草野早苗『キルギスの帽子』(思潮社、2012年03月31日発行)
草野早苗『キルギスの帽子』を読みながら孤独を感じた。その孤独は、ことばから何もはみださないところから生まれてくる印象である。--と、書いてはみたものの、抽象的すぎて、なんのことかわからないだろうなあ……。いや、私自身がよく分からないのだけれど。
たとえば「島の教会」。
たぶん詩人は海が見渡せる高みにいる。丘の上かもしれない。「島の教会」というタイトルから想像するに、そこには教会が立っているのかもしれない。そこからは海だけではなく、木々や植物が見える。風が吹いている。その風を何にも遮られることなく、木々や植物のように、あるいは詩人が木々や植物になって、風を感じることができる。そして、揺れる。いや、それだけではない。そのとき詩人は風に揺れる木々や植物であるだけではなく、風そのものでもある。あるいは、星の形の広がりの海であり、同時にあらゆる方向である。つまり、どの方向にも開かれている。
草野の「孤独」は、たぶん「あらゆる方向」ということばに象徴されている。どこか一方に向いているのではない。何かの「目的」に向かって動いているために、他のものを拒絶して生まれる孤独ではない。何もかも捨ててしまって、解放(開放?)されてしまった孤独なのである。
「孤独」というと、何かしら、こころの「核」のようなものを思い浮かべるとわかりやすいが--つまり、何もと接点をもたない「孤独」を考えるとわかりやすいが、草野の場合、「孤独」はそういうものとは違うのだ。--草野のことばから感じる孤独はそういうものとは違う。何か、核のない、開放(解放?)されてしまった「広がり」が孤独である。
「星の形に広がり」の「広がり」、そして「あらゆる方向」の「あらゆる」が孤独なのである。それは「空間」的な問題に限定されない。「あらゆる/方向」に開放(解放?)されているのではなく、あらゆる「存在」に対して開放(解放?)されている。海にも、風にも、木々にも、植物にも--すべての「存在」と一瞬のうちに融合して、詩人が詩人の枠を超えてしまう。そういう感じの「孤独」である。
ことばにするたびに、そのことばは詩人ではなく、そこにある「存在」になってしまう。詩人という「核」が「存在」に一瞬のうちに入れ替わってしまう--そういう運動としての(?)孤独。そういうものを感じる。
「失ったものと得たものと/得たものと失ったもの」。ここに書かれているのは、やはり一瞬の入れ替わりである。それは入れ替わることで「ひとつ」になる。失ったものと得たものという「ふたつ」があるのではなく、それは失わないことには得られなかったもの、つまり「ひとつ」なのだ。それは「もの」ではなく、そういう体験をとおしてできあがる「私」という存在なのである。「私」があらゆる体験に対して開かれる。そうして、その体験のなかでそれまでの「私」を失い、新しい「私」になる。あるいは、新しい私になることでそれまでの私を失う。その繰り返し。瞬間瞬間に生まれ変わる。一期一会。そういう孤独が、草野の詩を貫いている。
草野の思想(肉体)は、「ただそこに在る」という「存在論」に立っている。そこに「在る」だけ。何もとつながらない。何ともつながらないことによって、あらゆるものとつながる。その断絶と開放と、開放と融合--この運動を可能にする「孤独」として、「ただ在る」。だれにも頼らず、「ただ在る」。
「かつて私が死んだり生まれたりした場所」。「……たり……たり」というのは繰り返しである。繰り返すことで、前者と後者の運動は「ひとつ」になる。同じことになる。「死ぬ」と「生まれる」は反対のことがら、いわば矛盾した運動だけれど、繰り返しによって、その繰り返し自体が「ひとつの運動」となる。そして、その運動の中にすべてのものが融合する。その運動の中にあらゆるものが、出たり入ったりする。つまり、その運動のなかで「失ったり得たり」、「得たり失ったり」が繰り返される。
そういう運動として、私という存在は、「ただ在る」。
草野の書いているのは、「存在論」であり、「運動論」である。そこでは「孤独」であることは、「孤独」ではない、ということでもある。「孤独」であることで、はじめてあらゆる存在と融合し、「宇宙(いのち)」になる。その宇宙は、実は「肉体(ことば)」のなかにある。
草野のことばが「孤独」に見える(感じられる)のは、いま、こういうことばを書く詩人が少ないからかもしれない。
こういう詩を書くひとが少ないので、この詩を「位置づける」ことが難しい。詩に、「位置」というものなどいらないのは承知しているが、「位置」が見あたらないというのは、詩としては「損」かもしれない。
とてもいい詩なのに、孤立してしまう。孤独が草野の特徴だとしても、これはなんだか残念な感じがする。書くひとが少ないなら、せめて、多くのひとに読んでもらいたい--そう願わずにはいられない。
草野早苗『キルギスの帽子』を読みながら孤独を感じた。その孤独は、ことばから何もはみださないところから生まれてくる印象である。--と、書いてはみたものの、抽象的すぎて、なんのことかわからないだろうなあ……。いや、私自身がよく分からないのだけれど。
たとえば「島の教会」。
島の海面は星の形に広がり
あらゆる方向から吹く風に
木々や植物は動いて揺れて
くしゃくしゃの巻き毛のように
絡み合っている
たぶん詩人は海が見渡せる高みにいる。丘の上かもしれない。「島の教会」というタイトルから想像するに、そこには教会が立っているのかもしれない。そこからは海だけではなく、木々や植物が見える。風が吹いている。その風を何にも遮られることなく、木々や植物のように、あるいは詩人が木々や植物になって、風を感じることができる。そして、揺れる。いや、それだけではない。そのとき詩人は風に揺れる木々や植物であるだけではなく、風そのものでもある。あるいは、星の形の広がりの海であり、同時にあらゆる方向である。つまり、どの方向にも開かれている。
草野の「孤独」は、たぶん「あらゆる方向」ということばに象徴されている。どこか一方に向いているのではない。何かの「目的」に向かって動いているために、他のものを拒絶して生まれる孤独ではない。何もかも捨ててしまって、解放(開放?)されてしまった孤独なのである。
「孤独」というと、何かしら、こころの「核」のようなものを思い浮かべるとわかりやすいが--つまり、何もと接点をもたない「孤独」を考えるとわかりやすいが、草野の場合、「孤独」はそういうものとは違うのだ。--草野のことばから感じる孤独はそういうものとは違う。何か、核のない、開放(解放?)されてしまった「広がり」が孤独である。
「星の形に広がり」の「広がり」、そして「あらゆる方向」の「あらゆる」が孤独なのである。それは「空間」的な問題に限定されない。「あらゆる/方向」に開放(解放?)されているのではなく、あらゆる「存在」に対して開放(解放?)されている。海にも、風にも、木々にも、植物にも--すべての「存在」と一瞬のうちに融合して、詩人が詩人の枠を超えてしまう。そういう感じの「孤独」である。
ことばにするたびに、そのことばは詩人ではなく、そこにある「存在」になってしまう。詩人という「核」が「存在」に一瞬のうちに入れ替わってしまう--そういう運動としての(?)孤独。そういうものを感じる。
海を渡る前から考えていた
失ったものと得たものと
得たものと失ったもの
「失ったものと得たものと/得たものと失ったもの」。ここに書かれているのは、やはり一瞬の入れ替わりである。それは入れ替わることで「ひとつ」になる。失ったものと得たものという「ふたつ」があるのではなく、それは失わないことには得られなかったもの、つまり「ひとつ」なのだ。それは「もの」ではなく、そういう体験をとおしてできあがる「私」という存在なのである。「私」があらゆる体験に対して開かれる。そうして、その体験のなかでそれまでの「私」を失い、新しい「私」になる。あるいは、新しい私になることでそれまでの私を失う。その繰り返し。瞬間瞬間に生まれ変わる。一期一会。そういう孤独が、草野の詩を貫いている。
入江の向こう側
岬を少し入ったところに建つ教会
潮が満ちてきているので
波に浮いているように見える
丘の中腹の修道院の庭から見下ろせば
それはまるで小さな野の花のように
ただそこに在る
草野の思想(肉体)は、「ただそこに在る」という「存在論」に立っている。そこに「在る」だけ。何もとつながらない。何ともつながらないことによって、あらゆるものとつながる。その断絶と開放と、開放と融合--この運動を可能にする「孤独」として、「ただ在る」。だれにも頼らず、「ただ在る」。
秋の陽が岬の向こうに落ちるまで
私は見つめていた
入江の向こうの野の花のような教会を
生まれる前から知っていた
かつて私が死んだり生まれたりした場所を
私の魂はようやく気づく
失ったものも得たものも
なにもありはしないのだと
そんなことより
もっとあの海の向こうに行ってみよう
遠くまで
「かつて私が死んだり生まれたりした場所」。「……たり……たり」というのは繰り返しである。繰り返すことで、前者と後者の運動は「ひとつ」になる。同じことになる。「死ぬ」と「生まれる」は反対のことがら、いわば矛盾した運動だけれど、繰り返しによって、その繰り返し自体が「ひとつの運動」となる。そして、その運動の中にすべてのものが融合する。その運動の中にあらゆるものが、出たり入ったりする。つまり、その運動のなかで「失ったり得たり」、「得たり失ったり」が繰り返される。
そういう運動として、私という存在は、「ただ在る」。
草野の書いているのは、「存在論」であり、「運動論」である。そこでは「孤独」であることは、「孤独」ではない、ということでもある。「孤独」であることで、はじめてあらゆる存在と融合し、「宇宙(いのち)」になる。その宇宙は、実は「肉体(ことば)」のなかにある。
草野のことばが「孤独」に見える(感じられる)のは、いま、こういうことばを書く詩人が少ないからかもしれない。
こういう詩を書くひとが少ないので、この詩を「位置づける」ことが難しい。詩に、「位置」というものなどいらないのは承知しているが、「位置」が見あたらないというのは、詩としては「損」かもしれない。
とてもいい詩なのに、孤立してしまう。孤独が草野の特徴だとしても、これはなんだか残念な感じがする。書くひとが少ないなら、せめて、多くのひとに読んでもらいたい--そう願わずにはいられない。
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