佐々木英明「若いおんなと老人」(「ココア共和国」9、2012年03月01日発行)
佐々木英明「若いおんなと老人」を読みながら、ぼんやりと寺山修司を思い出した。秋亜綺羅の発行する「ココア共和国」には、寺山修司の「気分」がいつも満ちている。たぶん、それが秋亜綺羅の「好み」なのだと思う。で、何が寺山修司の「気分」かというと、「論理性」である。ことばに論理がある。しかも、その論理性はとても静かである。ていねいである。むりがない。
「きみを汽車に乗せたい」は「時を遡る」(過去へ行く)ということだが、一気にそんなふうには言わない。「電車ではなく汽車に」と「汽車」を繰り返し、その「意味」も一気には言ってしまわない。「ということはあれだ」はワンクッションある。「あれ」とは何か。前の行には出てこない。出てこないのだけれど、この「ということはあれだ」という口語の口調とリズムには、なつかしいものがあり、つまり、こういう口調・リズムがことばとして通じるのは、聞き手と話し手の間に共通の「過去」があるからだをということを感じさせておいて、「ずっと時を遡るってことだ」とつないでゆく。
このとき、ここには書かれていないけれど、二人は「過去(時を遡ったある時)」に、いっしょに「汽車」を体験していることがわかる。いっしょに汽車を体験していなければ、それが「時を遡る」ということがわからない。ふたりはいっしょに汽車に乗り、どこかへ行った。行かなかったとしても、行こうと約束した--そういう「過去」が見えてくる。そして、その「過去」には、ふたりの「感情」がある。「過去」とは「感情」であり、「感情」が時間といっしょに動くとき、そこに「記憶」の「意味」が生まれてくる。それが佐々木にとって「論理」ということになるかもしれない。
知性にとっての「意味」ではなく、「感情」にとっての「意味/論理」。これを、たぶん「抒情」という。この抒情の定義が、寺山修司の「気分」なのだと思う。
で、その「論理」に、「頭」ではなく違うものが入ってくるというのは、「ということはあれだ」という行に象徴的に凝縮している。そこに「論理」の飛躍があるのだけれど、そしてその飛躍を可能にしているのは、「体験」、つまり実際に肉体があって、ことばがあって、会話してきたという時間の蓄積があるということ。
夫婦の会話で「あれ、とって」「ああ、あれね」とか「あれ、とって」「あれって、何」「なんで、あれがわからない」なんていう会話があったりする。そのとき「あれ」はなんとなく共有されている。それと同じように、「とういことはあれだ」というとき、少なくとも話し手の方には「あれ」が聞き手との間に、無意識的に共有されているということだね。
つまり、そこには「過去」がある。
これは言い換えると、ことばが「芝居」のことばであるということだ。芝居は、登場人物がそれぞれ「過去」を「いま/ここ(舞台)」に持ち込んでいる。(小説と、そこが違う--小説は、あとでなんとでも説明できるが、舞台は役者がでてきてたら、そこに「過去」がないとは時間が動かない。)
そして、その「過去」が何度も何度も「肉体」として噴出し、いまを、未来へ動かしていく。
佐々木の詩は、実際、そんなふうにして、「ということはあれだ」を繰り返しながら、突き進んで行く。
「ということはあれだ」が最後に「ということはつまり」に変化する。「あれ」という間接性がきえ「つまり」という直接に変わる。そのとき「過去」は「現在」になる。そして、そういうことが可能なのは、そこにあることばが「肉体」をもっている、「肉体」とともにあるということなのだ。
だから、この詩は、ひとりで「雑誌」で読むよりも、舞台に乗せて、役者にしゃべらせた方がもっとくっきりする。「口笛に口をとがらせる」というような具体的な肉体の表現がなまなましくなる。リアルになる。なんといっても、そこには話者の肉体と向き合っている聞き手(他人)の肉体があるからね。
(私の感想の、この最後の部分--ちょっと性急すぎるね。説明不足だとはわかっているけれど、省略。--長く書いていると、目の具合が悪くなるので、また機会があったらつづきを書く。いまは書く時間を20分-30分に限定している。)
佐々木英明「若いおんなと老人」を読みながら、ぼんやりと寺山修司を思い出した。秋亜綺羅の発行する「ココア共和国」には、寺山修司の「気分」がいつも満ちている。たぶん、それが秋亜綺羅の「好み」なのだと思う。で、何が寺山修司の「気分」かというと、「論理性」である。ことばに論理がある。しかも、その論理性はとても静かである。ていねいである。むりがない。
きみを汽車に乗せたい
電車ではなく汽車に
ということはあれだ
ずっと時を遡るってことだ
「きみを汽車に乗せたい」は「時を遡る」(過去へ行く)ということだが、一気にそんなふうには言わない。「電車ではなく汽車に」と「汽車」を繰り返し、その「意味」も一気には言ってしまわない。「ということはあれだ」はワンクッションある。「あれ」とは何か。前の行には出てこない。出てこないのだけれど、この「ということはあれだ」という口語の口調とリズムには、なつかしいものがあり、つまり、こういう口調・リズムがことばとして通じるのは、聞き手と話し手の間に共通の「過去」があるからだをということを感じさせておいて、「ずっと時を遡るってことだ」とつないでゆく。
このとき、ここには書かれていないけれど、二人は「過去(時を遡ったある時)」に、いっしょに「汽車」を体験していることがわかる。いっしょに汽車を体験していなければ、それが「時を遡る」ということがわからない。ふたりはいっしょに汽車に乗り、どこかへ行った。行かなかったとしても、行こうと約束した--そういう「過去」が見えてくる。そして、その「過去」には、ふたりの「感情」がある。「過去」とは「感情」であり、「感情」が時間といっしょに動くとき、そこに「記憶」の「意味」が生まれてくる。それが佐々木にとって「論理」ということになるかもしれない。
知性にとっての「意味」ではなく、「感情」にとっての「意味/論理」。これを、たぶん「抒情」という。この抒情の定義が、寺山修司の「気分」なのだと思う。
で、その「論理」に、「頭」ではなく違うものが入ってくるというのは、「ということはあれだ」という行に象徴的に凝縮している。そこに「論理」の飛躍があるのだけれど、そしてその飛躍を可能にしているのは、「体験」、つまり実際に肉体があって、ことばがあって、会話してきたという時間の蓄積があるということ。
夫婦の会話で「あれ、とって」「ああ、あれね」とか「あれ、とって」「あれって、何」「なんで、あれがわからない」なんていう会話があったりする。そのとき「あれ」はなんとなく共有されている。それと同じように、「とういことはあれだ」というとき、少なくとも話し手の方には「あれ」が聞き手との間に、無意識的に共有されているということだね。
つまり、そこには「過去」がある。
これは言い換えると、ことばが「芝居」のことばであるということだ。芝居は、登場人物がそれぞれ「過去」を「いま/ここ(舞台)」に持ち込んでいる。(小説と、そこが違う--小説は、あとでなんとでも説明できるが、舞台は役者がでてきてたら、そこに「過去」がないとは時間が動かない。)
そして、その「過去」が何度も何度も「肉体」として噴出し、いまを、未来へ動かしていく。
佐々木の詩は、実際、そんなふうにして、「ということはあれだ」を繰り返しながら、突き進んで行く。
きみを海辺に降ろしたい
山ではなく海辺に
とういことはあれだ
ぼくらはさびしい恋人同士ってことだ
潮騒を聴き
口笛に口をとがらせる
きみの時間だけもどし
ぼくは砂浜の植物たちの名を口ごもる
その奇妙な音のつながりが
きみには
少し先の未来に思われる
ということはあれだ
きみはぼくを振り向けないってことだ
愛のことばが
きみをいっそうさびしくする
一駅ごとにまとわりつく翳を
振り払いもせず
きみは帰ってくる
すすけた電車で
ということはつまり
植物誌をたったいま閉じたばかりの
ぼくのもとへということだ
「ということはあれだ」が最後に「ということはつまり」に変化する。「あれ」という間接性がきえ「つまり」という直接に変わる。そのとき「過去」は「現在」になる。そして、そういうことが可能なのは、そこにあることばが「肉体」をもっている、「肉体」とともにあるということなのだ。
だから、この詩は、ひとりで「雑誌」で読むよりも、舞台に乗せて、役者にしゃべらせた方がもっとくっきりする。「口笛に口をとがらせる」というような具体的な肉体の表現がなまなましくなる。リアルになる。なんといっても、そこには話者の肉体と向き合っている聞き手(他人)の肉体があるからね。
(私の感想の、この最後の部分--ちょっと性急すぎるね。説明不足だとはわかっているけれど、省略。--長く書いていると、目の具合が悪くなるので、また機会があったらつづきを書く。いまは書く時間を20分-30分に限定している。)
季刊 ココア共和国vol.9 | |
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