詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

進一男『その人のこと』

2012-04-17 10:41:39 | 詩集
進一男『その人のこと』(沖積社、2012年03月21日発行)

 進一男『その人のこと』の「その人」とはキリストのことである。これまでの詩集のなかからキリストを描いた詩を集めたアンソロジーということになる。私は不信心もので、神というものについて考えたことがない。神を感じたこともない。だから、私の書く感想は、進の書いていることとは相いれないものになるかもしれない。
 私が興味をもったのは「師」というタイトルの作品である。

師をめがけて、人々は石を投げた。弟子たちの言えも叩き毀され、水を掛けられた。やがて人々は去って、師も弟子たちの姿も何時しか消えてしまった。沈黙の言葉が残された。私はそれを拾い集めようとしたが、私の手には負えなかった。でもその幾つかを、私は胸の内ポケットに蔵いこんだ。時が過ぎ時が移り変わって、弟子たちは帰ってきた。だが私は師の姿を見なかった。師は何処へ行ったのか、誰もそのことを口にしなかったが、私には明らかに分かっていた。師は更に師を受け入れない人々の中に、自ら入っていったのだということが。何故なら、かつて私が拾い集めた言葉の中にはそのことが誌されていたから。

 「師を受け入れない人々の中に、自ら入っていった」、そうすることがキリストの運動なら、師を認め、師を師と仰ぐひとにとって、たとえば進にとって師はキリストでありつづけるのか。
 キリストは、キリストを信仰するひとを求めるのではなく、キリストを拒み、石を投げるひとを求め、そのなかへ入ってゆく。石を投げられてこそ、キリストはキリストであることができる。信仰の対象になったとき、もうキリストではないということになりはしないか。
 キリストを「目撃」するなら、そしてキリストといっしょに生きるなら、それはキリストの迫害を見つづけることになる。
 キリストを受け入れないひとがいる。だから、そのなかへと進んでゆく。キリストにとって、到達点はない。だから、神として存在しうる。
 --これは、何かが矛盾している。
 神(キリスト)が存在するとしても、進がキリストを信仰しているにしても、そのキリストは進といっしょにいるのではなく、迫害するひとといっしょにいる。迫害されることで、キリストは神になる。

 信仰するひとを、キリストは必要としていない。自分の「存在理由」として認めていない。

 これは、逆の視点から見ていけば、少し違ったものが見えるかもしれない。「矛盾」が「矛盾」であるけれど、違ったものに見えるかもしれない。
 迫害されるとき、キリストがキリストになるのなら、ひともた迫害されるときにキリストに近づくのかもしれない。なぜ迫害されなければいけないのか。なぜ神は私に迫害されるようにしむけるのか--その、わけのわからない疑問に苦悩するときに、その疑問に苦しむことを支える何か、それがキリストということになるかもしれない。
 迫害されるとき、ひとはキリストではない。けれど、キリストと同じ「運命」を生きている。その苦悩の「運命」のなかで、ひとはキリストにいちばん接近するのだろう。直にキリストを感じることになるのかもしれない。
 私は、かつて読んだ遠藤周作の『沈黙』を思い出している。神、キリストとは無縁な時間を私は生きているが、その小説のなかで、何人かの信者たちが苦悩する場面では、あ、このひとたちはたしかに神というものを感じているのだと思った。それは、私の体験したことのない不思議なことがらなので、私が書いていることが正確かどうかわからないが、そうか、対象(といっていいのかな?)とそういう接近の仕方があるのか、と驚いたということである。

 もし、そうだとするなら。

 進の書いている一連の作品が私にはよくわからない。進の苦悩がわからない、ということでもある。進は師(キリスト)を信じてしまっている。そのときほんとうにキリストはいるのか、進のかたわらにキリストはいるのか。
 不在なのではないのか。
 しかし、不在が「悪い」わけではないかもしれない。不在だからこそ、その不在を埋めようとして進はことばを書く。不在だからこそ、そこに存在しない神を書く。--そういう「矛盾」のなかで、何かが浮かび上がるということかもしれない。
 「師を受け入れない人々の中に、自ら入っていった」ということばを書き直せば、「進むは神の不在のなか(世界)へ、自ら入っていった」になるのかもしれない。「何故なら、神は常に迫害するもの、不信心の人々の中へ--つまり、神の不在の世界へこそ入っていったと、あらゆる書物に記されている。神の不在の場でしか神に出会えないからだ」ということになるのかもしれない。

 あ、でもねえ。
 なんといえばいいのかよくわからないから、適当なことを書いてしまうのだが、進のことばには、何か肉体の苦悩がない。私がいま書いているこのことばのように、何か「頭」だけでことばを動かして、それがほんとうに動いているかどうかを確かめているようなところがある。
 「頭」のなかだけでは、ことばは、矛盾も矛盾と定義することで、楽々と動いてしまう。これって、変だよなあ、と私は思うのである。
 しかし、まあ、これはキリストと無縁な私の感想。キリスト教の信者が読むと違った感想になるかもしれない。



進一男詩集 (日本現代詩文庫 (94))
進 一男
土曜美術社出版販売
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする