詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ミシェル・アザナヴィシウス監督「アーティスト」

2012-04-08 22:48:06 | 映画
監督 ミシェル・アザナヴィシウス 出演 ジャン・デュジャルダン、ベレニス・ベジョ、ジョン・グッドマン、アギー(犬)

 好きなシーンがいくつもある。そのうちの三つだけ書く。映画の展開順で言うと、まず、ジャン・デュジャルダンがトーキーの夢にうなされるシーン。ここはトーキーになっている。ただし、ひとの声はない。コップをテーブルに置く音からはじまる。サイレント映画とはいえ、現実生活では音があるのだから、夢のなかで音がでてきてもなんの不思議もないのだけれど、えっ、音があると気がつくというのがおもしろい--ではなく、まあ、それもおもしろいのだけれど、それよりも、あ、これはジャク・タチじゃないか、と私はうれしくなるのだ。ジャック・タチは映画の中に不思議なノイズを音楽として持ち込んだ。ファスナーをあける音、ボールペンをノックする音--ふつうは強調しない音をくっきりと浮かび上がらせ、ほら、こんなところに音楽があると教えてくれた。その感じ、そのリズムが、とてもうれしい。ジャック・タチはたしかにサイレント映画を進化させたひとりなのだ。天才監督のひとりなのだ。そういうことを、さらりもこの映画にもぐりこませている。うれしいねえ。
 二つ目は、ジャン・デュジャルダンが大事に大事に守り通したのが、映画のNGのラッシュだったこと。そこには、ジャン・デュジャルダンとベレニス・ベジョの「共演」が残っている。ダンスしながら笑いだしてしまって、何度も何度も取り直したシーンである。これは、「ニューシネマパラダイス」のラストの「キスシーンのラッシュ(検閲でカットされたシーンをミシェル・ピコリが大事に保存しつなぎあわせたもの)」と同じように、とても美しい。いのちが充実している。人間がいちばん輝いているシーンが、そこにある。「映画」なのだけれど「映画」を超えている。幸せが、生きている喜びが、そのままあふれている。いいなあ。このシーン--何度も何度も観てみたい。このシーンを見るためにだけでも、もう一度見ようかな、と思うくらいである。
 三つ目は、最後のダンスシーン。あ、あ、あ、そうなのだ。トーキー映画は、ミュージカルといっしょに成長したのだ。台詞がトーキーのいのちであるというのは事実だけれど、人間の「声」は「声」だけではない。(変な言い方だね。)人間の「肉体」、その動き(ダンス)もまた「声」であり、「音楽」なのだ。肉体が動き、音を出す(タップダンスの靴の音)からではなく、いや、それももちろんそうなのだけれど、それだけではなく音を出さない手の動き、服がつくりだす動き(肉体に遅れてまわるスカートのカーブを思い浮かべてもらいたい)もまた「音楽」そのものなのだ。--あ、これって、ほら、サイレントの時代からあったものだねえ。「肉体」には「音」があり、それは耳に聞こえなくても、体全体で聞くことができる。
 で、おまけに四つ目の好きなシーンをつけくわえてしまうのだけれど。
 衝立というか、布の仕切りの下から、ベレニス・ベジョが踊っている足が見える。そのダンスにあわせてジャン・デュジャルダンが踊って見せる。ステップを挑発する。このやりとり、タップダンスなのだけれど靴の音はない。それなのに、音が聞こえる。耳ではなく「肉体」の内部が反応して感じてしまう。タップの足音だけではなく、そういうダンスの挑発ごっこをするときの、二人の「こころの声」までもが聞こえてしまう。
 そうなんだねえ。「こころの声」には台詞はいらない。--あ、これは、この映画のテーマだねえ。最近は映像と音が忙しすぎて、「こころの声」を肉体そのもので感じさせる映画が少なくなっているから、これは、とてもとても新鮮な驚きだ。映画への愛がぎっしりつまった、とても楽しい楽しい作品だ。



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コメント (1)
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