詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

樫田祐一郎「沈思」

2012-04-27 10:54:02 | 詩(雑誌・同人誌)
樫田祐一郎「沈思」(「DIONYSOS」34、2012年03月29日発行)

 「ことばの肉体」ということを考えてしまうのは、ひとは何かを書こうとするとき、そしてそれがいままで誰も書いていないことの場合、ことばの手がかりに(ことばを相手に届けるときの手がかりに)、ジェスチャーというのだろうか、「肉体」に関係することばが入ってくることがあるからかもしれない。
 樫田祐一郎「沈思」の書き出し。

胎児の弛びた恰好をしてわたしは眠るふりをしている。

 私には「弛びた」が読めない。私は「弛」は「たるむ、ゆるむ」というような「音」で覚えているので「び」という「連用形」の活用がわからないのだが……。
 そういう「保留」をおいておいて。
 まあ、適当に(?)、何かしら「ゆるんだ、たわんだ」から、「力のぬけた」という感じのことを思い、「くつろいだ」かなあ、「なまけた」かなあ、というようなことも思う。そうして、そのとき、
 赤ん坊、あ、胎児だから、まだ生まれていないね--その胎児の、子宮のなかで丸まっている、丸まりながら一方で安心して無防備な肉体の形を思う。そうして、その肉体の形から、何かの「意味」を受け取ろうとする。受け止めようとする。
 私が頼りにしているのは「辞書」の「定義」ではなく、私が知っている(どこかで見てきた)胎児の写真である。そして、その形である。
 それは、次の

空のほうがあかるい夜、にわかに生きはじめる電柱のけはいが窓を越してわたしの背中をなぞる。

 と、つながるとき、そこにまた別な「肉体」が覚えているものが動きはじめる。「空の方があかるい」は胎児の眠る子宮よりも、母胎の外の方が明るいという感じにつながる。「にわかに生きはじめる」には胎児のいのちの感じがうごめく。「けはい」は胎児のいる子宮とその外との「連絡」が、部屋のなか、部屋の外という連絡(接続)の意識を呼び覚ます。子宮に内部と外部があるなら、部屋にも内部と外部があり、内部で胎児が眠っているとき、外部ではその眠りを意識して何かが反応する--そのあいまいな連絡が「けはい」というものであり、その「けはい」に進入してくるものは(けはいを動かすものは)、きっとふつうは動かないものである。たとえば、電柱である。動かないものが動く。その矛盾が、外部と内部の「連絡」の乱れをゆさぶる。
 本来あるべき「整然とした緊張(秩序?)」のようなものが「弛む」(樫田の「読み方」がわからないので、私は私の覚えていることばを動かすのだが……)。それは、まあ、あまり気持ちがいいものではないかもしれない。だからこそ、「背中をなぞる」の「なぞる」という動詞になって、「わたし」に迫ってくる。
 なぞる。
 さわる。触る。
 障る。
 触れる。
 何かが肉体に触れる。それは肉体であると同時に、「気(精神、こころ)」かもしれない。そうすると、
 触れるは、気を揺する、気が振れる(?)、気が触れる(?)
 気に障り、そのことが重なり気が「ふれる」というときの、「ふれる」は漢字ではどう書くのだろうか。
 まあ、「表記」はあまり関係ないのだが……、というか、
 こういうことを思うとき、私の「肉体」のなかでは、「音」が重なり合い、動き、互いに侵入し合う。そうして、混ざり合う。
 「意味」は明確というものからどんどん遠ざかるのだが、意味から遠ざかれば遠ざかるほど、不思議なことに「肉体」のなかに「実感」というものが強くなる。わけのわからない「もやもやした感じ」が居すわる。
 こういうとき、

 わからない。でも、わかる。

 そういう矛盾した気持ちになる。矛盾の形でしかいいあらわせないものにぶつかる。
 樫田の「ことばの動き」が「意味の動き」(頭で整理できる論理的な動き)ではなく、私の「肉体のなかの意味にならない動き」として動く。
 これは樫田の「ことばの肉体」が私の「肉体」に触れてきているためではないかと私は思う。
 私の「肉体」は樫田の「ことばの肉体」に反応している。
 それは何度も何度も同じ例で書くしかないのだが、誰かが道端で腹を抱えてうずくまっているのを見たら、そのひとの肉体の痛みは私の肉体の痛みではないのに、あ、このひとは腹が痛いのだと「共感」してしまうのに似ている--ということになる。

 わけのわからないことば--他人のことばというのは、道に倒れているひとの痛みが直接わからないのと同じように、基本的に「共感」という形でしかわからないものだと私は思っている。
 そのわけのわからないことばは、しかし、そのことばの運動が「肉体」を経由すると、なんとなく「肉体」的にわかる。何か、わかったような気がする。
 こういうことは、一種の「往復反応(作用?)」だから、そうやって肉体が覚えたことばは、やがて「ことばの肉体」になってゆく。

 で、ちょっと面倒くさくて(というか、私自身、自分の考えをきちんと整理できなくて、ということなのだが)、ここで飛躍して書いてしまうのだが。

 「肉体」をとおしたことばの運動が、「ことばの肉体」にかわっていくということを繰り返し繰り返し、「肉体」そのものの運動として覚え込むと(私の場合、音として聞いて、それを声に出してということになる。書く、あるいは目で読むというのは、肉体で覚えるというとき、私の場合に二次的になる)、「ことばの肉体」は、それぞれ「独自の肉体」になっていく。
 これが「文体」だね。
 で、読むということ(他人のことばに触れるということ)は、「文体」を遡るようにして、そのことばを書いたひと(言ったひと)の「肉体」そのものに触ること、セックスするということになる。
 これが、私の「ことば」の読み方。

 脱線してしまったけれど(脱線したつもりはないのだけれど)。
 樫田の詩のつづき。

部屋のなかを歩くのはその影のような痩せた男だ。おもくるしく息づく冷蔵庫のとなりを彼が通るたび、どうしてかちいさく風の抜けるみぞおちを埋めるようにわたしのからだは痙攣した。おとこはわたしの横たわる寝台と、扉でわかたれた部屋の向こうをたえまなく行き来する。真昼のしろい蛍光灯のもとで扉の向うは確かに数日前の雨の匂いが酸化しはじめているわたしの狭い玄関だった。

 「おもくるしく息づく冷蔵庫」という「肉体」と「物体・器具(無機物)」の結びつき。「ちいさく風の抜けるみぞおち」という不可能な表現にわりこむ「肉体」。「しろい蛍光灯」と「雨の匂いが酸化しはじめている」の、視覚と嗅覚の出合い。
 そういうものをとおして、私は、樫田の「肉体」そのもの、その「肉体」のなかで動いている「感覚」が私のものとはまったく違いながら、やはりそれが「肉体」であるかぎりにおいて、触れあえるという可能性を感じる。手触りがある。現実に、そこに樫田の肉体があり、その肉体はやはり誰かとセックスするのだと感じる。
 こういうとき、その樫田の「肉体」が好きであるかどうかは別問題として、やはり私は樫田とセックスしているのだと感じる。「ことばの肉体」をとおして、セックスしているのだと感じる。
 その「ことばの肉体のセックス」がどこまでつづくか。その結果、エクスタシーを感じるのかどうかというのは、また難しい問題なのだが。
 でも、こういう中途半端な言い方はよくないね。
 私は、樫田の書き出しには非常にそそられた。その「ことばの肉体」のあっちこっちに触りたくなった。どう触れば、どう動くのか。その動きが、反動(?)として私の「ことばの肉体」にどんなふうに快感を引き起こすのか--そういうことを最後まで突き詰めたい気持ちになった。
 けれど。
 途中から「肉体」の印象が薄くなる。それで、「醒めてしまう」。(覚める、冷める、褪める?--私の「肉体」は、そういうことばを「ことばの肉体」と重ね合わせてしまう。)

私は生きながらこのうえなく高貴な気分になった。

 うーん、「このうえなく高貴な気分」か。
 私は、そういうものを「肉体」で体験したことがない。私は「高貴な気分」というものを「肉体」で覚えていない。だから、反応できない。
 樫田は「肉体」で「高貴な気分」を覚えているのだろうか。そうなら、「高貴な気分」という「流通言語」をつかわずに、「胎児の弛びた恰好」に拮抗する「肉体のことば」で書いてほしいなあ、と思うのである。


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