金井雄二「少量だが」(「独合点」110 、2012年04月14日発行)
金井雄二「少量だが」は、これが詩か……と問われたら、うーん、と悩んでしまう。その悩んでしまうところを、むりやり何か書いてみたいと思う。
まあ、自画像なんだろう。私は金井のことを知らないから、金井が五十をすぎているかどうか知らないが、自画像と思って読む。指にできたささくれを剥いたら血がでた、というような、わざわざ詩に書かなくてもいいようなことを書いている。つまり、そんなことを読んだって、だれも感動しないようなことを、「わざわざ」書いている。
詩は「わざと」書くものだから、この「わざわざ」のなかに詩はある--といってしまうと、簡単なのだけれど、それじゃあこの作品の説明というか、感想にならないだろうなあ。詩の講座(私はそういうことをやってもいるのだが……)で取り上げたら、「わざわざ」だけでは納得してもらえないだろうなあ。
で、私の架空の詩の講座。
そうだねえ。「矛盾」があるところに、詩がある。矛盾というのは、それまでだれも書かなかったこと。それを書くための「決まり」ができていない。それで、どうしても変な具合になる。そこが、まあ、新しい--といえるかも。
でも、これくらいじゃ、何か物足りない感じがするでしょ? 詩を読んだ、文学を読んだという感動とは何かが違うね。
金井は、そういうおおげさな「感動」を最初から目指していないのだろうけれど、こういう詩は、ちょっと講座で取り上げるには不向きだよねえ。たぶん、教科書なんかにも載らない、詩というもののなかからすりぬけてしまう、抜け落ちてしまう詩なのだ思うけれど、ここでちょっと最初にもどるね。
そうだねえ。「屈強な人間」なんて、わざわざこんなときにいうこと自体が変だねえ。 質問を変えるね。
そうすると、このことばのつかい方も変だよねえ。
そうですね。だいたい、そんな感じがふつうの日常のことばのつかい方だと思う。そうすると、金井の「わわざと」というのは、ふつうはつかうことばをつかわずに、ちょっとおおげさなことばで、なんでもないことを書いている--そこに「わざと」の秘密というか、金井が書こうとしている詩の特徴があるということになる。
そういう気持ちで読んでいくと、
ちょうど真ん中くらいにあるこの行が、とってもおもしろい。「当然の感覚として」。これ、「意味」はわかりますよね。
でも、こんなとき、わざわざ、そんなことを言わない。
で、とっても、変だと思う。
この変だと思うことを、
私はどうも質問がへたくそだね。
私はこの行をとっても変だと思う。変だと思う理由は、「当然の感覚として」というのが、「論理的すぎる」から。こんなところで論理的になる必要はない。皮がむけて血がでる、血がでたらいたい--これは「当然の感覚」。わざわざいう必要はない。
あ、そうですね。たしかにそうなんです。「当然の感覚として中年の男でもいたい」。いいかえると、こどもの場合でも、若い女性の場合でも、老人でもいたい。
いまの質問は、とっても鋭い部分をついていると思います。
つまり、「当然の感覚として」というのは、たしかに「中年の男」を強調するために書かれている。金井は、ここでは中年男を強調しているんですね。
で、強引に私の言いたかったことに結びつけるようにして、詩にもどると。
中年男を強調するときに「当然の感覚として」というような、一種の論理的な表現を持ってくる。ここに、この詩の「わざと」が象徴的に洗われている。「わざと」難しいことばをつかう。
で、私の、結論。
この詩は、指のささくれを描きながら、「中年男」のことばのつかい方の妙な感じを浮かび上がらせて楽しんでいる。
女性はきっとこういうことばの動かし方をしない。こういうことばのつかい方をしない。そこに、おもしろい部分がある。
よくよく見ないと見落としそうなことだけれど、変なことばのつかい方(知っているから、変とはなかなか気がつきにくい--ことばのつかい方よりも、そこに書かれている指のささくれを剥くという内容・意味にひっぱられて、ことばのつかい方から目がそれてしまう)--そのつかい方から、人間が見えてくる。理屈っぽい、中年の男が見えてくる。肉体そのものとして、誰かのことを思い出したりしませんか? あ、こういう中年男がいる、と思い出したりしませんか?
肉体が覚えている何か、誰か--そういうものを引っぱりだす力が、この金井の詩には、「少量だが」隠されている。
ということになるのかな?
金井雄二「少量だが」は、これが詩か……と問われたら、うーん、と悩んでしまう。その悩んでしまうところを、むりやり何か書いてみたいと思う。
もう五十を過ぎた中年の男
だからといって彼は屈強な人間ではない
左手の親指の横にできた
ささくれを気にしている
少量のいたさは集中力を半減させるので
爪の横からめくれだした状態の皮を
右手で剥いた
すべて剥けきれずにさらに深くめくれた
血がでてきた
少量だが
当然の感覚として
中年の男でもそれはいたい
いたいけれどもう少し剥いてみる
また血がでる
少量だが
ささくれは硬い皮だ
さらにひっぱると
さらにいたい
そしてさらに血がでる
血がでてくるとなんだか生きているみたいでうれしい
中年の男だから泣きはしないが
まあ、自画像なんだろう。私は金井のことを知らないから、金井が五十をすぎているかどうか知らないが、自画像と思って読む。指にできたささくれを剥いたら血がでた、というような、わざわざ詩に書かなくてもいいようなことを書いている。つまり、そんなことを読んだって、だれも感動しないようなことを、「わざわざ」書いている。
詩は「わざと」書くものだから、この「わざわざ」のなかに詩はある--といってしまうと、簡単なのだけれど、それじゃあこの作品の説明というか、感想にならないだろうなあ。詩の講座(私はそういうことをやってもいるのだが……)で取り上げたら、「わざわざ」だけでは納得してもらえないだろうなあ。
で、私の架空の詩の講座。
質問1 知らないことばがありますか?
答え ありません。
質問2 どこが印象に残りましたか? もし、この詩のなかから1行(あるいは、ひとこと)だけ選んで、ここが魅力的というとしたら、どの行になりますか?
答え1 えっ、わかりません。
答え2 「血がでてくるとなんだか生きているみたいでうれしい」の「うれしい」かなあ。
質問3 「うれしい」がどうして、詩?
答え 血がでるとふつうはうれしくない。それをうれしいと、言っている。そこが特徴的だから、たぶん、そういうことが詩なんだと思う。
質問4 あ、すごいなあ。たしかに、血がでてうれしいは変だねえ。「いたい」と言っているのに「うれしい」は変だねえ。そうすると「うれしい」は「いたい」からではないんだね。なぜ、うれしいんいだろう。
答え 「生きてるみたい」。生きていると感じられるから。
質問5 そうすると、この主人公は、ふつうは「生きてる」ということにたいしてあまり実感がないということになるのかなあ。
答え ぼんやり生きている。でも、指のささくれに気がついて、それを剥いたらいたかった。痛みを感じ、血を見て、生きているということを感じた。それがうれしかったというのが、この作品のテーマになるのかなあ。
質問6 そうすると最後の「泣きはしないが」というのは、いたいから? うれしいから?
答え ふたつがいりまじっていると思う。はっきり区別できない。
質問7 そういうふたつがはっきり区別できない状態、まじっているというのは、どういうこと? いたいとうれしいがまじっている。別なことばで言うと、どうなる?
答え 矛盾?
そうだねえ。「矛盾」があるところに、詩がある。矛盾というのは、それまでだれも書かなかったこと。それを書くための「決まり」ができていない。それで、どうしても変な具合になる。そこが、まあ、新しい--といえるかも。
でも、これくらいじゃ、何か物足りない感じがするでしょ? 詩を読んだ、文学を読んだという感動とは何かが違うね。
金井は、そういうおおげさな「感動」を最初から目指していないのだろうけれど、こういう詩は、ちょっと講座で取り上げるには不向きだよねえ。たぶん、教科書なんかにも載らない、詩というもののなかからすりぬけてしまう、抜け落ちてしまう詩なのだ思うけれど、ここでちょっと最初にもどるね。
質問1 知らないことばがありますか?
答え ありません。
質問2 じゃあ、もし、みなさんが指のささむけを気にして、その皮を剥くということをしたとして、そしてそれをことばにするとしたとき、ここにつかわれていることばで、みなさんがつかわないことばって、ある? このことば、変、と思う部分ってある?
答え1 「屈強な人間」という部分かなあ。こんなとき「屈強」なんて、おおげさすぎる。
質問3 ふつうは何という?
答え えっ、わからない。思いつかない。わざわざ、そんなことを言わない。
そうだねえ。「屈強な人間」なんて、わざわざこんなときにいうこと自体が変だねえ。 質問を変えるね。
質問3 「少量のいたさは集中力を半減させるので」という行はどうかな? 「少量」をもし自分のことばで言いなおすと、どうなるかな?
答え 「少し」
質問4 では、「半減」は?
答え 「半分に減る」
質問5 「集中力を半分に減らされる」って、実際に、言う? それって、ほんとうに「半分」かなあ。「量」を正確に言えることかなあ。
答え 正確には言えないと思う。
そうすると、このことばのつかい方も変だよねえ。
質問6 「半減させる」は何といえばいいのかなあ。自分のことばで言いなおすと?
答え 集中力が落ちる、かなあ。
質問7 「少量」は?
答え1 少し、かな。
答え2 ささいな。ちょっとした。かすかな。
そうですね。だいたい、そんな感じがふつうの日常のことばのつかい方だと思う。そうすると、金井の「わわざと」というのは、ふつうはつかうことばをつかわずに、ちょっとおおげさなことばで、なんでもないことを書いている--そこに「わざと」の秘密というか、金井が書こうとしている詩の特徴があるということになる。
そういう気持ちで読んでいくと、
当然の感覚として
ちょうど真ん中くらいにあるこの行が、とってもおもしろい。「当然の感覚として」。これ、「意味」はわかりますよね。
でも、こんなとき、わざわざ、そんなことを言わない。
で、とっても、変だと思う。
この変だと思うことを、
質問 もし、また、みなさんが言い換えるとしたら? あ、間違えた。もし、この行を変だと感じる。そのときの変と感じるのはなぜ? ちょっと、言ってみて。
答え えっ、わからない。
私はどうも質問がへたくそだね。
私はこの行をとっても変だと思う。変だと思う理由は、「当然の感覚として」というのが、「論理的すぎる」から。こんなところで論理的になる必要はない。皮がむけて血がでる、血がでたらいたい--これは「当然の感覚」。わざわざいう必要はない。
受講生から質問の声 でも、それは次の「中年の男でもそれはいたい」という行にかかっているのではないんですか?
あ、そうですね。たしかにそうなんです。「当然の感覚として中年の男でもいたい」。いいかえると、こどもの場合でも、若い女性の場合でも、老人でもいたい。
いまの質問は、とっても鋭い部分をついていると思います。
つまり、「当然の感覚として」というのは、たしかに「中年の男」を強調するために書かれている。金井は、ここでは中年男を強調しているんですね。
で、強引に私の言いたかったことに結びつけるようにして、詩にもどると。
中年男を強調するときに「当然の感覚として」というような、一種の論理的な表現を持ってくる。ここに、この詩の「わざと」が象徴的に洗われている。「わざと」難しいことばをつかう。
質問1 その「わざとつかわれた難しいことば」というのは、よく見ると、何がありますか?
答え1 屈強な
答え2 半減
質問2 少量は、はどうかな?
答え3 「すこし」「ささい」「ちょっとした」ということばに比べると、やっぱりおおげさですね。
で、私の、結論。
この詩は、指のささくれを描きながら、「中年男」のことばのつかい方の妙な感じを浮かび上がらせて楽しんでいる。
女性はきっとこういうことばの動かし方をしない。こういうことばのつかい方をしない。そこに、おもしろい部分がある。
よくよく見ないと見落としそうなことだけれど、変なことばのつかい方(知っているから、変とはなかなか気がつきにくい--ことばのつかい方よりも、そこに書かれている指のささくれを剥くという内容・意味にひっぱられて、ことばのつかい方から目がそれてしまう)--そのつかい方から、人間が見えてくる。理屈っぽい、中年の男が見えてくる。肉体そのものとして、誰かのことを思い出したりしませんか? あ、こういう中年男がいる、と思い出したりしませんか?
肉体が覚えている何か、誰か--そういうものを引っぱりだす力が、この金井の詩には、「少量だが」隠されている。
ということになるのかな?
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