佐藤春子『ケヤキと並んで』(あざみ書房、2012年04月10日発行)
佐藤春子のことばは、伊藤恵理美のことばと比較すると、ことば自体の動きがゆったりしている。伊藤のことばには、「海を/連れてくる」(ほたて)、「おかえり の ことばを乗せて」(スリッパ)のように、動詞を「比喩」としてつかう動きがある。それがことばの速度となって響いてくる。そして、その比喩としての動詞が、一種の「知性」(知的)な感じで響いてくる。佐藤のことばには、そういう響きはない。これは、どちらがいいとか、どちらが優れているという問題ではなくて、生き方の問題である。佐藤は対象の内部にはいり、そこから対象を生きるというようなことばの動かし方をしないで、あくまでも外から対象を眺めている。外から対象に寄り添っている。その「外から」という距離感が、ことばをゆったりとした動きに感じさせるのだと思う。
「カラス」という作品。
カラスが柿の変化に気がついた。そして、佐藤はカラスにそのことを教えられた。そういうことを、佐藤は「教えられた」ということばをつかわずに、ことばを動かす。あるいは、カラスは柿の渋が抜けたのを、人間とは違った能力で見抜くということを、「人間とは違った能力で見抜く」というような表現をつかわずに、ことばを動かす。
人間化しない、「比喩」にしない。ただ、そこにカラスを存在させる。そして、そのカラスによりそう。そして、逆に(?)、カラスと人間の違いこそを強調する。カラスならではの存在の仕方をことばとして、そこに存在させる。
この足音。いいなあ。カラスの歩く動きが見える。「トタ」のくりかえし、そのリズムの乱れ(?)、乱れの中にあるいのち。
人間とは違う。違うから、そこにカラスが生きているということが楽しい。
でも、人間のことばというのは不思議なもので、どんな対象を描こうと、それが「人間」に見えてしまう。カラスが吊るし柿を食べにくるのは、こどもが吊るし柿を盗み取りにくるのと同じように感じられ、あ、かわいいもんだなあと思ったりする。
佐藤は対象の内部にはいりこみ、内部から対象を生きるのではなく、外側から対象に人間を重ねるのかもしれない。
「比喩」の動きが、伊藤が「内部」からなのに対し、佐藤は「外部」から、ということになる。
でも、この「内部」「外部」というのは、「方便」であって、厳密な定義ではないんだけれどね。
「杉山さんと藤川さんの関係」という詩は、このタイトルと詩の内容の重ね合わせ方が微妙である。ある家に杉の大木がある。そばに藤の木がある。
「藤はまるで/この杉の木に嫁いだように」--この行がこのままなら、それは藤という対象の内部から藤の動きを「比喩」にしたものといえる。佐藤は、しかし、それをそんなふうに比喩化しない。比喩として書いておきながら譬喩化しないというのは、変だけれど……。タイトルに戻って見ると、佐藤のことばの独自性が見えてくる。
杉と藤の関係を、「杉山さんと藤川さんの関係」と言っている。人間の関係を並列させている。並べることで、両方を一緒に照らしだしている。
佐藤のことばの運動に「外側」からという印象がついてまわるのは、この「並列」という感覚が働いているからだと思う。
人間も、自然も、同じ。同じように「並んで」生きている。「並列」が佐藤の肉体であり、佐藤の思想なのだと思う。
で、もう一度「カラス」にもどる。
そうすると、ほら、カラスも人間と同じように甘くなった柿が食べたいという同じ欲望で人間と「並んでいる」。ともに生きている。その「並列」を、佐藤はいいものだなあ、と受け止めていることがわかる。もちろんカラスに食べられたら、憎たらしいカラスと思うんだけれど、そういう感情をもつことが「並列」、一緒に生きるということ、一緒にいきる楽しさだね。
佐藤春子のことばは、伊藤恵理美のことばと比較すると、ことば自体の動きがゆったりしている。伊藤のことばには、「海を/連れてくる」(ほたて)、「おかえり の ことばを乗せて」(スリッパ)のように、動詞を「比喩」としてつかう動きがある。それがことばの速度となって響いてくる。そして、その比喩としての動詞が、一種の「知性」(知的)な感じで響いてくる。佐藤のことばには、そういう響きはない。これは、どちらがいいとか、どちらが優れているという問題ではなくて、生き方の問題である。佐藤は対象の内部にはいり、そこから対象を生きるというようなことばの動かし方をしないで、あくまでも外から対象を眺めている。外から対象に寄り添っている。その「外から」という距離感が、ことばをゆったりとした動きに感じさせるのだと思う。
「カラス」という作品。
台所で
午後のお茶を飲んでいると
屋根の上で音がした
トタ トタ
トタトタトタ
トタ トタ
ト タ
カラスの歩く音だ
様子をさぐる足音だ
二階の窓を開けてみる
まだ 一羽のようだ
吊るしてある
柿を食べに来たのかも知れない
一番先に吊るした柿を
食べてみると
渋が抜けていた
カラスが柿の変化に気がついた。そして、佐藤はカラスにそのことを教えられた。そういうことを、佐藤は「教えられた」ということばをつかわずに、ことばを動かす。あるいは、カラスは柿の渋が抜けたのを、人間とは違った能力で見抜くということを、「人間とは違った能力で見抜く」というような表現をつかわずに、ことばを動かす。
人間化しない、「比喩」にしない。ただ、そこにカラスを存在させる。そして、そのカラスによりそう。そして、逆に(?)、カラスと人間の違いこそを強調する。カラスならではの存在の仕方をことばとして、そこに存在させる。
トタ トタ
トタトタトタ
トタ トタ
ト タ
この足音。いいなあ。カラスの歩く動きが見える。「トタ」のくりかえし、そのリズムの乱れ(?)、乱れの中にあるいのち。
人間とは違う。違うから、そこにカラスが生きているということが楽しい。
でも、人間のことばというのは不思議なもので、どんな対象を描こうと、それが「人間」に見えてしまう。カラスが吊るし柿を食べにくるのは、こどもが吊るし柿を盗み取りにくるのと同じように感じられ、あ、かわいいもんだなあと思ったりする。
佐藤は対象の内部にはいりこみ、内部から対象を生きるのではなく、外側から対象に人間を重ねるのかもしれない。
「比喩」の動きが、伊藤が「内部」からなのに対し、佐藤は「外部」から、ということになる。
でも、この「内部」「外部」というのは、「方便」であって、厳密な定義ではないんだけれどね。
「杉山さんと藤川さんの関係」という詩は、このタイトルと詩の内容の重ね合わせ方が微妙である。ある家に杉の大木がある。そばに藤の木がある。
山の桜も終わり
田植も終わる
ウグイスの鳴く声が聞こえる
藤は
杉の木全体に花を咲かせる
道行く人は
杉の木に藤が咲いた
と 見にくる
藤はまるで
この杉の木に嫁いだように
今を盛りと
抱き合うように
花を咲かせている
「藤はまるで/この杉の木に嫁いだように」--この行がこのままなら、それは藤という対象の内部から藤の動きを「比喩」にしたものといえる。佐藤は、しかし、それをそんなふうに比喩化しない。比喩として書いておきながら譬喩化しないというのは、変だけれど……。タイトルに戻って見ると、佐藤のことばの独自性が見えてくる。
杉と藤の関係を、「杉山さんと藤川さんの関係」と言っている。人間の関係を並列させている。並べることで、両方を一緒に照らしだしている。
佐藤のことばの運動に「外側」からという印象がついてまわるのは、この「並列」という感覚が働いているからだと思う。
人間も、自然も、同じ。同じように「並んで」生きている。「並列」が佐藤の肉体であり、佐藤の思想なのだと思う。
で、もう一度「カラス」にもどる。
そうすると、ほら、カラスも人間と同じように甘くなった柿が食べたいという同じ欲望で人間と「並んでいる」。ともに生きている。その「並列」を、佐藤はいいものだなあ、と受け止めていることがわかる。もちろんカラスに食べられたら、憎たらしいカラスと思うんだけれど、そういう感情をもつことが「並列」、一緒に生きるということ、一緒にいきる楽しさだね。