田井英祐「現実」(「Re:」2、2012年04月21日発行)
田井英祐「現実」が書いていることがわからない。
水田がある。稲穂がある。私がいる。あなたがいる。そしてそいつがいる。あなたとそいつは何やら話している。--というようなことは、ぼんやりとわかる。私、あなた、そいつの位置関係(顔が見えたり、見えなかったりという状況)もなんとなくわかる。わかったつもりでいる。
でも「万水鉱物」というのがわからない。私は辞書をひかない(辞書をひくのが大嫌い)。わからないことばは、まあ、読んでいる内にわかるだろうし、読み通してもわからないなら、それは辞書をひいてもわからない。ことばは、そのことばと前後のことばの「関係」のなかで「肉体」をつくって動いていくものである、と思っているからである。
で、わからないまま「水田」ということばから、水田の水を思う。「万水」というのは水がいっぱいということだろう。「満水」に通じるかもしれないけれど、「満たしている」とは違うのだろう。満たしていなくても、水を十分に含んでいれば「万水」かもしれない。実際、水のある水田の土は黒いし、水が表面を覆っていなくてもにじむくらいに水を含んでいれば田んぼの土は黒い。かわいた校庭のような色ではなく、田んぼは黒い。「黒光りしている」と書いてあるから、まあ、そんなところだろう。
そして、そんなふうに見当をつけながら、ふーん、泥を「万水鉱物」と呼ぶのか。こんなふうに、ふつうのひと(農家のひと?)がいうのとは違う具合にことばを動かしているのだな、何かふつうのことばでは言えないこと(言いたくないこと)があるのだろう、それはなんだろう--と誘い込まれる。
わけのわからないことば、わからないけれど、何かを感じさせることば、つまり肉体が覚えていることを引き剥がし、その「こと」の「は(端)」を「ことば」に変えていく力のようなものに、私は感応してしまう。
「私の解らぬ言葉を開きながら」は「ききながら(聞きながら)」の誤植? いや、「ききながら」ではつまらない。「ひらきながら」の方がいいなあ。「万水鉱物」というような、他人にわからぬことばをこじ開けるようにして、ということなのだろう。
こう読むと、「私に解らぬ言葉」と「私の、他人には解らないことば」が交錯してしまうのだが、こういう混乱、混濁が、まあ、詩の力である。いいかげんなところがおもしろいのである--と書いてしまうと、田井には申し訳ないが、詩、なのだから、そんなことろである。
で。
「万水鉱物」にしろ、「私に解らぬ言葉」にしろ、「私の、他人には解らないことば(--これは詩を読む過程で、私がかってにつけくわえた表現であって、田井の書こうとしていることとは無関係かもしれない。つまり、私のいつも書く「誤読」なのだが)」にしろ、なんだか判然としないものがぶつかりあう。
それを、田井は
と、言っている。(と、私は判断する。)
これ、いいなあ。「勾引かしあうリズム」か。ことばはことばをかどわかす。そして、そこにはリズムがある。
そう思う。
騙しているのか、騙されているのか。わからない。わからないまま、ことばは、意図したものとは違うところへ動いていく。相手がいるからね。自分で一方的に言っているわけではないからね。私の「日記(この文章)」のように、私が一方的に書いているように見えるものでも、実は、瞬間瞬間、ことばが行き交っている。
私は田井のことば読みながら書き進む。思ったことを書いてしまうと、次の行が、最初に読んだときとは違ってくる。印刷物だからことばそのものが動くのではないが、私の意識のなかで違ってくる。
で、先へ進むと、
また、わからないことばがある。「田泥化芽罹厭」。でも、最初に読んだ「万水鉱物」ということばから田んぼの泥を想像した私は、「田泥化芽罹厭」は「万水鉱物」の言い換え、あるいは「万水鉱物」ということばで表したものをもっと詳しく言いなおしたものだろうと勝手に想像する。
そして、それは「人間関係」と関係がある。「ことば」と関係がある。
「自明の言葉」--それが「人間関係」をつなぐのではなく、「閉ざす」。いつも「人間関係」はことばによって閉ざされている--と田井が考えているということだろう。その「閉ざされた関係」が「凝固された習慣」と言いなおされているのだろう。
--この、私の読み方は、いいかげんで、飛躍が多いのだけれど、いちいち説明してもしようがないので、ぱっぱっぱっと、読んでいく。
水田、稲の栽培、耕作農業、土地への定着。土地への定着を象徴する米--そういう「定着」(固定、凝固、閉鎖性)というものに田井がいらだっている。反発している。怒っている。それとは向き合い、闘おうとしている--というようなことを、私は想像する。
私は自分たちで食べるだけの米をつくっている田舎の育ちなので、私の肉体が覚えていることがら、田舎の人間関係のようなものが呼び覚まされて、その肉体で田井のことばを読んでいるのだなあ、と思いながら、読み進む。
あ、ここに書いてあること--覚えている、と思うのである。
で、ここから田井のことばはどう動くのか。
だんだん「あなた」も「そいつ」もどうでもよくなって(?)、自分の「声」について語ることになる。「言葉」は「声」にかわっていく。
この変化は、なんといえばいいのかなあ、うまく整理されていないのだけれど、その整理されていない部分に、田井の「本質」のようなものが感じられて、とてもおもしろい。私の好みに過ぎないのだろうけれど「声」が肺→細胞→遺伝子→運命→歴史と動いていくところがとても興味深い。
運命、歴史は「人間の運命」「人間の歴史」ではなく、いのちがあるもの、田井のつかっていることばで言えば「遺伝子(細胞)」の運命・歴史ということだろう。
それが「声」をとおして、個人の肉体のなかで深みへおりてゆき、その深みから噴出してくる--その運動に何かを見出そうとしている。この「声(肉体)」と「ことば」の関係、それを突き詰めようとすることに対して、私は「がんばれ、がんばれ」と応援したくなる。
ことばは、その運動のなかでしかよみがえることができない。
私はそう思っている。
田井の、この「現実」という作品は、わけのわからないことばを含みながら、それを「肉体」と関係させようとしている。そしてそのことを「肉体」と、抽象的な論理の運動の組み合わせで切り開こうとしている。いつも、そこに「肉体」を絡ませようとしている。ここからはじまることばの可能性--それを見つづけたいと思う。
肉体の内部へおりてゆく。そうすると、そのいちばん底から一気にはじまる変化がある。それがほんとうのことば--詩のことば、と田井は信じている。その信念に、私は与したい。
田井英祐「現実」が書いていることがわからない。
燃える水田の稲穂の前に
たたずむおまえの横にいる
黒光りをしている万水鉱物
私の立っている場所から
そいつの顔は見えない
あなたはそいつに微笑みかける
私の解らぬ言葉を開きながら
私はあなたとそいつの
勾引(かどわ)かしあうリズムの間隙に
あなたに向かって信号を送る--
水田がある。稲穂がある。私がいる。あなたがいる。そしてそいつがいる。あなたとそいつは何やら話している。--というようなことは、ぼんやりとわかる。私、あなた、そいつの位置関係(顔が見えたり、見えなかったりという状況)もなんとなくわかる。わかったつもりでいる。
でも「万水鉱物」というのがわからない。私は辞書をひかない(辞書をひくのが大嫌い)。わからないことばは、まあ、読んでいる内にわかるだろうし、読み通してもわからないなら、それは辞書をひいてもわからない。ことばは、そのことばと前後のことばの「関係」のなかで「肉体」をつくって動いていくものである、と思っているからである。
で、わからないまま「水田」ということばから、水田の水を思う。「万水」というのは水がいっぱいということだろう。「満水」に通じるかもしれないけれど、「満たしている」とは違うのだろう。満たしていなくても、水を十分に含んでいれば「万水」かもしれない。実際、水のある水田の土は黒いし、水が表面を覆っていなくてもにじむくらいに水を含んでいれば田んぼの土は黒い。かわいた校庭のような色ではなく、田んぼは黒い。「黒光りしている」と書いてあるから、まあ、そんなところだろう。
そして、そんなふうに見当をつけながら、ふーん、泥を「万水鉱物」と呼ぶのか。こんなふうに、ふつうのひと(農家のひと?)がいうのとは違う具合にことばを動かしているのだな、何かふつうのことばでは言えないこと(言いたくないこと)があるのだろう、それはなんだろう--と誘い込まれる。
わけのわからないことば、わからないけれど、何かを感じさせることば、つまり肉体が覚えていることを引き剥がし、その「こと」の「は(端)」を「ことば」に変えていく力のようなものに、私は感応してしまう。
「私の解らぬ言葉を開きながら」は「ききながら(聞きながら)」の誤植? いや、「ききながら」ではつまらない。「ひらきながら」の方がいいなあ。「万水鉱物」というような、他人にわからぬことばをこじ開けるようにして、ということなのだろう。
こう読むと、「私に解らぬ言葉」と「私の、他人には解らないことば」が交錯してしまうのだが、こういう混乱、混濁が、まあ、詩の力である。いいかげんなところがおもしろいのである--と書いてしまうと、田井には申し訳ないが、詩、なのだから、そんなことろである。
で。
「万水鉱物」にしろ、「私に解らぬ言葉」にしろ、「私の、他人には解らないことば(--これは詩を読む過程で、私がかってにつけくわえた表現であって、田井の書こうとしていることとは無関係かもしれない。つまり、私のいつも書く「誤読」なのだが)」にしろ、なんだか判然としないものがぶつかりあう。
それを、田井は
勾引かしあうリズム
と、言っている。(と、私は判断する。)
これ、いいなあ。「勾引かしあうリズム」か。ことばはことばをかどわかす。そして、そこにはリズムがある。
そう思う。
騙しているのか、騙されているのか。わからない。わからないまま、ことばは、意図したものとは違うところへ動いていく。相手がいるからね。自分で一方的に言っているわけではないからね。私の「日記(この文章)」のように、私が一方的に書いているように見えるものでも、実は、瞬間瞬間、ことばが行き交っている。
私は田井のことば読みながら書き進む。思ったことを書いてしまうと、次の行が、最初に読んだときとは違ってくる。印刷物だからことばそのものが動くのではないが、私の意識のなかで違ってくる。
で、先へ進むと、
自明の言葉で閉ざしながら
私とあなたとの間に立ちはだかる
田泥化芽罹厭--これはきっといつも私達の
間に立ちはだかる儀礼的な煩い挨拶、煩わし
い他人との関係が凝固された習慣という発作
に侵された人間達の成れの果て。
また、わからないことばがある。「田泥化芽罹厭」。でも、最初に読んだ「万水鉱物」ということばから田んぼの泥を想像した私は、「田泥化芽罹厭」は「万水鉱物」の言い換え、あるいは「万水鉱物」ということばで表したものをもっと詳しく言いなおしたものだろうと勝手に想像する。
そして、それは「人間関係」と関係がある。「ことば」と関係がある。
「自明の言葉」--それが「人間関係」をつなぐのではなく、「閉ざす」。いつも「人間関係」はことばによって閉ざされている--と田井が考えているということだろう。その「閉ざされた関係」が「凝固された習慣」と言いなおされているのだろう。
--この、私の読み方は、いいかげんで、飛躍が多いのだけれど、いちいち説明してもしようがないので、ぱっぱっぱっと、読んでいく。
植物のよう
に「天候=運命」に流されて生き営む彼ら、
習慣と運命に囚われた哀れな植物人間たち。
水田、稲の栽培、耕作農業、土地への定着。土地への定着を象徴する米--そういう「定着」(固定、凝固、閉鎖性)というものに田井がいらだっている。反発している。怒っている。それとは向き合い、闘おうとしている--というようなことを、私は想像する。
私は自分たちで食べるだけの米をつくっている田舎の育ちなので、私の肉体が覚えていることがら、田舎の人間関係のようなものが呼び覚まされて、その肉体で田井のことばを読んでいるのだなあ、と思いながら、読み進む。
あ、ここに書いてあること--覚えている、と思うのである。
で、ここから田井のことばはどう動くのか。
私の言葉を私の言葉の矛に変え
田泥化芽罹厭に挑みかかる
彼らに囚われたあなたの魂を救うために
切り裂いた蔓たちから吹き出る薄緑の羊水に
包まれた自明の言葉
万水鉱物--これは人の様であり人ではなく、
それは堅固な思いのようだが、多量の水気を
含みそれ自体の存在で揺蕩う、どんな言葉で
触れても突き破る事が出来ぬ固い意思のよう
なもの。流されている様に見え流されておら
ず自ら舵を切る意思細胞群。
私はそれを、私は纏はりつく万水鉱物を、
切り、壊し、抉り、拉ぎ、
進む、進め!
失われた言葉を呻きながら!
私は声を上げた! その小枝、声を張り上げさ
せた肺が、肺を構成する細胞が、細胞の構成を
考えた遺伝子が、遺伝子の組み合わせを考えた
運命が、運命を成り立たせた歴史が……この私
の流れが、声に万水鉱物が触れたことにより
逆流する!
だんだん「あなた」も「そいつ」もどうでもよくなって(?)、自分の「声」について語ることになる。「言葉」は「声」にかわっていく。
この変化は、なんといえばいいのかなあ、うまく整理されていないのだけれど、その整理されていない部分に、田井の「本質」のようなものが感じられて、とてもおもしろい。私の好みに過ぎないのだろうけれど「声」が肺→細胞→遺伝子→運命→歴史と動いていくところがとても興味深い。
運命、歴史は「人間の運命」「人間の歴史」ではなく、いのちがあるもの、田井のつかっていることばで言えば「遺伝子(細胞)」の運命・歴史ということだろう。
それが「声」をとおして、個人の肉体のなかで深みへおりてゆき、その深みから噴出してくる--その運動に何かを見出そうとしている。この「声(肉体)」と「ことば」の関係、それを突き詰めようとすることに対して、私は「がんばれ、がんばれ」と応援したくなる。
ことばは、その運動のなかでしかよみがえることができない。
私はそう思っている。
田井の、この「現実」という作品は、わけのわからないことばを含みながら、それを「肉体」と関係させようとしている。そしてそのことを「肉体」と、抽象的な論理の運動の組み合わせで切り開こうとしている。いつも、そこに「肉体」を絡ませようとしている。ここからはじまることばの可能性--それを見つづけたいと思う。
肉体の内部へおりてゆく。そうすると、そのいちばん底から一気にはじまる変化がある。それがほんとうのことば--詩のことば、と田井は信じている。その信念に、私は与したい。
私は声を上げた! 声を上げる事により、肺
が膨らみ、肺が膨らむ事により細胞が分裂し、
細胞が分裂することににより遺伝子が複製し、
遺伝子が複製することにより運命が変わり、
運命が変わることにより、歴史が変わる!