まらない。
 川上のことばがたとえば川を流れる「水」だとすれば、「越前 道守荘 社郷/狐川」は川のなかの「岩」かもしれない。岩にぶつかり、水は砕けて、またひとつになる。砕けながら空気に触れて輝く--ということが、たぶん川上の詩のなかでは起きているのだが、ときどき、その水が砕けて飛び散る音のなかに、とても変なものがまじっていると私は感じてしまう。

 「肉体」があわない。そう感じてしまった。申し訳ないが。




川上明日夫詩集 (現代詩文庫)
川上 明日夫
思潮社



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フェデリコ・フェリーニ監督「甘い生活」(★★★★)

2011-07-30 20:08:01 | 映画
監督 フェデリコ・フェリーニ 出演 マルチェロ・マストロヤンニ 、アニタ・エクバーグ、アヌーク・エーメ、 レックス・バーカー

 この映画は「はったり」が強い。冒頭のキリスト像をヘリコプターで運ぶシーンなど、なんの意味もない。「はったり」である。観客をびっくりさせるだけのものである。けれど、いいなあ、つりさげられたキリストの像の影がビルの壁に一瞬映るシーンの、一回限りの美しさ。これは、その後繰り広げられる「どんちゃん騒ぎ」のなかにも、ふっと姿をあらわす「美」の瞬間を暗示している。(モランディの絵は完璧だ、と突然話すシーンとかね。)
 そして何よりも、まったく無意味と見えるヘリコプターのマルチェロ・マストロヤンニとビルの屋上の美女の声が聞こえないやり取り――これがラストシーンでは、海辺の溝を挟んだマルチェロ・マストロヤンニと少女の会話(?)によみがえる見事さ。
 ヘリのマルチェロ・マストロヤンニと美女たちのやりとりは、もちろん聞こえない。声は美女たちだけ、マルチェロ・マストロヤンニは口は動いているが声は聞こえない。聞こえないけれど、言っていることは美女たちに伝わる。「電話番号を教えろって」云々。
 ラストの海辺では、マルチェロ・マストロヤンニの声は聞こえる。「聞こえない」と叫んでいる声が聞こえる。少女の声はまったく聞こえない。何を言っているか、マルチェロ・マストロヤンニにはわからない。そのわからない声と、純粋な声を背にして、マルチェロ・マストロヤンニは彼が元いた場所へと引き返してゆく。
 どちらも、女と別れ、女の世界へ――という構図になるけれど、ラストが清純・無垢な少女の顔のアップで終わるところが、悩ましいねえ。
 深い溝(といっても、歩いて渡れないことはない深さだけれど)を渡って少女の方へ歩み出せば、マルチェロ・マストロヤンニも変わる可能性があるのだろうけれど、それには背を向けてしまう。背をむけたマルチェロ・マストロヤンニに、それでも少女は透明な視線を送り続けている。
 どこかで、だれかが、そういう無垢な目で見つめていてくれる――というのが、フェリーニの甘い夢なのかなあ。
 あ、この映画の、肝心の「中身」が抜けてしまったね。
 ファーストシーンとラストシーンに挟まれた、なんともしれない「社交界」の、無軌道な生活。これも「はったり」のたぐいだが(ビスコンティと比べてだけれど・・・)、瞬間瞬間が、意味もなくおもしろい。とても充実している。充実しすぎたために、無意味に長くなっている感じがするけれど、やっぱり、ローマだなあ。ローマ帝国の力だなあと思う。誰が何をしていようが、世界はつづいてゆく、ということを信じ切っているというか、つづいてしまう世界に絶望しているというか。・・・倦怠だねえ。モラビアの文体を思い出してしまう。崩れない文体の持続力――じゃなかった、映画だから、崩れない映像文体というべきか。映像文体が揺るがないのが、この映画の力だ。そして、その映像を不思議な力で支えているのがマルチェロ・マストロヤンニである。ときどき寂しげな色になる目(モノクロだけど、目の色の変化を感じる)、少し長めの鼻の下の緊張感の欠如(?)、そして立ち姿の自然さ。他者との距離の取り方に余裕がある。自分で世界を開いてゆくという感じではなく、世界がどんなふうに展開してもそこに存在していられる間合いが面白い。
(「午前10時の映画祭」青シリーズ26本目、天神東宝3、07月



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