川上明日夫『川上明日夫詩集』(2)(思潮社、現代詩文庫192 、2011年06月20日発行)
ひとはことばをどんなふうに肉体に取り込むのだろうか。川上明日夫の場合、「音」に対する嗜好にそって、ことばを取り込んでいるように思えてならない。
それはそれでいいのだが、というと、ちょっと傲慢な言い方になってしまうかもしれないが、そういうことばの取り込み方を私は嫌いではない。
しかし。
この、音の嗜好を中心にことばをとりこむという方法は、とても難しい。いや、取り込んでいる川上自身にとっては難しいことではないのだけれど、読む方として、難しい。
言い方を変える。
たとえば食べ物がある。そして誰にでも食べ物に対する嗜好がある。甘いものが好き。辛いものが好き。酸っぱいものが好き。苦いものが好き。そして、そういう嗜好を生きているとき、たとえば私は苦いもの(癖のあるもの)が大好きなので私の嗜好を中心にしていうと、私はチョコレートでもビターなものが好きである。で、私がカカオ90%のチョコレートを食べているとき、誰かが「私も甘いものが好き」と言いながら甘ったるいチョコレートの箱を開けたりすると、ちょっとぞくっとする。そして、そのひとが実際にそのチョコを食べ、その話すことばから「甘い息」がもれてくると、あ、つらいなあ、と感じるときがある。
何かそれに似た瞬間があるのだ。川上のことばには。
この4行。「とほいできごと」の「とほい」だけが、なぜか旧かなになっている。それを読むとき、私はしかし「とほい」にはつまずかない。ここは「とほい」が美しいと思う。それは、その「ひ」、「ひ」くく、染めるに「は」と「は行」がつづくからである。その「は行」の音のなかで「とおい」が「とほい」になるのはとても自然である。だから、美しいと感じる。
そして、そう感じた瞬間、肉体の奥から「ぞくっ」がするものが走る。
いや、これは、正確ではないなあ。
最初から書き直してみよう。
「旅、女ひと染めて」という作品がある。タイトルは、とても変である。変である、というのは、私はそういうことばづかいをしない、なじめないということでもある。
その書き出し。
「とほい」はまず3行目に登場する。なぜ旧かななのかわからないが、まあ、書きたいから書くだけなのだと思って読む。同時に繰り返される「花(はな)」という音に「は行」を感じるので、その音のために川上は「とほい」という音を無意識にえらんでいるのだろうと納得する。
詩のタイトルにはなじめないが、書き出しの3行には、私の肉体はすっとなじむ。
そしてなじめる音、なじみにくい音のなかをたどってきて、
にきたとき、私は、ぞくっとする。「しつらえては」が読みづらい。私は音読はしないが、もし声に出すとしたら、ここで絶対につまずいてしまう。「声」の調子が変わってしまう。
そして、そのつまずいた「肉体」を、
が、ゆっくり立て直してくれるのを感じる。そして、直前の「しつらえては」が、あ、ひどい「音」とあらためて思うのである。
最初に読んだときに感じた違和感を、あらためて思い返し、「ぞくっ」と感じたことが、「感じ」ではなく「確信」になってしまう。
「しつらえては」ではなく「しつらへては」にすればいいのに。そうすれば、とても落ち着くのに、「音」が「音楽」にまで昇華するのに、と思うのである。
私の書いているのは単なる「音」の好みにすぎなくて、そういうものは「意味」とは無関係だから、詩にはあまり重要ではない--という意見があるかもしれない。
しかし、私はだめなのである。「音」につまずくと、ことばが読めないのである。
「おとこの背中にそそのかされて は」という行の「は」だけが独立しているように、この詩では「は行」の音がおもしろい具合に動いている。「いう」は「いふ」、「やわらか」は「やはらか」にすると、その「音」の展開がもっとわかりやすいかもしれない。
しかし私は「しつらえては」で一度つまずいているので、いま指摘した部分ではつまずかない。その表記が、もう気にならなくなっている。
けれど。
ここが、我慢ができない。「連れそふ」の「ふ」が「っ」になって、「は行」が完全に消えるその瞬間に、この行は違う、と感じてしまうのである。
「声」にこだわっている(と、私には感じられる)川上が、どうしてこんな「音」を「声」にしようとするのか、それがわからない。
で、といえばいいのか、だから、といえばいいのか……。
詩集のなかに何度も繰り返される、この美しい音。エッジの明確な音を、川上はどうやって「肉体」のなかに置いているのか--そのことが急に疑問になる。
私は、その地名の美しさに触れるだけのためのようにして、川上の詩を次々へと読み進むのだが、「音」の関係がどうにも納得できない。
きのう私は、「越前 道守荘 社郷/狐川」という「他人の音」が川上の音を洗い清めるというような印象を持ったのだが、うーん、洗い清まらない。
川上のことばがたとえば川を流れる「水」だとすれば、「越前 道守荘 社郷/狐川」は川のなかの「岩」かもしれない。岩にぶつかり、水は砕けて、またひとつになる。砕けながら空気に触れて輝く--ということが、たぶん川上の詩のなかでは起きているのだが、ときどき、その水が砕けて飛び散る音のなかに、とても変なものがまじっていると私は感じてしまう。
「肉体」があわない。そう感じてしまった。申し訳ないが。
ひとはことばをどんなふうに肉体に取り込むのだろうか。川上明日夫の場合、「音」に対する嗜好にそって、ことばを取り込んでいるように思えてならない。
それはそれでいいのだが、というと、ちょっと傲慢な言い方になってしまうかもしれないが、そういうことばの取り込み方を私は嫌いではない。
しかし。
この、音の嗜好を中心にことばをとりこむという方法は、とても難しい。いや、取り込んでいる川上自身にとっては難しいことではないのだけれど、読む方として、難しい。
言い方を変える。
たとえば食べ物がある。そして誰にでも食べ物に対する嗜好がある。甘いものが好き。辛いものが好き。酸っぱいものが好き。苦いものが好き。そして、そういう嗜好を生きているとき、たとえば私は苦いもの(癖のあるもの)が大好きなので私の嗜好を中心にしていうと、私はチョコレートでもビターなものが好きである。で、私がカカオ90%のチョコレートを食べているとき、誰かが「私も甘いものが好き」と言いながら甘ったるいチョコレートの箱を開けたりすると、ちょっとぞくっとする。そして、そのひとが実際にそのチョコを食べ、その話すことばから「甘い息」がもれてくると、あ、つらいなあ、と感じるときがある。
何かそれに似た瞬間があるのだ。川上のことばには。
まるい乳房に風をしつらえては
そのひ 水の峠をあなたが
ひくく渡った
染めるには もう とほいできごと
(「旅、女ひと染めて」)
この4行。「とほいできごと」の「とほい」だけが、なぜか旧かなになっている。それを読むとき、私はしかし「とほい」にはつまずかない。ここは「とほい」が美しいと思う。それは、その「ひ」、「ひ」くく、染めるに「は」と「は行」がつづくからである。その「は行」の音のなかで「とおい」が「とほい」になるのはとても自然である。だから、美しいと感じる。
そして、そう感じた瞬間、肉体の奥から「ぞくっ」がするものが走る。
いや、これは、正確ではないなあ。
最初から書き直してみよう。
「旅、女ひと染めて」という作品がある。タイトルは、とても変である。変である、というのは、私はそういうことばづかいをしない、なじめないということでもある。
その書き出し。
花のこもった女がいい
天のこもった花がいい
染めるには もう とほいできごと
「とほい」はまず3行目に登場する。なぜ旧かななのかわからないが、まあ、書きたいから書くだけなのだと思って読む。同時に繰り返される「花(はな)」という音に「は行」を感じるので、その音のために川上は「とほい」という音を無意識にえらんでいるのだろうと納得する。
詩のタイトルにはなじめないが、書き出しの3行には、私の肉体はすっとなじむ。
そしてなじめる音、なじみにくい音のなかをたどってきて、
まるい乳房に風をしつらえては
にきたとき、私は、ぞくっとする。「しつらえては」が読みづらい。私は音読はしないが、もし声に出すとしたら、ここで絶対につまずいてしまう。「声」の調子が変わってしまう。
そして、そのつまずいた「肉体」を、
そのひ 水の峠をあなたが
ひくく渡った
染めるには もう とほいできごと
が、ゆっくり立て直してくれるのを感じる。そして、直前の「しつらえては」が、あ、ひどい「音」とあらためて思うのである。
最初に読んだときに感じた違和感を、あらためて思い返し、「ぞくっ」と感じたことが、「感じ」ではなく「確信」になってしまう。
「しつらえては」ではなく「しつらへては」にすればいいのに。そうすれば、とても落ち着くのに、「音」が「音楽」にまで昇華するのに、と思うのである。
私の書いているのは単なる「音」の好みにすぎなくて、そういうものは「意味」とは無関係だから、詩にはあまり重要ではない--という意見があるかもしれない。
しかし、私はだめなのである。「音」につまずくと、ことばが読めないのである。
寂しさなら
藍のいろがいいだろう
ききょう という花ことばひとつ
連れそって
やがてわたしも 人に
秋 る
ああ 旅せんか都忘れの咲く頃を
越前(えちぜん) 道守荘(ちもりのしょう) 社郷(やしろのさと)
狐川
やわらかな
おとこの背中にそそのかされて は
おいで おいで と
暮れてゆく
「おとこの背中にそそのかされて は」という行の「は」だけが独立しているように、この詩では「は行」の音がおもしろい具合に動いている。「いう」は「いふ」、「やわらか」は「やはらか」にすると、その「音」の展開がもっとわかりやすいかもしれない。
しかし私は「しつらえては」で一度つまずいているので、いま指摘した部分ではつまずかない。その表記が、もう気にならなくなっている。
けれど。
連れそって
ここが、我慢ができない。「連れそふ」の「ふ」が「っ」になって、「は行」が完全に消えるその瞬間に、この行は違う、と感じてしまうのである。
「声」にこだわっている(と、私には感じられる)川上が、どうしてこんな「音」を「声」にしようとするのか、それがわからない。
で、といえばいいのか、だから、といえばいいのか……。
越前 道守荘 社郷
狐川
詩集のなかに何度も繰り返される、この美しい音。エッジの明確な音を、川上はどうやって「肉体」のなかに置いているのか--そのことが急に疑問になる。
私は、その地名の美しさに触れるだけのためのようにして、川上の詩を次々へと読み進むのだが、「音」の関係がどうにも納得できない。
きのう私は、「越前 道守荘 社郷/狐川」という「他人の音」が川上の音を洗い清めるというような印象を持ったのだが、うーん、洗い清まらない。
川上のことばがたとえば川を流れる「水」だとすれば、「越前 道守荘 社郷/狐川」は川のなかの「岩」かもしれない。岩にぶつかり、水は砕けて、またひとつになる。砕けながら空気に触れて輝く--ということが、たぶん川上の詩のなかでは起きているのだが、ときどき、その水が砕けて飛び散る音のなかに、とても変なものがまじっていると私は感じてしまう。
「肉体」があわない。そう感じてしまった。申し訳ないが。
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