小島数子「梨のメロディー」(「庭園2012」2012年04月22日発行)
あることば、あるリズムが好きだなあ、と感じる。そして、その理由はわからない。そういことが、しばしばある。
小島数子「梨のメロディー」の書き出し。
ここに書かれていることばは、すべて「意味」はわかる。知らないことばは何一つない。しかし、沈丁花、雛人形、燕と動いていくことばの「必然性」はわからない。何の関係があって、そんなふうに繋がるのか。
たとえば、きのう読んだ糸井茂莉の詩ならば、ことば、語源、その変化というものが遠いところで呼びあっている、それが「肉体」を刺激しているということが何となく感じられる。
しかし、小島のこの作品のことばの動きはわからない。
強いて言えば、季節の流れに沿っているということかもしれないけれど。
でも、それは、どうでもいいのだ--と書いてしまうと小島に申し訳ない感じもするけれど、私は「意味」よりも、ここに書かれていることばのリズムに酔ってしまった。気持ちがいいのである。
特に印象的なのが、
この短い1行である。
なぜ、この1行だけ、動詞しかないのだろう。
書き出しの「沈丁花の匂いは」という行も短いけれど、「断ったが」に比べると、それでも「沈丁花」と「匂い」というふたつの要素がある。「断ったが」は、何にも頼らず(?)ただそこに存在している。不思議な感じがする。
そして、その短いことばは、何といえばいいのだろうか、「風邪でもひかなければいいと思う」や「なかなか忘れられないその食い下がり方は」という行の、口語的な「長さ」を「くすぐる」感じがする。刺激する感じがする。
「断ったが」が短いために、その前後にある口語の、ひきずるような長さを、意識できない角度から照らしだすような感じがする。
このリズムの変化がとても楽しいのである。
つづけて読み進むと、沈丁花からはじまる駆け足の季節のスケッチ、その時間の流れが、この詩の「意味」かもしれないと思う。
しかし、やはり、その「意味」よりも、不思議なリズムのなかで動いている口語の「あいまいさ」のようなものが、私にとっては重要である。何か「肉体」を感じさせる。そこに「肉体」があるという印象を呼び起こす。
それは私の知らない「肉体」である。だから、私にはその「肉体」の魅力を語ることはできない。できないのだけれど、語りたい--そういう「欲望」を誘う「肉体」なのである。
別な言い方をしてみる。
「だろう」「かもしれない」という「推量」の口語。それが「草の車輪」や「地面に甘えている」という非日常的なことば(詩、だね)を、口語のまま動かしている。
そこには不思議な説得力がある。
そうなんだ、土砂降りの雨は地面に甘えているんだ、と思ってしまう。地面を叩いている--攻撃しているのではなく、甘えている。じゃれている。自分を大地にまかせている。そういういままで知らなかった「肉体」の動きがここにある。
「肉体」を連想させることばの響きがある。
ここに、私は「音楽」を感じる。
詩のタイトルに「メロディー」とある。まあ、四季の時間の流れにのって動く沈丁花、雛人形、燕、草、土砂降りが「意味のメロディー」なのかもしれないけれど、うーん、私はむしろ「風邪でもひかなければいいと思う」というような、どこかで聞いたことのあるような音のつらなりに「メロディーの肉体」があり、それは「断ったが」という、短く、無意味(?)なことば--無意味というのは、その1行だけでは「繋がり」を欠いているということなのだが--の刺激(リズム)によって、音楽になっていると思うのである。「肉体のリズム」が「肉体のメロディー」を呼び起こしているように感じるのである。「肉体のリズム」と「肉体のメロディー」が「肉体」で結びついて(繋がって)音楽になっている--と感じるのである。
私がいま書いていることは、まあ、単なる印象批評(?)である。何の根拠ももたない印象にすぎない。私の「肉体」のなかだけで起きていることであって、私の書いていることが、これを読んでいる誰かに伝わるとも思えないのだが--しようがないのである。この詩については、こういうことしか書けないし、こういうあいまいなことをこそ書きたいと私はいま思っている。
「断ったが」と同じような効果をもつ行は2連目にも出てくる。
何が書いてあるのか、その「意味」を私は追いたくない。「意味」を追うよりも、書いても書いてもたどりつけない「そうもいかない」という1行の「音」が照らしだすもの--それが、ここにあると書きたい。(変な文章だねえ。)
「そうともいかない」という口語、その次にあらわれる「ときとして」という文語--文語の響きを私は「ときとして」に感じている--その相互の刺激が、「見たり聞いたりするのが悲しい偏りは」という、わけのわからない(私には理解できないという意味である)行を振り返らせる。ちょっと引き返して、その行を私は読んでしまう。読み直してしまう。
それは、あれっ、いま聴いた音楽、それはどういうメロディーだったっけ(ドレミでたどりなおすと、どうなるんだろう)という疑問に通じるものだけれど--そんなふうに行を行き来するというのも、不思議と楽しい。
あることば、あるリズムが好きだなあ、と感じる。そして、その理由はわからない。そういことが、しばしばある。
小島数子「梨のメロディー」の書き出し。
沈丁花の匂いは
別れた恋人を懐かしむ人の顔に似ている
まだ寒いのに箱の中から出てきた雛人形が
風邪でもひかなければいいと思う
燕が軒下に巣を作ろうとしてやってきたので
断ったが
なかなか忘れられないその食い下がり方は
作られた巣のようだ
ここに書かれていることばは、すべて「意味」はわかる。知らないことばは何一つない。しかし、沈丁花、雛人形、燕と動いていくことばの「必然性」はわからない。何の関係があって、そんなふうに繋がるのか。
たとえば、きのう読んだ糸井茂莉の詩ならば、ことば、語源、その変化というものが遠いところで呼びあっている、それが「肉体」を刺激しているということが何となく感じられる。
しかし、小島のこの作品のことばの動きはわからない。
強いて言えば、季節の流れに沿っているということかもしれないけれど。
でも、それは、どうでもいいのだ--と書いてしまうと小島に申し訳ない感じもするけれど、私は「意味」よりも、ここに書かれていることばのリズムに酔ってしまった。気持ちがいいのである。
特に印象的なのが、
断ったが
この短い1行である。
なぜ、この1行だけ、動詞しかないのだろう。
書き出しの「沈丁花の匂いは」という行も短いけれど、「断ったが」に比べると、それでも「沈丁花」と「匂い」というふたつの要素がある。「断ったが」は、何にも頼らず(?)ただそこに存在している。不思議な感じがする。
そして、その短いことばは、何といえばいいのだろうか、「風邪でもひかなければいいと思う」や「なかなか忘れられないその食い下がり方は」という行の、口語的な「長さ」を「くすぐる」感じがする。刺激する感じがする。
「断ったが」が短いために、その前後にある口語の、ひきずるような長さを、意識できない角度から照らしだすような感じがする。
このリズムの変化がとても楽しいのである。
廃線路を静かに走るのは
草の車輪の電車だろう
土砂降りの雨は
地面に甘えているのかもしれない
つづけて読み進むと、沈丁花からはじまる駆け足の季節のスケッチ、その時間の流れが、この詩の「意味」かもしれないと思う。
しかし、やはり、その「意味」よりも、不思議なリズムのなかで動いている口語の「あいまいさ」のようなものが、私にとっては重要である。何か「肉体」を感じさせる。そこに「肉体」があるという印象を呼び起こす。
それは私の知らない「肉体」である。だから、私にはその「肉体」の魅力を語ることはできない。できないのだけれど、語りたい--そういう「欲望」を誘う「肉体」なのである。
別な言い方をしてみる。
「だろう」「かもしれない」という「推量」の口語。それが「草の車輪」や「地面に甘えている」という非日常的なことば(詩、だね)を、口語のまま動かしている。
そこには不思議な説得力がある。
そうなんだ、土砂降りの雨は地面に甘えているんだ、と思ってしまう。地面を叩いている--攻撃しているのではなく、甘えている。じゃれている。自分を大地にまかせている。そういういままで知らなかった「肉体」の動きがここにある。
「肉体」を連想させることばの響きがある。
ここに、私は「音楽」を感じる。
詩のタイトルに「メロディー」とある。まあ、四季の時間の流れにのって動く沈丁花、雛人形、燕、草、土砂降りが「意味のメロディー」なのかもしれないけれど、うーん、私はむしろ「風邪でもひかなければいいと思う」というような、どこかで聞いたことのあるような音のつらなりに「メロディーの肉体」があり、それは「断ったが」という、短く、無意味(?)なことば--無意味というのは、その1行だけでは「繋がり」を欠いているということなのだが--の刺激(リズム)によって、音楽になっていると思うのである。「肉体のリズム」が「肉体のメロディー」を呼び起こしているように感じるのである。「肉体のリズム」と「肉体のメロディー」が「肉体」で結びついて(繋がって)音楽になっている--と感じるのである。
私がいま書いていることは、まあ、単なる印象批評(?)である。何の根拠ももたない印象にすぎない。私の「肉体」のなかだけで起きていることであって、私の書いていることが、これを読んでいる誰かに伝わるとも思えないのだが--しようがないのである。この詩については、こういうことしか書けないし、こういうあいまいなことをこそ書きたいと私はいま思っている。
「断ったが」と同じような効果をもつ行は2連目にも出てくる。
凍てついたようにある
見たり聞いたりするのが悲しい偏りは
向けない背中で包んでしまえばいいのだが
そうともいかない
ときとして差す
憐れな傘は
雨に耐えればいいだけではない
何が書いてあるのか、その「意味」を私は追いたくない。「意味」を追うよりも、書いても書いてもたどりつけない「そうもいかない」という1行の「音」が照らしだすもの--それが、ここにあると書きたい。(変な文章だねえ。)
「そうともいかない」という口語、その次にあらわれる「ときとして」という文語--文語の響きを私は「ときとして」に感じている--その相互の刺激が、「見たり聞いたりするのが悲しい偏りは」という、わけのわからない(私には理解できないという意味である)行を振り返らせる。ちょっと引き返して、その行を私は読んでしまう。読み直してしまう。
それは、あれっ、いま聴いた音楽、それはどういうメロディーだったっけ(ドレミでたどりなおすと、どうなるんだろう)という疑問に通じるものだけれど--そんなふうに行を行き来するというのも、不思議と楽しい。
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