詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八柳李花「今朝」

2012-04-26 11:02:46 | 詩(雑誌・同人誌)
八柳李花「今朝」(「紙子」20、2012年04月10日発行)

 ことばは肉体である。ということは、それは「いま/ここ」を生きている人間の肉体と同じように、何かに縛られている。それは法律とかタブーとかいうもののことではない。
 肉体から話しはじめると分かりやすいかもしれない。たとえば私は1時間で3000メートル泳ぐが、45分では泳げない。あるいは「シ」の音がいつも半音下がり「ラシド」とか「ドシラ」がそのまま音にならないというようなことである。私の肉体がかかえこんでいる限界があり、肉体が肉体の「自由」を獲得していないということである。だから、速くかっこよく泳ぐひとをみると、あ、美しい泳ぎだなあ、と思う。正確な歌を聴くと気持ちがいい。そのとき私が体験するのは「私の肉体」ではないけれど、「私の肉体の可能性」でもある。私ではない肉体のなかにある「自由」な力が、私の肉体を刺激する。
 逆の場合は、道端で腹をかかえてうずくまっている人間を見たとき。その肉体は「私の肉体」ではない。けれど、あ、この人は腹が痛いと感じる。そのときの「共感」。
 「肉体」は共感する力を持っている。それは「私の肉体が覚えていること」との「共感」である。私が自分では速く泳げなくても、速く泳ぐひとに「共感」するというのは変な言い方だが、きっと「肉体」には何か「理想」を夢見る力があるのだ。
 そういうことが「ことばの肉体」でも起きると私は思っている。
 「ことばの肉体」も人間の「肉体」と同じように、「限界」というものを知らず知らずに持っている。もっと違うふうに動かしたいのだが、自分では動かせない。そのもどかしさを、「私」ではなく、「ことば自身」も感じている--そう思うときがある。ことばはことばとして「自立」し「自律した音楽」になりうるのに、そうならない。そのことをことば自身が感じている。
 だから、誰かのことばがふいに「自律した運動」を見せるとき、はっと驚く。私の「ことばの肉体」が強い刺激を受ける。
 この瞬間が詩--である、と私は感じている。

 前置きばかり書いてしまったけれど。
 八柳李花「今朝」の書き出し。

ほどかれた絆の
目隠しにやかれた暗がりを行く
葦や羊歯の生い茂る川辺を
沈みながら染み渡る黒泥のあたり
あのひとの閉ざされた掌から
ちろちろと光が漏れてくる
踏み潰された茱萸や昆虫の死骸をこえ
湿地帯をぬけたところで
翻る薄ぼんやりした明るみの
骨ばった手のひらが開かれる
来た、ここに
あれが時間だよ と

 「あのひと」に目隠しされて、湿地帯をぬけてどこかに来た(どこかへ行く)--そのときのことを書いていると思う。
 「ほどかれた/絆」というのは、いわば「定型」である。「目隠しに/やかれた/暗がり」には、「閃光にやかれた」とは矛盾するもの、つまり、ふつうのことばの運動とは逆の、矛盾したものがある。そこに詩の気配が生まれている。しかし、この矛盾自体は「ほどかれた/絆」のなかにすでに内包されている。「絆」はふつうは「結ぶ」ものであって「ほどく」ものではない。けれど、私は、そのことを「定型」と書いた。これは、「現代詩」が獲得した定型であり、抒情の定型でもある。そこから出発しているから「目隠しに/やかれた/暗がり」の「やかれた」が、詩そのものではなく、気配で終わっている。終わってしまう。
 ここでは八柳の「ことばの肉体」は「現代詩」という「定型」(動きの限界)に縛られていることになる。まだ「自立」していない。だから、そこに「自律の音楽」は存在しない。「葦や羊歯」が「生い茂る」というのも「定型」である。「黒泥」「死骸」「湿地帯」とことばが動いていくのも、一種の「定型」である。(途中、「沈みながら染み渡る」という「し」の音の繰り返しによる不思議な音楽があるけれど。)
 ところが、

来た、ここに
あれが時間だよ と

 と、この2行で、ことばの音楽がまったく違ってしまう。光でも闇でもないものが突然噴出してくる。
 光と闇は矛盾したことばであるけれど、途中に「薄ぼんやりした明るみ」ということばを差し挟むと、矛盾ではなく、諧調--グラデーションになり、ひとつながりのものになる。諧調、グラデーションを「連続(接続)」の方法と言ってもいい。ここに書かれている「主役(八柳?)」と「あのひと」は「目隠し」「手引き」という「連続」を生きている。目隠しをする「あのひと」が光(明かり)、目隠しされた八柳が闇(暗がり)で、中間の掌が「薄ぼんやりした明るみ(薄ぼんやりした闇)という形で反復されているのだが、それが突然「手のひらが開かれる」によって、切断される。
 このとき、「掌」から「手のひら」へと表記が変化しているのは、つぎの「開かれる」の音の影響--音の先取りだろう。ことばの「自立(自律)」がここでは、そんな具合に、無意識におこなわれている。--つまり、かってに動きはじめている。かってな動きが暴走(?)し、

来た、ここに
あれが時間だよ と

 と、突然、「風景」が否定され、「時間」が「ここ」と結びつけられる。
 この唐突な「自立(自律)」は、ちょっとランボーの有名な詩を思い出させる。

見つかった
何が 永遠だ
太陽と連れ立って行った
海だ

 正確ではないけれど、そういう行があったはずだ。その、ランボーの「永遠」のように、八柳は「時間」ということばを書いている。
 太陽と海という目の前にある光景を語ることばと「永遠」は無関係である。同じように、湿地帯を語ることばと「時間」は無関係である。
 無関係であるものが、突然「関係」にかわる。それは、別なことばで言えば、それまでの「関係」を破壊し、それまでのことばの運動を縛りつけていた何かを破壊し、ことばを解放した結果、突然生まれることができた何かである。
 この「破壊」「解放」を「自由」と呼び変えると、詩の定義になる。
 詩はかけ離れたものの突然の出合い。--とは、それまでの関係を破壊し、それまでの関係からことばを解放し、ことばがそれまで結びつかなかったものと結びつく自由を獲得することである。
 そういうことを「ことばの肉体」は求めている。そういう「ことばの欲求・欲望」と、私たちの(少なくとも私の)「肉体の欲求・欲望」はぴったり重なる形で動いている。欲求・欲望のあり方は「ことば」も「肉体」もかわらない。

 ことばはことば、肉体は肉体、と考えるのではなく、「ことばは肉体である」と考えると、すべてがシンプルになる。経済的になる。

 余分なことを書きすぎたかもしれない。
 私は、ことばのなかから、ことばが「肉体」として自立して、自律した音楽として動きだす瞬間が好きなのだ。そういうものを詩を感じている。八柳の2行に、それを感じた。簡単に書くと、そうなる。



サンクチュアリ
八柳 李花
思潮社
Beady‐fingers.―八柳李花詩集
八柳 李花
ふらんす堂
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする