詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジェシカ・ハウスナー、マルティン・ゲシュラハト監督「ルルドの泉で」

2012-04-18 10:28:28 | 映画
監督 ジェシカ・ハウスナー、マルティン・ゲシュラハト 出演 シルヴィー・テステュー
 
 ルルド--といえば、フランスでは、「奇跡」が起きる場所として有名なのだろう。この映画では全身の筋肉が硬直して動けない若い女性が、健常な体に戻るこそを願って、ルルドへやってくる。彼女と彼女の周辺の人物を描いている。
 この女性を演じるシルヴィー・テステューは、非常に透明感がある。その透明な感じが、この映画全体を内側から輝かせている。私のようにキリストとは無縁な人間、奇跡などほんとうにあるのかと思っている人間の、まあ、不信心な思いもきちんと受け止めて、そのまま透明な光として他の登場人物を照らしてくれる。
 どういうことか、というと……。
 多くのひとが奇跡を求めてやってくるわけだけれど、奇跡というのは起きないから奇跡であって、それを支えるひとたちは半分、そのことを知っている。つまり、信じていない。信じていないのだけれど、それを求める気持ちまでもは否定しない。そして、奇跡を求めるひとたちをサポートする。当然、そこには奇跡とは無縁な、奇跡を求めない人間の欲望が動く。
 女性を支える仕事をしながら、一方で、「あ、あの男、色っぽい。セックスしたい」というような思いを胸に抱いている。実際に積極的に近づき、セックスもしてしまう。女性の介護よりも、自分のセックスの方が大事であるので、それがそのまま態度にも出てしまう。女性は、それをただ目でしっかりとみつめる。非難したりはしない。人間とは、そういう欲望をもっているということを、そのまま受け入れている。
 彼女の周辺には、牧師(神父?、どっちだっけ)やボランティアの軍人たちがたくさんいるのだが、そこで会話されることばも、半分、信仰とはほど遠いものである。たとえば、なぜ奇跡はルルドで起きるのか。マリアがキリストに旅行を持ちかける。あそこも行った、ここも行った。「では、ルルドは?」「ルルドか、行ったことがない、行こう」そういうことで、ルルドで奇跡が起きる--というジョーク。これは女性が直接聞いたジョークではないが、そういうものがそこでは飛び交っている。そして、神父(牧師?)はそれを聞いても拒絶したりはしない、ということをとおして彼女の周辺の「俗」がていねいに描かれる。
 そういう彼女に、「奇跡」が起きる。手が動き、足も動き、自分で洋服を着て、歩くこともできるようになる。
 意思は、この病気にはときどき「溶解期があって、体が動くようになることがある。その後ふたたび悪化する」と説明するのだが、「奇跡」と認められる。--ここからが、この映画の真骨頂である。
 女性の中に、恋愛の欲望、セックスの欲望が芽生えてくる。そして、それを男に伝えもする。男は戸惑う。自分が選ばれたことが「奇跡」とどう関係するのか。一種の恐怖である。周りの人も「なぜ、彼女が」といぶかる。そこには「妬み」も入ってくる。もっと信心深いひとがいるのに、ほんとうに奇跡なのだろうか、と思ったりもする。人間というのは、まあ、自分のことしか考えない。それはそれでいいのだが、そういうことを、この映画は、女性の透明な視線で、そのまままっすぐに描いている。
 そして。
 女性が男とダンスをする。ターンする。そして、突然、床に倒れる。何が起きたのか。単につまずいたのか。それとも病気がぶりもどしたのか。--このことを、この映画は描かない。車椅子をもってきて、「立っていないで座ったら」とすすめる。女性は、「立っているから大丈夫」と答える。その彼女から、周りの人がどんどん離れていく。母親だけを残して、だれもいなくなる。いや、いるのだが、完全な「溝」ができる。女性に男を奪われた看護師は、ステージで歌手といっしょに「幸せ」ということばがたくさん出てくる歌を歌っている。歌手に媚を売っている。
 直接描かれるわけではないのだが、「やっぱり奇跡なんかじゃなかった」という声が、強く強く響いてくる。「彼女に奇跡なんかが起きるはずがない」。それは、ある意味で「よかった」という一種の喜びの声である。彼女に起きたことが奇跡ではなかったのだから、私にそれが起きる可能性がある--とだれもが思うのである。ダンスをいっしょに踊っていた男も、すーっと離れていって、もう戻っては来ない。
 その声を聞きとって、女性は車椅子に座る。そばには母だけがいる。そこで映画は終わる。

 で。

 ほんとうに奇跡は起きなかった? それとも起きた?
 つまり、彼女は、意思が言ったように「溶解期」を味わっただけで、もとの病気に戻ってしまうのか。まあ、科学的には、そういうことになるのかもしれないけれど、実は、よくわからない。ほんとうに改善したのかもしれない。肉体は自由に動くようになったのかもしれない。けれど、ひとがそれを祝福してくれないから、車椅子に座っただけなのかもしれない。肉体の回復に反比例(?)するようにして、彼女は人間のこころのなかの闇を見た、人間の「本性」に気がついた、そして疲れてしまった--ということかもしれない。
 どちらとも受け止めることができる。
 私は--不思議なことに、神も奇跡も信じたりはしないのだが、なぜか、奇跡は起きたのだ。彼女は肉体的には完全に健康な状態にもどったのだと感じた。しかし、そのとき、人間のこころが実際にどんなふうに動いているかを見てしまった。そして、激しく疲れてしまった、立っていられないくらい疲れてしまった、と思ってしまった。
 それは、まあ、ことばを変えて言えばキリストになった、マリアになった、ということかもしれない。
 そんなことを思ってしまうくらい、人間の描写が冷徹なのである。その冷徹を、シルヴィー・テステューの透明な目、その視線の輝きが貫いている。実際、ラストの失望の暗い目は、神父に「なぜ、私が苦難を受ける人間として選ばれたのか、ひとがうらやましい」と苦しみを訴えたときの目よりも、はるかに絶望的なのだ。
 奇跡はあるのか、ないのか--ではなく、人間は何を考えているか、何を感じているかを、「奇跡」を狂言回しにして描いた映画だと言える。

 つけたし。
 最後に女性の看護師をつとめた若い女性が歌手といっしょに歌っている歌が流れる。これが、私にはこの映画を象徴しているように思えた。歌手(男)の声は安定している。きちんとメロディーもリズムもあっている。ところが看護師の声は外れている。外れているといっても極端に外れているわけではないのだが、まあ、ふつうの歌である。それが重なったまま歌いつづけられる。
 さて、あなたは、どっち? 歌手の方? 音が外れる若い女性の方?
 まるで、いまこの映画で起きたことは、奇跡? それとも単なる病気途中の一時的な現象? といっているようでもある。
 どこかに「理想」がある。そして他方に「現実」がある。それはいつでも「二重」になっている。そこから、ひとを、何を選びとるべきなのか。選びとったものを何と名づけるべきなのか。
 宗教というより、哲学の映画なのかもしれない。



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