詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

河邉由紀恵『桃の湯』(3)

2011-07-03 23:59:59 | 詩集
河邉由紀恵『桃の湯』(3)(思潮社、2011年05月25日発行)

 河邉の詩のなかにある「あいだ」(間、ま、魔)と「肉体」。それは「わたし(河邉)」と「他者」の出会いのなかで、どんなふうに動くのだろうか。「あいだ」、つまり「わたし」と「他者」の距離はどんなふうに広がったり狭まったりするのだろうか。そして、その変化のなかで人間はどんなふうに変わっていくのだろうか。
 このことを考えるとき、ひとつの動詞につまずく。河邉はひんぱんに「わたし」と「他者」との接点で、同じ動詞をつかっている。「さする」。
 きのう読んだ「マミーカー」。

わたしの髪をひとすじ口にふくんで遠い
目をして泣いていたわたしは泣いている
あのひとのうすい背中をさすりつづけた
ぬるいお湯のなかでわたしたちの膝は洋
梨のようにゆがんでゆらゆらゆれていた
さするひとはいつも遠いところにいると

 ここに「さする」は2回も出てくる。
 「さする」。「軽く撫でる」と私の持っている「広辞苑」には書いてある。「軽く」に「意味」があるのかなあ。「なでる」を「広辞苑」で見ると、「なず」を見よ。「なず」を見ると「ものの表面を心をこめてさする」。
 あれっ? 「さする」「なでる」「なず」「さする」とことばが一巡りして、そのあいだに「軽く」が「心をこめて」に変わっている。変だねえ。「軽く」と「心をこめて」は一緒かなあ。「軽く」は、「心をこめて」というよりも、「心をこめないで」(形式的に)という感じにもなるからなあ。「軽く」は、「相手を傷つけないように気を配って」なのかもしれない。それなら「気を配る」と「心をこめる」は通い合う。
 でも、こんなことは、何の役にも立たない。--あ、私の思っていることとは無関係である。「辞書」はやはり役には立たない。自分の考えを見つめなおすときには、なんだかじゃまな存在である。私は結局、自分で知っていること以外はわからないタイプの人間なのである。「辞書」を引いても何もわからない。

 私が「さする」ということばで最初に思ったのは、「さする」と「さわる」の違いである。「さする」の接触点は「距離」を持っている。「さする」とき、たとえば手は上下に(あるいは左右に)動く。(「さする」が上下、「なでる」が左右というのが、私の実感である。)
 これに対して「さわる」は、あくまで「点」での接触である。
 「さする」の方が、動きがある。「対象(相手)」は動いていないが、「さする」の「主語」は動く。動くというのは、「距離」「あいだ」(間、ま、魔)が変化するということである。「あいだ」が動くから、そこで何かが起きるのだ、という感じがする。
 そこで起きることは、ことばにするのは、まあ、むずかしいなあ。
 「ふわっ」「ざらっ」「ねっとり」--と言ってしまえれば、河邉のことがわかったような感じになるが、「さする」ことと、「ふわっ」「ざらっ」「ねっとり」はうまく結びつかないなあ。私の場合は。
 だから、何かがわかったような気持ちに一瞬なるのだが、あ、やっぱり間違いだったか……と思い、考え直す。

 「さする」「さわる」とことばを動かしていると「さする」よりも「さわる」の方が複雑なことばのように感じられる。肉体の動きとしては「さする」の方が複雑(つまり上下に動くのに対し、「さわる」は動かない)なのに、「意味」は「さわる」の方が複雑である。
 「さわる」は「触る」であり「障る」でもある。「触られて、気に障る」ということがある。「さわる」には肉体の外の動きと、肉体の内部の動き(精神、感情、こころ)の動きがある。「気に障る」が大きくなると、「気がふれる(触れるではなく、振れる、なのかな?)」になる。
 「さわる(触る)」と、対象(相手)の肉体の内部で、何か変化が起きる。そのために「気に障る」というようなことが起きる。外は変わらないが、内部が変わる。
 変なところを「さわる」ではなく、「さすられる」。そうすると、やはり「気に障る」かもしれないが、この「さする」は「さわる、障る、ふれる、触れる、振れる」のようには危ない感じにならない。ことばの振幅が静かである。
 「さする」の方が肉体が動くのに、「さわる」よりも肉体の内部の動きは静かである。

 河邉は、きっと「さする」ということばを選ぶことで「あいだ」(間、ま、魔)を、静かなものにしているのだ。「肉体」と「こころ」が離れてしまわない距離に「あいだ」を限定しているのだ。

 私の「誤読」はまた暴走してしまったかもしれない。
 河邉の作品にもどる。
 「さする」ということばは「母の物語」に何回も何回も出てくる。

ひとなみにさすったり さすられたり するされるひとがほしいと 母はねがいます くおりあ くおりあ さするひとはいつも 時間のふちにいるというのに 母のそばには だれもいないのです くおりあ くおりあ とねがっていたら 男がやってきました 男はやせていて とてもつかれていました 男はかるかやが茂る 平原をわたる旅から 帰ったばかりでした 男はあひるのたまごのような のどぼとけを持っていました 母はひとめで男を気にいって さすられたいとねがいました 男は母のつるつるとした白い腹をあいしました ひとなみに さすったり さすられたりするされる いとなみが はじまりました 絨毯はあらゆる音を のみこみました けれども すきまからだれがのぞいても平気でした 母はもう 魚やかえるのたまごをたべなくなりました それから わたしが生まれました

 「母の物語」か「わたしの誕生の物語」か区別がつかないが、このなかに何度も出てくる「さする/さすられる」は、どうしたってセックスそのものである。セックスとは、性器をさすりあうことなのだ。この「さする/さすられる」は変化していく。いつも同じではない。「さする」場所、「さする」時間(どれくらいの長さか)が、かわっていく。「さする/さすられる」を繰り返しながら、ふたりの「あいだ」にある「間、ま」(すきま? 接触点?)を微妙に動かし、自分のいちばん都合のいいものにしようとする。そうして、とってもよくなった瞬間、魔にさらわれるように、エクスタシーがあり、射精があり、受精があり、新しいいのちが誕生する。
 これは、おもしろいねえ。
 「さわる、触る、障る」「さわる、触れる、ふれる、振れる」が精神、感情、こころを揺さぶり、いらだたせる。つまり、精神・感情・こころを「分裂」させる。これに対し、「さする」は精神・感情・こころを「ひとつ」にしながら、その反作用(?)のようにして、「肉体」を「分裂」させる。おんなの「肉体」から、もうひとつ、新しい「肉体」が生まれてくる。「肉体」が、そのとき「ふたつ」になる。
 「ひとつ」が「ふたつ」になれば、そこに「あいだ」ができる。「間、ま、魔」ができる。
 「さする」ということばで、河邉は、そういう不思議な「いのち」の動きをことばにならない力でとらえている。「いのち」がそこにあるとき、それが「ふたつ」であっても、それはかつては「ひとつ」であった。そういう不思議な「矛盾」を、ことばにならない力でつかんでいる。

 同人誌などで、ぽつりぽつりと読んでいたときは気がつかなかったが、詩集の形でことばをつづけて読むと、河邉の力の不思議さに、ほーっと声が漏れてしまう。




桃の湯
河邉 由紀恵
思潮社



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リサ・チェンデンコ監督「キッズ・オールライト」(★★★★+★)

2011-07-03 15:32:20 | 映画
監督 リサ・チェンデンコ 出演 アネット・ベニング、ジュリアン・ムーア、ミア・ワシコウスカ、マーク・ラファロ、ジョシュ・ハッチャーソン

 女性の同性愛が映画できちんと描かれるようになったのはいつごろからだろうか。最近は「ブラックスワン」「クロエ」と過激な描写を含んだ映画も多い。ヒラリー・スワンクが主演の「ボーイズ・ドント・クライ」は同性愛というよりは性同一性障害の問題を描いていた。
 男性の同性愛を描いた映画は「ブロークバック・マウンテン」よりも前、「真夜中のパーティー」だとか、「ベニスに死す」とか、いろいろある。同性愛の世界もやっと「男女同権」になってきたということかもしれない。
 いや、「男女同権」を通り越して、女性の同性愛は女性の優位性を軽々と確立したというところまできたのかもしれない。
 この映画の女性カップルは「家族」をもっている。「夫婦」ではなく「家族」として成立している。精子提供バンクで精子を手に入れ、妊娠し、子供を産んでいる。二人がそれぞれ子供を産み、「家族」をつくっている。こういうことは男にはできない。男も卵子の提供を受け、その卵子を授精させるということはできるだろうが、その後がむりである。自分の力では妊娠、出産というのはむりである。どうしても女性の肉体を借りないとできない。男は、男だけでは「家族」を持てない。そこが男と女の違いである。
 で、その「家族」。--これは「家庭」とは、どう違うのだろうか。この映画にそって見ていくと……。
 「家族」というのは、いわば「血の繋がり」。だから、「精子提供者」の男は「家族」にはなりうる。二人の子供が「精子提供者」の男を探し出す。そして、会ってみる。親近感もあれば、反発もある。何かしら似たところもあり、「家族」であることを「実感」する。「また会いたい」という気持ちも生まれる。これは精子提供者の男も同じで、突然の「家族」の出現に驚きながらも、うれしい気持ちにもなる。このとき、子供たちにも、男にも「家庭」という意識はない。「家族=家庭」ではないのだ。
 ところが、子供たちが「父親」と会ったということを知った二人の母親は、そんな具合に行かない。動揺してしまう。生物学的には精子提供者は「父」ではあるが「親」ではない。子供たちとは「親子」ではない。「親子」というのは、一緒に暮らしてきて、自然にできあがる「関係」である。「家庭」とは、血とは別の要素で作り上げられる「人間関係」なのである。
 このことに一番敏感なのが、アネット・ベニンである。彼女は、「家庭」で「父」の役割を演じているからである。古い概念といえばそうなのだが、一家を統一し、いわば支配している。あらゆることにおいて、彼女の「考え」が「最良」のものとなる。彼女の考えに背くことはできない。そうすると「家庭」の「基準」が壊れてしまうのである。
 ジュリアン・ムーアは「父」を演じていない。それは「夫」を演じてもいないということである。ずーっと「女」のままである。だから、かるがると「家庭」の枠、「家族」の枠を乗り越えて、女として精子提供者に向き合い、セックスまでする。
 「家庭」--その作り上げる「人間関係」と、作り上げるものではない男と女の関係が、ここで衝突する。ジュリアン・ムーアは、そこまで深刻には考えていないのだが、だからこそ、問題が大きくなる。
 つくりあげたもの、いわば人工的なものは、自然なものより耐性が弱いのである。「家庭」が男の出現によって踏み荒らされ、それが「家族」の関係をもギスギスさせる。「家族」であったのに、「家族」ではなくなる--そういう「危機」がアネット・ベニングとジュリアン・ムーアの間に生まれてくる。
 これをどうやって乗り越えるか。
 なかなかむずかしいのだが、この映画では、ジュリアン・ムーアが、自分のしたことが一番大切な人(アネット・ベニング)を傷つけてしまったと反省する。そして「家族」に謝る。アネット・ベニングに対してだけではなく、「家族」の前で、つまり子供たちのいるところで、はっきりことばにする。言いにくいこと、言わずにすむなら、言わないまますませたいことを、はっきりことばにする。
 ここに、この映画と、この映画の描く「家族・家庭」の理想がある。
 この映画では、すべてが「ことば」を通して「共有」されている。アネット・ベニングとジュリアン・ムーアがどのようにして夫婦になったか。そのことを精子提供者は質問するが、その話は、子供たちにとっては何回も何回も繰り返しきかされたことなので、少年の方はまたか、と「ぐーぐー」と空いびきまでしてみせるくらいである。セックスの問題も、全部、ことばにして説明している。アネット・ベニングとジュリアン・ムーアはセックスをするとき、なぜ男のゲイのビデオを見ているのか、なぜ女同士のセックス映画を見ないのか、という子供の質問にまで、正直に答えている。
 隠さない。すべてを共有する。そうやって作り上げていくのが「家庭」なのだ。「家庭」を「家族」の上に置いた考え方なのだ。「家族」があって「家庭」があるのではなく、「家庭」があって「家族」がある。作り上げた「家庭」が「家族」を守るのである。
 これは、うーん、すごい。ちょっと「新しすぎる」思想かもしれない。女同士のセックスも、男同士のセックスも(映画中映画の形ではあるけれど)、男と女のセックスもきちんと描写しながら、セックスを超えて、「家庭」とは何かを浮かび上がらせ、その基本的な考え方をしっかりと提出している。
 「家庭/家族」という問題を考えるとき、この映画はきっと「教科書」のように引用されつづけるだろうと思った。感動する--という映画ではないのだが、とてもていねいにつくられた「大切な」映画である。これから「大切」にされる映画である。



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