詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

伊藤恵理美『願いの玉』

2012-04-06 10:07:09 | 詩集
伊藤恵理美『願いの玉』(あざみ書房、2012年04月10日発行)

 伊藤恵理美は南原充士のように「絶対言語」というようなことを言わない。だれもがふつうにつかっていることばを書いている。『願いの玉』には、だれもが体験すること、したことがとても自然なことばで書かれている。たとえば「スリッパ」。

玄関で帰りを待つ
スリッパ

すぐ 履けるように そろえて ある

スリッパは
二艘の 小舟

おかえり の 言葉を乗せて
静かに 玄関に 浮かんでいる

 さっと読んで、ああ、美しいなあ、と思う。「小舟」という比喩が美しい。最終連の2行が美しい。その美しさは、私たちがしばしばみかける「日常」をことばにしたものなので、なんというのだろう--新しい感じからは遠い。「現代詩」という印象からは遠い。こういう詩は、損をしている。損をしているという言い方は変だけれど--あまり注目されない。つまり、どうしてこの詩が美しいのか、この美しさを生み出している伊藤の思想はどこにあるのか、というようなことはあまり書かれないと思う。
 まあ、書きにくい--ということもあるのだが。
 いや、私のことだけを書いた方がいいのかもしれない。--この詩は美しい。そして、この詩集におさめられている詩は美しい。「ふるさとの水」は「母」を「水」ということばに置き換えたものだが、いいなあ、と思う。でも、その「いいなあ」や「美しい」をべつのことばで言いなおそうとするととたんに難しくなる。別にほかのことばで言いなおさなくてもいいのかもしれないけれど、伊藤の詩のことばが他の詩人のことばとどこがちがうのかを言い表わそうとすると、どう言っていいのかわからなくなる。
 ほかの詩人のことばとは違う。同じように日常を日常のことばで書いているほかの詩人たちとは違うものがある。それは何か。私が感じている何か--それを言い表わすことばが、すぐには思い浮かばない。--つまり、南原は「絶対言語」を目指して書いているというような感じでは言い表わすことはできない。(南原のことばが「絶対言語」かどうかは、判断留保。南原が「絶対言語」と書いているので、それを流用しただけ。)

 どうすれば伊藤の詩の魅力を、この「日記」を読んでいるひとに知ってもらえるだろうか。だれかといっしょに伊藤の詩の美しさを分かち合えるだろうか。私の喜びをいっしょに喜ぶことができるだろうか。
 不思議なじれったさ--伊藤のことばの美しさの核心に触れたいのに触れられないというようなじれったさを感じながら読み進んでいく。そして、「おみやげ」「ほたて」に出合う。「おみやげ」で、あ、この詩のなかに何か手がかりがありそう、と感じ、「ほたて」で、あ、これだ、と気がついた。
 その「ほたて」。

おかあさん ほたてを焼くと
潮のかおりがするね

とられた時
淋しくならないように
海を
連れてくるからだよ

 「連れてくる」。ここに、伊藤の「思想」がある。「肉体」がある。そう思った。
 「いま/ここ」にあるもの、たとえば「ほたて」はホタテ単独として存在しているのではない。何かがいっしょにある。「連れ」がある。「連れ」が常に寄り添っている。そこには存在と存在以外のものが結ぶ関係がある。それを伊藤は、やさしいことばですくい上げる。育て上げる。
 「おみやげ」を読んでみる。

葉っぱと葉っぱの間に
湧き水のような水を大切にしまって
キャベツは
やってきた

見せたかったんでしょ!
育ててもらった 澄んだ水も一緒に

 「連れ(連れてきた)」ということばは、ここにはない。けれど、同じ意味のことばがある。「大切にしまって」「やってきた」。「連れて」は「しまって」という形で書かれている。だれにでもわかる形ではなく、つまりだれかの手を引くようにではなく、自分のなかにつつみこむように、赤ん坊を大事にかかえこむように、しまって(隠して)やってくる。
 「連れてくる」ということは「隠して」、だれにも見つからないように大事にもってくるということなのだ。この「しまって」(隠して)ということろが、伊藤の美しさなのだ。肉体なのだ。他人にみせびらかすのではない。みたいひとがみてくれればいい。みてくれなくたっていい。みてくれなければ、それが消えてしまうものではない。だれがみてくれなくても、それは伊藤の肉体なのなかに(こころのなかに、とふつうは言うかもしれない)、しっかりと存在する。
 「スリッパ」に戻ってみる。

おかえり の 言葉を乗せて

 これは「おかえり の 言葉をしまって(隠して)」と同じである。そして、その「隠して」いるのは、実は、スリッパではなく、伊藤の肉体(こころ)である。伊藤の肉体が、「おかえり」のことばつれて(ことばといっしょに)、スリッパを美しくそろえたのだ。何かを、それひとつではなく、それに寄り添わせるとき、それは美しくなる。
 伊藤は、そういうことを、ことばだけではなく「肉体」で実践している。実践があって、それがことばになる。ことばの「思想」は伊藤の「肉体」のなかに隠されている。これ見よがしではない。だから、静かで、とても美しい。
 「影」という詩は、りんごの絵を描く詩である。「へたくそな絵でも/影をつけると ちょっと よく見える」という行ではじまり、そこには実際に小さなりんごの絵の変化が書かれている。まずりんごの輪郭があり、次にりんごそのものに影が描かれ、次に机(と仮定しておく)にりんごの影が描かれる。そうすると、立体的な、絵になる。りんごがよりりんごらしく見える。(ここでは再現できないので、詩集で読んでください。)そのあと、伊藤はつづけている。

ぶきような心でも
やさしい という影と
思いやり という影をつける
本当の 心 になる

 これは直接的なことばなので、説明しすぎという感じがするけれど--でも、これが伊藤のやっていることなのだ。「影をつける」は「影を連れてくる」(影を寄り添わせる)ということなのだ。

 最後に「ふるさとの水」。私のことばは不要だ。全行を引用しておく。

前略
おかあさんへ

今日は
水の声を聞きに来ました
こころが乾いてきたので

水の味を覚えに来ました
恋しくなって

水の香りを思い出しに来ました
こぼれあふれる中にいた頃のこと

水を感じに来ました
魚のように
のんびりゆったり揺れていた
まぁるい水の中

いつか いつか
私も水になります
誰かの中に 満ちていける
水に

そう 手紙を残してきましたが
本当のことを言うと
ひとつ 間違ったふりをしました
感じを

水 という字
母 と書きたかったのです

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする