神尾和寿「過去形」(2)、「まっぱだか」(「ガーネット」64、2011年07月01日発行)
神尾和寿「過去形」。きのう、「時間」にこだわってしまって書き漏らしたことがある。
1行だけ、ふいに長くなっている「軽快にふるまった中指と人指し指の先端を見つめる」の、具体的に「肉体」がいいなあ。中指と人指し指。ではなく、「先端」。
で、その指の「先端」を「見つめる」とき、ほんとうは指先しか見えないはずなのに、なぜだろう。「君の」「ながい睫毛」が見える。記憶のなかの目に。さらに「その次の次の 花火」が見える。記憶の目のなかに。
いや、これは「目」じゃないね。
「軽快にふるまった」という「過去形」。「過去」とはきっと「肉体」のなかにしまいこまれて「時間」である。いま、肉体(指)は軽快にふるまっていはない。でも、肉体はその「軽快」も「ふるまい」も覚えている。そして、そのときの「目」も肉体のなかにある。「君の」「ながい睫毛」「その次の次の 花火」を見たのは「肉眼」なのである。「肉体」のなかにある「目」、外からは見えない「肉体の内部」になってしまった目。
そして、その肉体の内部になってしまった目は、肉体の内部でほかの肉体と深く結びついている。
これは神尾の「肉体の内部の耳」が覚えていることである。「いま」の耳ではない。「過去」の耳。君は声を殺している。そのときの、「無音」。耳は音を聞くと同時に、音のない音をも聞いてしまう。
そして、その耳は実は耳ではない。「声がでない」。声を出すのは喉、口、舌である。
さらにその喉、口、舌は、神尾のものではない。「君の」ものである。
それなのに、神尾は理解してしまう。「君」が声を殺していることを。
神尾の肉体は、中指と人指し指で「君」とつながっているのではない。それは、単に触れているだけのこと。神尾の肉体は、「肉眼」と「肉耳」、そして「肉喉(肉口、肉舌))」で「君」とつながっている。
だからこそ、「君」の体のなかで起きること、「その次の次の 花火」がわかるのだ。神尾自身の「肉体」としてわかるのだ。
この「肉体感覚」がおもしろい。
「まっぱだか」も神尾の「肉体」が他人の「肉体」とつながってしまう瞬間を描いている。
この詩は、「時間」ではなく「場」というものをテーマにしている。スクリーンがあって、「ここ」がある。それは確実に離れている。つながってはいない。それなのに「肉体」はつながってしまう。この不思議。唇を噛む「OLさん」(ほんとうは女優)と神尾の肉体の接点というのはどこにもない。それなのに、OLの肉体のなかに起きていること(女優の肉体のなかに起きていること)を、神尾の肉体は感じてしまう。OL(女優)の「肉眼」が見ているもの、OL(女優)の喉のなかで固まっている声を感じてしまう。そのOLの肉体というのは「架空」のもの、「虚構」なのに。
なぜ?
私たちが「肉体」を生きているからだ。
神尾はまさか誘拐されて、「まっぱだかにしてやるぞ」と脅されたことはないだろう。(そんなことを経験した人間はほとんどいない)。そこにある「肉体」は神尾の知らないことを「体験」している。けれど、その「体験」がわかってしまう。それは「肉眼」「肉耳」「肉喉」「肉舌」というものは、いくつもの「過去」を抱え込み、融合しているからだ。何か怖いことを感じた瞬間の「肉眼」「肉耳」「肉喉」「肉舌」の記憶が、まだ経験していない恐怖と結びつき、肉体のなかを動く。
「肉体」は経験していないことさえ、経験している以上に感じとってしまう。
だからこそ、女優(役者)という職業も成り立つのだろう。自分の「肉体」のなかにあるいくつもの「肉眼」「肉耳」「肉喉」「肉舌」を動かして、「誘拐されたOL」になることができるのだ。
肉体のなかにある「肉眼」「肉耳」「肉喉」「肉舌」の動き--これを「存在感」というのかもしれない。
「時間」も「場」も広がりをもつ。「場」を「空間」と書き換えてみると、「時間」と「空間」はそれぞれ「間(あいだ)」をもっていることがわかる。その「間」はいつでも伸縮自在である。伸び縮みする。--というか、突然、重なってしまう。区別がつかなくなる。
その区別をつかなくしてしまうのが「肉体」である。
区別がつかない、混沌、というものを「頭」は拒否するけれど、どうもその「頭」が拒否している「区別のつかないもの」のなかにこそ「思想」があると私は感じる。「思想」とは「ひと」と「ひと」をつなぐもののことである。そこには「肉体」が重要な役割を果たしている。
「肉体」こそが「思想」である。
*
少し余計なことを書きすぎたようだ。詩に戻る。
これは「ひんむいてまっぱだかにしてやるぞ」という男のことばを解説(?)したものだが、えっ、そうなの? 私はびっくりして笑いだしてしまった。「ひんむいてやる」ということばを聞いたとき、神尾はバナナや何かの果物を想像するの? 私はバナナなんか想像したことがない。私は、破られるシャツや何かも想像したことがない。私はよっぽどスケベなのか、「ひんむく」の先を想像してしまうのである。ぷるんとはみだす乳房。それを隠そうとする女の手つき。「ひんむく」ではなく「ひんむかれる」。そして「ひんむかれて」あらわになる「肉体」を想像してしまう。
だからね、
嘘。嘘つきだなあ。
「ひんむかれて」あらわになるのが「肉体」そのものなら、それから先に起きることはいつだってたったひとつしかない。意図というか、目的というか、狙いは、もう語る必要はない。
「意図」なんていう気取ったことばをつかうから「分からない」ということばがぶら下がってくるんだよ。
だから、まあ、この神尾の「嘘」は、いっしゅのお遊び。軽いユーモアだね。私は大笑いしてしまったけれどね。
「ガーネット」は、高階杞一の「意図」なのかどうかわからないけれど、こういう「軽い笑い」「軽いことば」のおもしろさがふわーっと出てくる作品が多い。
神尾和寿「過去形」。きのう、「時間」にこだわってしまって書き漏らしたことがある。
帰りの満員電車のなかで
痴漢行為に走ったのも
思い出か
軽快にふるまった中指と人指し指の先端を見つめる
君の
声が出ない
すかさず
ながい睫毛
その次の次の 花火
1行だけ、ふいに長くなっている「軽快にふるまった中指と人指し指の先端を見つめる」の、具体的に「肉体」がいいなあ。中指と人指し指。ではなく、「先端」。
で、その指の「先端」を「見つめる」とき、ほんとうは指先しか見えないはずなのに、なぜだろう。「君の」「ながい睫毛」が見える。記憶のなかの目に。さらに「その次の次の 花火」が見える。記憶の目のなかに。
いや、これは「目」じゃないね。
「軽快にふるまった」という「過去形」。「過去」とはきっと「肉体」のなかにしまいこまれて「時間」である。いま、肉体(指)は軽快にふるまっていはない。でも、肉体はその「軽快」も「ふるまい」も覚えている。そして、そのときの「目」も肉体のなかにある。「君の」「ながい睫毛」「その次の次の 花火」を見たのは「肉眼」なのである。「肉体」のなかにある「目」、外からは見えない「肉体の内部」になってしまった目。
そして、その肉体の内部になってしまった目は、肉体の内部でほかの肉体と深く結びついている。
君の
声が出ない
これは神尾の「肉体の内部の耳」が覚えていることである。「いま」の耳ではない。「過去」の耳。君は声を殺している。そのときの、「無音」。耳は音を聞くと同時に、音のない音をも聞いてしまう。
そして、その耳は実は耳ではない。「声がでない」。声を出すのは喉、口、舌である。
さらにその喉、口、舌は、神尾のものではない。「君の」ものである。
それなのに、神尾は理解してしまう。「君」が声を殺していることを。
神尾の肉体は、中指と人指し指で「君」とつながっているのではない。それは、単に触れているだけのこと。神尾の肉体は、「肉眼」と「肉耳」、そして「肉喉(肉口、肉舌))」で「君」とつながっている。
だからこそ、「君」の体のなかで起きること、「その次の次の 花火」がわかるのだ。神尾自身の「肉体」としてわかるのだ。
この「肉体感覚」がおもしろい。
「まっぱだか」も神尾の「肉体」が他人の「肉体」とつながってしまう瞬間を描いている。
「ひんむいてまっぱだかにしてやるぞ」
と 人相の悪いおとこが
誘拐してきたOLさんに対して
凄んだ
人間をバナナなどの果実に見立てた上での
表現である
しかし それから先の意図は分からない
OLさんは
唇を ぐっと噛みしめて
さっきから震えている
スクリーンのなかの 名場面である
お金を払って
ぼくは 今ここに坐って
見ている
この詩は、「時間」ではなく「場」というものをテーマにしている。スクリーンがあって、「ここ」がある。それは確実に離れている。つながってはいない。それなのに「肉体」はつながってしまう。この不思議。唇を噛む「OLさん」(ほんとうは女優)と神尾の肉体の接点というのはどこにもない。それなのに、OLの肉体のなかに起きていること(女優の肉体のなかに起きていること)を、神尾の肉体は感じてしまう。OL(女優)の「肉眼」が見ているもの、OL(女優)の喉のなかで固まっている声を感じてしまう。そのOLの肉体というのは「架空」のもの、「虚構」なのに。
なぜ?
私たちが「肉体」を生きているからだ。
神尾はまさか誘拐されて、「まっぱだかにしてやるぞ」と脅されたことはないだろう。(そんなことを経験した人間はほとんどいない)。そこにある「肉体」は神尾の知らないことを「体験」している。けれど、その「体験」がわかってしまう。それは「肉眼」「肉耳」「肉喉」「肉舌」というものは、いくつもの「過去」を抱え込み、融合しているからだ。何か怖いことを感じた瞬間の「肉眼」「肉耳」「肉喉」「肉舌」の記憶が、まだ経験していない恐怖と結びつき、肉体のなかを動く。
「肉体」は経験していないことさえ、経験している以上に感じとってしまう。
だからこそ、女優(役者)という職業も成り立つのだろう。自分の「肉体」のなかにあるいくつもの「肉眼」「肉耳」「肉喉」「肉舌」を動かして、「誘拐されたOL」になることができるのだ。
肉体のなかにある「肉眼」「肉耳」「肉喉」「肉舌」の動き--これを「存在感」というのかもしれない。
「時間」も「場」も広がりをもつ。「場」を「空間」と書き換えてみると、「時間」と「空間」はそれぞれ「間(あいだ)」をもっていることがわかる。その「間」はいつでも伸縮自在である。伸び縮みする。--というか、突然、重なってしまう。区別がつかなくなる。
その区別をつかなくしてしまうのが「肉体」である。
区別がつかない、混沌、というものを「頭」は拒否するけれど、どうもその「頭」が拒否している「区別のつかないもの」のなかにこそ「思想」があると私は感じる。「思想」とは「ひと」と「ひと」をつなぐもののことである。そこには「肉体」が重要な役割を果たしている。
「肉体」こそが「思想」である。
*
少し余計なことを書きすぎたようだ。詩に戻る。
人間をバナナなどの果実に見立てた上での
表現である
これは「ひんむいてまっぱだかにしてやるぞ」という男のことばを解説(?)したものだが、えっ、そうなの? 私はびっくりして笑いだしてしまった。「ひんむいてやる」ということばを聞いたとき、神尾はバナナや何かの果物を想像するの? 私はバナナなんか想像したことがない。私は、破られるシャツや何かも想像したことがない。私はよっぽどスケベなのか、「ひんむく」の先を想像してしまうのである。ぷるんとはみだす乳房。それを隠そうとする女の手つき。「ひんむく」ではなく「ひんむかれる」。そして「ひんむかれて」あらわになる「肉体」を想像してしまう。
だからね、
しかし それから先の意図は分からない
嘘。嘘つきだなあ。
「ひんむかれて」あらわになるのが「肉体」そのものなら、それから先に起きることはいつだってたったひとつしかない。意図というか、目的というか、狙いは、もう語る必要はない。
「意図」なんていう気取ったことばをつかうから「分からない」ということばがぶら下がってくるんだよ。
だから、まあ、この神尾の「嘘」は、いっしゅのお遊び。軽いユーモアだね。私は大笑いしてしまったけれどね。
「ガーネット」は、高階杞一の「意図」なのかどうかわからないけれど、こういう「軽い笑い」「軽いことば」のおもしろさがふわーっと出てくる作品が多い。
詩集 モンローな夜 | |
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