山口賀代子「黄泉がえり」(「庭園2012」2012年04月22日発行)
私はとてもわがままな読者である。簡単に言うと、詩人が書いていることがら(内容、意味)を私は無視して読んでしまう。自分の好きなように「誤読」する。私は「読みたい」というよりも、そこにあることばに出合うことで「肉体」を感じたいのである。ことばを「肉体」として感じる、その瞬間が好きで、そのために読む。
どういうふうにかというと、たとえば山口賀代子「黄泉がえり」。私は、その2、3連目がとても好きである。
「鴨川の等間隔の法則」の部分は、一種、冗漫な気がする。散文的な説明にすぎない気がする。--気がするのだが、これがなぜか、この詩を支えているという感じがするのである。そこに山口の「肉体」を感じるのである。その「肉体」の感じというのは、あ、山口はその「等間隔の法則」を見たのだ、見た記憶があるのだという信頼感である。
この「等間隔の法則」を見た記憶は、そのまま山口の「肉体」になっている。それが、まあ、何といえばいいのだろう、ここで書かなくてはいいのに、ここに出てきてしまっている。そこがおもしろい。そこに不思議な「肉体」を感じる。
うまく言えない。書けない。別な言い方をしてみる。
この詩は引用はしないが、全体としては「架空」のことを書いている。「架空」というと「誤読」になるが、まあ、実際にはないことがらをことばで動かしている。その実際にはないことがらを動かすときに、どうしても「本当」が必要になる。どんな嘘でも、嘘をつきつづけると、どこかで「本当」が出てきてしまう。その人が実際に体験したことが紛れ込んでしまう。私たちは、たぶん、ことばを「体験/肉体」と切り離しては動かせないのだと思う。
で、山口の場合、歩いても歩いても、前を歩くある人に追いつけないということを書くときに、その追いつけなさ--距離を埋めることができない感覚を、ことばでなんとか明確にしようとすると、ふいに「鴨川の等間隔」が出てくる。鴨川と、いま山口が書いている「架空の場」は無関係なのに、そこに山口の肉体が覚えていることがでてきてしまう。
「肉体が覚えたこと」というのは、忘れることができないのである。そして、それは、あるときむりやり「応用力(?)」となって噴出する。説明できないものを説明するとき(これは矛盾した言い方だが)、そのひとが「覚えている」ことがことばとなって動くしかないのである。「肉体」が動くしかないのである。
脱線しながら補足すると、たとえば外国で何かをいわなけれはならない。そういうとき、外国語がわからないと、どうするか。日本語で身振り手振りを繰り返す。「肉体」を動かして、通じない「日本語」をわかってもらうしかない。「肉体」は何かを覚えていて、その覚えていることしか、つかえない。
で、そういうことをしたあと、ことばは何かしら肉体に汚染(?)されたような感じになる。ことばに「肉体」がまじってきてしまう。
どういうことかというと……。
この「まえをあるくひと」が、「恋人」に汚染(?)されてくるのである。実際に恋人であったというのではない。そうではないけれど、なんらかの形で「意識」にあったひととして見えてくる。「知っている」は「知っている」ではなく、「覚えている」なのである。
言い換えると。
たとえば、私は「宮沢りえ」を「知っている」。実際に映画やテレビでも見たし、今年は舞台でも見て、あ、りえちゃんの追っかけをやろうかな、とふいにミーハーの気分にもなったのだが、それはあくまで「知っている」。私の肉体は宮沢りえを「覚えていない」。実際に、目と目があって、ことばではなく、肉体が何かを受け止めたという感じではない。「覚える」というのは、一方的なことではなく、相手もなんらかの印象をはっきりと肉体に刻み込むということである。その「肉体」と「肉体」の、ことばを超えた刻印が双方にないときは、たとえセックスをしても「肉体」が「覚えている」とは言えない。
逆にセックスをしなくても、肉体のなかでことばにならないものが動き、それを互いに感じあい、それが刻印されたら「覚えている」になる。
それは好感だけではなく、反感も同じである。「しっているが声をかけてはならないひと」というのは、好感か、反感か、私にはわからないが、それは山口の「肉体」にしっかり刻み込まれている。だから「肉体」が反応して、「おいつこうとあるく」という動きになる。
その肉体を支えているのが「鴨川の等間隔の法則」なのだ。「法則」というと抽象的だが、それは山口の「肉体」が「覚えている」距離のあり方なのだ。
この山口の肉体が「覚えていること」が、もっと違った形のことばとして動きだすと、山口の詩はもっともっとおもしろくなるのではないかと思う。「架空」の世界ではなく、象徴の世界ではなく、「いま/ここ」で、その肉体が動きはじめると、もっとおもしろいはず--と、私は山口が書きたいこととは関係なく、考えるのである。
肉体が覚えていること、それをつかいながら「いま/ここ」と切り結ぶ--そういうことが、ほんとうはできるのではないのか、と思うのである。
私はとてもわがままな読者である。簡単に言うと、詩人が書いていることがら(内容、意味)を私は無視して読んでしまう。自分の好きなように「誤読」する。私は「読みたい」というよりも、そこにあることばに出合うことで「肉体」を感じたいのである。ことばを「肉体」として感じる、その瞬間が好きで、そのために読む。
どういうふうにかというと、たとえば山口賀代子「黄泉がえり」。私は、その2、3連目がとても好きである。
視線のさきにあるいているひとの背がみえる
速足であるているつもりなのに 距離がちぢまらない
京都の夏の鴨川べりには等間隔の法則というのがあって
それぞれの恋人たちの座る位置がはかったように等間隔になることをいうのだが
まえをあるくひととの距離もはかったようにちぢまらない
わたしにはまえをあるくひとの背がよくみえる
そのひとがだれなのかしっている
しっているが声をかけてはならないひとの背に
おいつこうとしてあるきつづけた
「鴨川の等間隔の法則」の部分は、一種、冗漫な気がする。散文的な説明にすぎない気がする。--気がするのだが、これがなぜか、この詩を支えているという感じがするのである。そこに山口の「肉体」を感じるのである。その「肉体」の感じというのは、あ、山口はその「等間隔の法則」を見たのだ、見た記憶があるのだという信頼感である。
この「等間隔の法則」を見た記憶は、そのまま山口の「肉体」になっている。それが、まあ、何といえばいいのだろう、ここで書かなくてはいいのに、ここに出てきてしまっている。そこがおもしろい。そこに不思議な「肉体」を感じる。
うまく言えない。書けない。別な言い方をしてみる。
この詩は引用はしないが、全体としては「架空」のことを書いている。「架空」というと「誤読」になるが、まあ、実際にはないことがらをことばで動かしている。その実際にはないことがらを動かすときに、どうしても「本当」が必要になる。どんな嘘でも、嘘をつきつづけると、どこかで「本当」が出てきてしまう。その人が実際に体験したことが紛れ込んでしまう。私たちは、たぶん、ことばを「体験/肉体」と切り離しては動かせないのだと思う。
で、山口の場合、歩いても歩いても、前を歩くある人に追いつけないということを書くときに、その追いつけなさ--距離を埋めることができない感覚を、ことばでなんとか明確にしようとすると、ふいに「鴨川の等間隔」が出てくる。鴨川と、いま山口が書いている「架空の場」は無関係なのに、そこに山口の肉体が覚えていることがでてきてしまう。
「肉体が覚えたこと」というのは、忘れることができないのである。そして、それは、あるときむりやり「応用力(?)」となって噴出する。説明できないものを説明するとき(これは矛盾した言い方だが)、そのひとが「覚えている」ことがことばとなって動くしかないのである。「肉体」が動くしかないのである。
脱線しながら補足すると、たとえば外国で何かをいわなけれはならない。そういうとき、外国語がわからないと、どうするか。日本語で身振り手振りを繰り返す。「肉体」を動かして、通じない「日本語」をわかってもらうしかない。「肉体」は何かを覚えていて、その覚えていることしか、つかえない。
で、そういうことをしたあと、ことばは何かしら肉体に汚染(?)されたような感じになる。ことばに「肉体」がまじってきてしまう。
どういうことかというと……。
わたしにはまえをあるくひとの背がよくみえる
そのひとがだれなのかしっている
しっているが声をかけてはならないひとの背に
おいつこうとしてあるきつづけた
この「まえをあるくひと」が、「恋人」に汚染(?)されてくるのである。実際に恋人であったというのではない。そうではないけれど、なんらかの形で「意識」にあったひととして見えてくる。「知っている」は「知っている」ではなく、「覚えている」なのである。
言い換えると。
たとえば、私は「宮沢りえ」を「知っている」。実際に映画やテレビでも見たし、今年は舞台でも見て、あ、りえちゃんの追っかけをやろうかな、とふいにミーハーの気分にもなったのだが、それはあくまで「知っている」。私の肉体は宮沢りえを「覚えていない」。実際に、目と目があって、ことばではなく、肉体が何かを受け止めたという感じではない。「覚える」というのは、一方的なことではなく、相手もなんらかの印象をはっきりと肉体に刻み込むということである。その「肉体」と「肉体」の、ことばを超えた刻印が双方にないときは、たとえセックスをしても「肉体」が「覚えている」とは言えない。
逆にセックスをしなくても、肉体のなかでことばにならないものが動き、それを互いに感じあい、それが刻印されたら「覚えている」になる。
それは好感だけではなく、反感も同じである。「しっているが声をかけてはならないひと」というのは、好感か、反感か、私にはわからないが、それは山口の「肉体」にしっかり刻み込まれている。だから「肉体」が反応して、「おいつこうとあるく」という動きになる。
その肉体を支えているのが「鴨川の等間隔の法則」なのだ。「法則」というと抽象的だが、それは山口の「肉体」が「覚えている」距離のあり方なのだ。
この山口の肉体が「覚えていること」が、もっと違った形のことばとして動きだすと、山口の詩はもっともっとおもしろくなるのではないかと思う。「架空」の世界ではなく、象徴の世界ではなく、「いま/ここ」で、その肉体が動きはじめると、もっとおもしろいはず--と、私は山口が書きたいこととは関係なく、考えるのである。
肉体が覚えていること、それをつかいながら「いま/ここ」と切り結ぶ--そういうことが、ほんとうはできるのではないのか、と思うのである。
![]() | 詩集 海市 |
山口 賀代子 | |
砂子屋書房 |