細見和之「擬態語論序説」(「紙子」20、2012年04月10日発行)
細見和之「擬態語論序説」は、そこに書かれている「意味」がわからない。わからないのだけれど、ちょっと、そこに書かれていることがらの一部にかこつけて書いておきたいことがあるので感想を書いてみる。
「擬態語」。細見がつかっている「意味」がわからない。「タッチ」を私は最初「立っち」と思って読みはじめた。2行目まで、私は「日本語」を生きていた。立った喜びに(立てるよろこびに)「立っち」と口走る。それは親が「はい、立っちして」ということばの反復である。
でも細見の書いている「タッチ」は「touch 」である。
私は英語を理解しないので、それが「擬態語」であるということがわからない。英語に擬態語があるとは思わなかった。というより、そんな感覚にたどりつくためには、いったいどれくらい英語を聞いて話さなければならないだろうと不思議に思った。
「くねくね」した動き、「にやにや」した笑い、「ごろごろ」転がる--日本語で思いつくことばを少し並べてみた。このときの「くねくね」「にやにや」「ごろごろ」というのは、まず音である。音を聞いて、それからその音を聞いたときの耳の印象(あるいは、それを口にしたときの喉や口の印象)と、いま/ここで見ているものが結びつくという積み重ねがあって、はじめて「意味」になる。それは「頭」で覚えるのではなく、「肉体」で覚えることばである。「肉体」の動きとしてなんとなくわかっても、それを「ことば」として誰かに何かを伝えることができるようになるためには、そのことばが「頭」と「肉体」が何往復もしないとできないと思う。
「くねくね」を例に言いなおすと。
「くねくね」は「くねる」「くねらせる」ということばと緊密な関係があると思う。どちらが先にできたことばかわからないが、「くねる」「まがる」「ねじれる」という音を繰り返し聞いて、それとともにある肉体の(ものの)動きを何度も見て、それが「耳」のなか定着して「くねくね」を聞いたとき、「あ、これは、くねる」ということと関係しているということが、なんとなくわかる。「くにゃくにゃ」「くにゅくにゅ」も「くねくね」に近いことが分かってくる。「音」が「肉体」のなかで、そのまわりの動詞をひろいあつけめてき、それが「肉体」のなかにたまっていて、はじめて動きだすことばである。
「意味」よりも、意味を超えた音と肉体の結びつきがあるのだと思う。そして、その結びつきは、ことばを覚える「最初」の期間には存在しない結びつきだと思う。細見が書いていることが、私にはわからないのだが、私の「肉体の記憶」では、擬態語が擬態語として成立するのは、ことばの基本を肉体が覚えてからである。「最初に」は覚えられない。当然、それをつかうこともできない。
「擬態語」って、何?
もしかすると、細見の定義と私の定義は違っているのかもしれない。
*
細見の書いている詩からどんどん離れて行ってしまうけれど。
私は、ことばは肉体であると思っている。ことばにはことばの肉体があると思っている。--ということを、簡単に説明することができないのだけれど。
人間は肉体を持っている。人間が肉体である。そして人間は肉体を動かして、何かをする。「いま/ここ」を変える。主語(肉体)が何かを動かす(動詞)、そしていま/ここにあるもの(目的語?)を変える。私は本を運ぶ--なら、私の肉体が本を持って、それをいま/ここから違う場所に動かす(変化させる)ということである。
同じことをことばはしていると思う。「私は本を運ぶ」は簡単すぎて、何かをしているという感じがしないかもしれない。けれど、「私は本を運ぶ」ということばは、人間の肉体の動きと重なり合う。ことばは実は肉体であるのだけれど、手足や何かと区別するために「方便」として「ことば」と呼んでいるだけなのだ。
哲学(?)というか、ちょっと違う例の方がいいかもしれない。ソクラテスが「弁明」をする。そのとき、ソクラテスはことばをつかって、何かを運んでいる。いま/ここにある何かをほかの場所へ動かしている。それは、たとえば聞いているひとのところへ、ということかもしれないし、その聞いているひとの肉体のなかにあることばを、そのひとの肉体が知らない場所へということかもしれない。よくわからないが、ことばも肉体も、それぞれのことばと肉体をつかいながら何かを動かすということではそっくりなのだ。
だから、その「そっくり」を利用して、私は「ことばは肉体である」というのである。そして、ことばは肉体であるから、人間の肉体が肉体で覚えていることしかできないように、ことばもまたことばが肉体として覚えていることしか動かせないと思う。
で、突然、「擬態語」にもどるのだけれど。
「擬態」が「擬態語」になるためには、ことば(音)と肉体の動きが、ひとつのことだけではなく、幾つもの音と動きを肉体の内部に取り込み、覚えないと不可能なのではないか。「最初に」覚えるようなことではなく、もっと「あとに」なって覚える高度なことなのではないか、と思う。
赤ちゃんは、「まんま(御飯)」とか「パパ」とか「ママ」とかいうことばを「最初」に覚える。つまり、肉体をつかって言えるようになる。(覚えるというのは、つかえるということだ。)そして、その最初に覚えることばの特徴は「動詞」ではない。名詞である。動かない。赤ん坊は自分の肉体で何かを自分の都合のいいように動かすということができないから、「動詞」が最初は必要がないのだ。肉体を動かせるようになって、はじめて「動詞」が必要になる。これは「最初に」覚える動詞がたとえば「取って」や「ちょうだい」というようなことばであることにもあらわれている。自分ではできない。だから、誰かにそれをしてもらいたい。自分を動かすのではなく、他人の肉体を動かす。そのためにどうすればいいか、ということから赤ん坊はことばを覚えると思う。
ここから「擬態語」までは、とても遠い。とても「最初に」覚えることばが「擬態語」とは、私には思えない。
*
さらに脱線すると。
私は、ことばだけではなく、あらゆるものが「肉体」であると思っている。つまり、あらゆるものが「人間」であると思っている。
たとえば私はいまパソコンのモニターに向かい、キーボードでこの「日記」を書いている。このときのパソコン。これも肉体である。言い換えると、それをつくった人間の肉体がある。それはいま/ここには直接見えないけれど(そして触れないけれど)、肉体がいろいろな部品を組み立て(つまり部品をある位置に動かし)、その結果が「方便」としてここにある。ほんとうにあるのは、それを動かした「肉体」だけである。
(だから、あらゆるものを大切にしなければならない。それをつくったひと、その肉体に敬意をあらわさないといけない--なんて言ってしまうと「うるさい」感じになってしまうが、まあ、私はときどきそんなこともかんがえたりする。)
何かを動かし、何かに変える。そのこと、その「主語」は「肉体」である。
だから、
と、私は飛躍する。
ことばも同じように、何かを動かし、何かを変える。そのとき「主語」は(主体は)、「ことばの肉体」である。
で、その「ことばの肉体」をていねいに見ていくと、なんと、なんと、ときどきそのことばを書いたひとの「肉体」が見えてくる。まあ、これは妄想の類なのだけれど。で、その「ことばの肉体」にちょっかいを出していると、セックスをしている気持ちになるときがある。変なところをつつくと、ぴくっと動く。いや、書かれてしまっている文字が実際に動くのではないのだけれど、私の想像のなかで、ことばが身悶えしたり、そんなところ触らないでよと怒ったりする。そういうとき、非常に楽しい。
今回の細見の詩には、そういう「ちょっかい」を出す楽しみがない。そこに「肉体」を感じなかった。何かあるのだけれど、それは私にとっては「肉体」ではなかった、ということになる。
細見和之「擬態語論序説」は、そこに書かれている「意味」がわからない。わからないのだけれど、ちょっと、そこに書かれていることがらの一部にかこつけて書いておきたいことがあるので感想を書いてみる。
「タッチ」--
それがうえの娘が最初に覚えた言葉のひとつ
抱き上げて
リビングの壁に近づけると
手を伸ばして
「タッチ」とうれしそうに壁にふれた
やわらかな手のひらがざらついた壁紙にふれる
タッチ--
離れていたものが近づいてついに接触する
タッチ--
そのとき私ははじめてきづいたのだ
「タッチ」ということばが擬態語であることを
「擬態語」。細見がつかっている「意味」がわからない。「タッチ」を私は最初「立っち」と思って読みはじめた。2行目まで、私は「日本語」を生きていた。立った喜びに(立てるよろこびに)「立っち」と口走る。それは親が「はい、立っちして」ということばの反復である。
でも細見の書いている「タッチ」は「touch 」である。
私は英語を理解しないので、それが「擬態語」であるということがわからない。英語に擬態語があるとは思わなかった。というより、そんな感覚にたどりつくためには、いったいどれくらい英語を聞いて話さなければならないだろうと不思議に思った。
「くねくね」した動き、「にやにや」した笑い、「ごろごろ」転がる--日本語で思いつくことばを少し並べてみた。このときの「くねくね」「にやにや」「ごろごろ」というのは、まず音である。音を聞いて、それからその音を聞いたときの耳の印象(あるいは、それを口にしたときの喉や口の印象)と、いま/ここで見ているものが結びつくという積み重ねがあって、はじめて「意味」になる。それは「頭」で覚えるのではなく、「肉体」で覚えることばである。「肉体」の動きとしてなんとなくわかっても、それを「ことば」として誰かに何かを伝えることができるようになるためには、そのことばが「頭」と「肉体」が何往復もしないとできないと思う。
「くねくね」を例に言いなおすと。
「くねくね」は「くねる」「くねらせる」ということばと緊密な関係があると思う。どちらが先にできたことばかわからないが、「くねる」「まがる」「ねじれる」という音を繰り返し聞いて、それとともにある肉体の(ものの)動きを何度も見て、それが「耳」のなか定着して「くねくね」を聞いたとき、「あ、これは、くねる」ということと関係しているということが、なんとなくわかる。「くにゃくにゃ」「くにゅくにゅ」も「くねくね」に近いことが分かってくる。「音」が「肉体」のなかで、そのまわりの動詞をひろいあつけめてき、それが「肉体」のなかにたまっていて、はじめて動きだすことばである。
「意味」よりも、意味を超えた音と肉体の結びつきがあるのだと思う。そして、その結びつきは、ことばを覚える「最初」の期間には存在しない結びつきだと思う。細見が書いていることが、私にはわからないのだが、私の「肉体の記憶」では、擬態語が擬態語として成立するのは、ことばの基本を肉体が覚えてからである。「最初に」は覚えられない。当然、それをつかうこともできない。
「擬態語」って、何?
もしかすると、細見の定義と私の定義は違っているのかもしれない。
*
細見の書いている詩からどんどん離れて行ってしまうけれど。
私は、ことばは肉体であると思っている。ことばにはことばの肉体があると思っている。--ということを、簡単に説明することができないのだけれど。
人間は肉体を持っている。人間が肉体である。そして人間は肉体を動かして、何かをする。「いま/ここ」を変える。主語(肉体)が何かを動かす(動詞)、そしていま/ここにあるもの(目的語?)を変える。私は本を運ぶ--なら、私の肉体が本を持って、それをいま/ここから違う場所に動かす(変化させる)ということである。
同じことをことばはしていると思う。「私は本を運ぶ」は簡単すぎて、何かをしているという感じがしないかもしれない。けれど、「私は本を運ぶ」ということばは、人間の肉体の動きと重なり合う。ことばは実は肉体であるのだけれど、手足や何かと区別するために「方便」として「ことば」と呼んでいるだけなのだ。
哲学(?)というか、ちょっと違う例の方がいいかもしれない。ソクラテスが「弁明」をする。そのとき、ソクラテスはことばをつかって、何かを運んでいる。いま/ここにある何かをほかの場所へ動かしている。それは、たとえば聞いているひとのところへ、ということかもしれないし、その聞いているひとの肉体のなかにあることばを、そのひとの肉体が知らない場所へということかもしれない。よくわからないが、ことばも肉体も、それぞれのことばと肉体をつかいながら何かを動かすということではそっくりなのだ。
だから、その「そっくり」を利用して、私は「ことばは肉体である」というのである。そして、ことばは肉体であるから、人間の肉体が肉体で覚えていることしかできないように、ことばもまたことばが肉体として覚えていることしか動かせないと思う。
で、突然、「擬態語」にもどるのだけれど。
「擬態」が「擬態語」になるためには、ことば(音)と肉体の動きが、ひとつのことだけではなく、幾つもの音と動きを肉体の内部に取り込み、覚えないと不可能なのではないか。「最初に」覚えるようなことではなく、もっと「あとに」なって覚える高度なことなのではないか、と思う。
赤ちゃんは、「まんま(御飯)」とか「パパ」とか「ママ」とかいうことばを「最初」に覚える。つまり、肉体をつかって言えるようになる。(覚えるというのは、つかえるということだ。)そして、その最初に覚えることばの特徴は「動詞」ではない。名詞である。動かない。赤ん坊は自分の肉体で何かを自分の都合のいいように動かすということができないから、「動詞」が最初は必要がないのだ。肉体を動かせるようになって、はじめて「動詞」が必要になる。これは「最初に」覚える動詞がたとえば「取って」や「ちょうだい」というようなことばであることにもあらわれている。自分ではできない。だから、誰かにそれをしてもらいたい。自分を動かすのではなく、他人の肉体を動かす。そのためにどうすればいいか、ということから赤ん坊はことばを覚えると思う。
ここから「擬態語」までは、とても遠い。とても「最初に」覚えることばが「擬態語」とは、私には思えない。
*
さらに脱線すると。
私は、ことばだけではなく、あらゆるものが「肉体」であると思っている。つまり、あらゆるものが「人間」であると思っている。
たとえば私はいまパソコンのモニターに向かい、キーボードでこの「日記」を書いている。このときのパソコン。これも肉体である。言い換えると、それをつくった人間の肉体がある。それはいま/ここには直接見えないけれど(そして触れないけれど)、肉体がいろいろな部品を組み立て(つまり部品をある位置に動かし)、その結果が「方便」としてここにある。ほんとうにあるのは、それを動かした「肉体」だけである。
(だから、あらゆるものを大切にしなければならない。それをつくったひと、その肉体に敬意をあらわさないといけない--なんて言ってしまうと「うるさい」感じになってしまうが、まあ、私はときどきそんなこともかんがえたりする。)
何かを動かし、何かに変える。そのこと、その「主語」は「肉体」である。
だから、
と、私は飛躍する。
ことばも同じように、何かを動かし、何かを変える。そのとき「主語」は(主体は)、「ことばの肉体」である。
で、その「ことばの肉体」をていねいに見ていくと、なんと、なんと、ときどきそのことばを書いたひとの「肉体」が見えてくる。まあ、これは妄想の類なのだけれど。で、その「ことばの肉体」にちょっかいを出していると、セックスをしている気持ちになるときがある。変なところをつつくと、ぴくっと動く。いや、書かれてしまっている文字が実際に動くのではないのだけれど、私の想像のなかで、ことばが身悶えしたり、そんなところ触らないでよと怒ったりする。そういうとき、非常に楽しい。
今回の細見の詩には、そういう「ちょっかい」を出す楽しみがない。そこに「肉体」を感じなかった。何かあるのだけれど、それは私にとっては「肉体」ではなかった、ということになる。
家族の午後―細見和之詩集 | |
細見 和之 | |
澪標 |