詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督「少年と自転車」

2012-04-28 10:35:29 | 映画
監督 ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ 出演 トマ・ドレ、セシル・ド・フランス、ジェレミー・レニエ

 映画を見はじめてすぐにフレーミングの不思議さに引き込まれる。遠景が少なく、ほとんどが人物のアップというか、身体が全部スクリーンの枠(カメラの枠)のなかに入らない。肉体がいつもカメラからはみだしている。そして、それも顔に焦点が集中するのではなく、顔から広がる(顔から肉体、手足がはみだす?)感じでフレーミングされる。
 たとえば少年が美容室で水を出してすねているシーン。思い出しながら書いているので間違っているかもしれないが、足が写らないのは上半身のアップだから写らないのとわかるのだが、その上半身にしても少年の頭(髪)のてっぺんとか、丸めた背中の丸みという部分はスクリーンからはみだしている。その切り取り方がとてもいい。とても自然に見える。--それは美容師から見た少年の姿なのだが、美容師が何を見ているか、を通り越して、あ、こんな「感じ」で見ているのか、ということがわかる。少年が演技をし、美容師の「感じ」をカメラが演技し、それが映像の「枠」のなかで融合する。
 美容師と恋人と少年が車のなかでけんかするシーンも同じである。男が美容師に「俺をとるのか、この少年をとるのか」と美容師に迫る。美容師は少年をとるのだが、そのときのカメラの、それぞれの対象のフレーミングがほんとうにすばらしい。少年が、美容師が、そして恋人が相手を見ているときの「感じ」の集中の広がりが、ほんとうにカメラの映像そのままなのである。少年からみると、男の姿はシートに隠れて半分しか見えない。半分はシートが隠している。そのときの、なんといえばいいのか、男に対する「親密感」の欠如というか、男はけっきょく自分のことなど何も考えていないし、わかってもいない、わかっているふりをしているだけだというような「感じ」が、シートという「影」によって守られている(代弁されている?)。そういうものを半分見ながら(半分男の体を隠しながら)、盗み見るようにして男の顔を見ている。この、その場にいるのに「盗み見る」という「感じ」のなかにある、少年の集中力(?)のようなものが、そのままスクリーンの映像になる。カメラが少年の「感じ」を演技しながら、男をとらえ、美容師をとらえている。
 少年が「密売人」の少年(青年?)の家へ行くシーンも、非常におもしろい。密売人の家には体が不自由な老女がいる。少年が行ったとき、老女はベッドから落ちて動けずにいる。その老女を青年はベッドの上にもどし、世話もするのだが、その様子が、やはりスクリーンの「枠」をはみだして動く。老女の手足、全身がはっきり写るわけではなく、どこかが「枠」をはみだしている。--これは、少年が、青年と老女の「全体」を見ていないということを象徴している。少年の、その場の「感じ」、老女を見て感じる違和感、そしてその老女を助ける青年を見て動くこころを凝縮するようにしてカメラが切り取っている。この、登場人物の「こころの視野」とカメラのフレーミングの一体感が、この映画はとてもいい。
 そういう「登場人物」の「視野」のほかに、一種の「客観的視野」のようなものがある。それもおもしろい。少年が施設で朝食も食べずシーツにくるまってすねている。そのシーツぐるみの身体。それを映し出すカメラは、室内をていねいに映さない。ベッド(2段ベッドの下段?)を想像させるだけのフレーミングで映像の情報量をしぼりこみ、観客をスクリーンに引き込む。
 少年が自転車で疾走する長廻しのシーンも同じである。街の風景は映し出そうと思えばどれだけでも情報量が増える。けれどカメラはその情報量をしぼりこむ。少年が自転車をこいでいるその肉体の「感じ」だけにしぼりこむ。情報量の少ない状況で映画を撮影するのではなく、たくさんの情報はあっても、それを切り捨てて、「感じ」のなかへ観客を引き込む。
 カメラというのは不思議で、意識しないものまで映してしまう。車のない時代のはずなのに西部劇に車が映っている--というようなことも起きる。けれど、この映画は、「意識外」の情報を排除し、しぼりこむ。そして、そのしぼりこんだ映像をなおかつフレーミングによって切り落とす。切り落とされた部分にも現実はあるのだが、それは観客の「こころ」に想像させる。「感じ」が伝われば、その「感じ」にあわせて、私たちは「フレーミング」の外にあるものをつくりあげる。
 ジャン=ピエール・ダルデンヌとリュック・ダルデンヌの分担がどうなっているのかわからないが、もしかすると「登場人物の視野」の部分と、「客観的視野」の部分を二人で分担しているのかもしれない。「情報量をしぼる」という方法を共有し、映画をつくっているのかもしれない。--うまく言えないが、絶妙のフレーミングである。映画は脚本があって、役者が演じてという点では「芝居」とかわらないが、映像のフレーミング操作というのは芝居(舞台)では不可能。映画だけができることがらである。映画は「カメラの演技力」しだいで大きく変わる--と思った。

 先日見た「別離」も傑作だが、この「少年と自転車」も傑作である。「別離」は劇的な内容(ストーリー)が印象に残るが、「少年と自転車」にはそういう劇的なストーリーはない。ラストの、少年の静かに自転車をこぐシーンは、少年が完全に生まれ変わったことを映像として見せているが(それがこの映画のストーリーだが)、その生まれ変わりを「劇的」に説明するのはむずかしい。むずかしいだけに、そのラストシーンの静かさが気持ちがいい。哀しみのなかに、不思議なしあわせがある。
 で、どちらか一本を今月の「おすすめ映画」にするとしたら。
 うーん。
 私は「少年と自転車」を推したい。 



今月のベスト3
1 少年と自転車
2 別離
3 アーティスト

ある子供 [DVD]
クリエーター情報なし
ハピネット・ピクチャーズ

息子のまなざし [DVD]
クリエーター情報なし
東北新社
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