詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

たなかあきみつ「チェリシチェフによるチェリシチェフ」

2012-04-23 10:15:28 | 詩(雑誌・同人誌)
たなかあきみつ「チェリシチェフによるチェリシチェフ」(「紙子」20、2012年04月10日発行)

 たなかあきみつ「チェリシチェフによるチェリシチェフ」は、ほんとうはもっと長いタイトルのついている詩(連作?)の「1」の部分なのだが、カタカナは苦手なので省いた。その書き出し。

ごく少数のひとしか、ごく少数のひとしか
内なるものらの内を覗きこめなかった
そこにはわたしが隠れている--いつも隠れている--
そして探しに探している--
カシュ・カシュ、隠れんぼだよ--けっして見つかりっこない!

 ことばが繰り返される。その瞬間、何かが変わる。1 行目は「ごく少数のひとしか」ということばの繰り返しで、なぜ繰り返されるのか、この1行だけではわからない。けれど、

内なるものらの内を覗きこめなかった

 この2行目で、1行目そのものもかわってしまう。
 「内なるものらの内」--「内」が繰り返されるとき、それは単なることばの反復ではない。世界の構造が深まる--というのは、この行の「意味」に負うところが大きいのだが、つまり「内」のなかにさらに「内」があるという二重構造(最初の「外」を考えると三重構造?)という「意味」に負うところが大きいのだが、
 と、書きながら。
 私は、もうその「二重構造」、「内なるものの内」を忘れている。「内の内なるもの」と書き間違えそうになりながら、その「二重構造」を忘れている。そして、もしかすると、

ごく少数のひとしか、ごく少数のひとしか

 というのは、「ごく少数のひとの内なるごく少数のひと」なのか、と思い、いや、それは違うなあ。
 それは「内部」に存在するのではなく、あくまで、「ごく少数のひと」と拮抗する「ごく少数のひと」なのだと思う。最初の「ごく少数のひと」と、次の「ごく少数のひと」はすべてが違う。同じことばで書かれているけれど、「少数」の実際の数字はもちろん、そこに書かれている「ひと」そのものも完全に違っている。違うことで、それぞれがそれぞれを浮かび上がらせているのだ。
 そこには、「差異」があるのだ。「ずれ」があるのだ。
 とすれば、「内なるものらの内」も「二重構造」ではなく、言い換えると「立体的な三次元」のことではなく、併存する(しかし互いに拮抗する)「内」なのだ。
 「併存」と書いてしまうと--書いてしまったのだが、
 「併存」と書くと、「三次元」ではない、といいながら、「内」という存在を含む「空間」(場)が浮かんできてしまうが、
 ここに書かれているのは「場」ではない。「場」であるにしても「時間」を含んだものである。むしろ「時間」そのものを「方便」として「場」を借りて描いているのだ。

そこにはわたしが隠れている--いつも隠れている--

 「そこにはわたしが隠れている」を「いつも」ということばをつかって反復する。そうすると、そこにある時間が「一瞬」ではなく、「広がり」になる。「広がり」という空間をさすことばが、ここに侵入してきて、「時間」を何か「場」のように勘違いさせる。「場」と一体の状態でしか「時間」は存在しえないということを、奇妙な形で暗示するのだが、
 その「いつも」って「永遠」?
 違うねえ。
 「永遠」とは無関係な「いつも」。それは、不思議なことに「永遠」ということばが、非常に「広い」ものをさすにもかかわらず、「いつも」とは逆のもの、一瞬のものということを印象づける。

 あ、何を書いているか、わからなくなってきたなあ。
 でも、いいさ。
 感想なのだから。思いついたことを書いているだけなのだから。

 で。
 この何かしら、ことばが繰り返される瞬間に、その繰り返しの隙間から--ことばを切断し、接続するその運動のなかから、「いま/ここ」にないものが噴出してくるのを感じる。それは繰り返すということの運動のなかだけで噴出してくるものなので、それを別のことばで言いなおそうとするとうまくかいない。(これは、私の感想がでたらめに動いていることの自己弁護かもしれないけれど。)
 
そこにはわたしが隠れている--いつも隠れている--

 最初の「隠れている」と二度目の「隠れている」は同じことばであるけれど、違うのだ。繰り返すとき、たなかは、ここでは「いつも」ということばを噴出させているが、それはほんとうに「いつも」であるかどうか、わからない。
 きっと違う。

そして探しに探している--

 これを、

そして探しに--いつも探している--

 と、言い換えることができない、あるいはそんなふうにことばを補足すると、あれっ、違うぞという印象が押し寄せる。
 では、「いつも」とは何なのか。

カシュ・カシュ、隠れんぼだよ--けっして見つかりっこない!

 「隠れんぼ」は「見つける」ことによって終わる。けれど、それは「けっして見つかりっこない!」。ここにある「矛盾」。
 「矛盾」が「いつも」である。それを強調する「けっして」が、ここで書かれている詩である。
 絶対的な矛盾--それに向き合う。そのとき「いつも」とはまったく逆の「永遠」(ランボーが見つけたような永遠)が噴出してくる。そして、その絶対的な矛盾とは、冒頭の1行が象徴するように、書いてしまえば「同じことば」になってしまうものなのだ。

 それこそ矛盾だよね。同じことばは矛盾ではない、けれど矛盾は同じことばでしか言い表すことしかできない。

カシュ・カシュ、隠れんぼだよ

 しかし、まあ、なんと美しい音楽だろう。「カシュ・カシュ」が私にはなんのことかわからないけれど、わからなくても気にならない。「カシュ・カシュ、隠れんぼ」。ここが美しい。
 絶対矛盾としての反復は、何かそういう不思議な「音楽」を持っているのだと思う。ことばだから、声だから、音だから、ね。
 この、ことばの肉体そのものが持っている官能は、次のような変奏も引き起こす。

もろもろの器官よ! そうとも、もろもろの器官は
まだまだ突出している
とはいえそれらは見ることが--それらには--できない
ああ、シルヴーカ、シトヴーカよ!

 「カシュ・カシュ、隠れんぼ」が正確な繰り返しではないように、「シルヴーカ、シトヴーカよ!」も正確な反復ではない。けれど、私は、そこに「反復」--つまり「同じもの」を感じてしまう。
 勘違い。誤解。
 なのか。
 それとも勘違い、誤解、と思うことが間違っているのか。

 --こう書いてるときの、あれやこれやのなかに、きっと詩がある。詩へとつながっていくことばの肉体がある、と私は思う。
 整理できないんだけれどね。


ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂
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