詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

相沢正一郎「手」

2012-04-12 12:20:23 | 詩(雑誌・同人誌)
相沢正一郎「手」(「ひょうたん」46、2012年03月10日発行)

 相沢正一郎「手」は感情を書かずに肉体の動作を書く。そうすると、肉体が感情になる。そういうことを知っている詩人の詩である。

<わたしは掘る--夜中に地面に爪を喰い込ませて、締めた土の匂いをかぎながら、まいにち少しずつ私自身の中に根をのばすように……>と、日記に書いて、テーブルにボールペンをおく。……わたしは、すっかり葉を落とした裸の木。
 明るい蛍光灯の下、懐かしむように手を見つめる。……わたしは、瞬く蛍光灯を取り換えた、蕗の皮を剥いた、手紙を書いた、風呂の湯加減を見た、魚の重さを測った、骨を拾った、もうひとつの手のほうに、この手をひらいてさしのべた。

 肉体の動きは、動きであることをとおして、どんなものとも「一体化」する。運動としての「比喩」といえるかもしれない。
 <わたしは掘る>ははじまることばは、「わたし」を人間だと思わせる。しかし、そのことばが「掘る→土→根」と動いていくとき、「わたし」は自然に「木」になる。木は、たしかに土を掘るようにして生きているのだとわかる。
 こうなると、相沢が書いているものが「わたし」という人間なのか、それとも「木」なのか、わからなくなる。木がわたしの比喩なのか。わたしが木の比喩なのか。こういう混乱、混同のなかに、詩があるのだと思う。
 ひとは(読者)は混乱したい。混乱するということは、何かを別の何かと取り違えるということである。そのとき、それまでの何かに縛られていたものがほどかれるのだ。自由になるのだ。自由は、混乱(混同)のなかににしかない。そこから、いままでなかったものが生まれてくる。何かが生まれるためには、混乱し、勘違いして、その勘違いを「可能性」として信じる必要があるのだと思う。
 相沢の「手(わたし)」は木になったあと、ほかの仕事をする。そこでは木の場合のように比喩は描かれないのだけれど、いったん比喩を体験した手は、無意識的に比喩をひきずる--比喩を体験する。手は手でありながら、蛍光灯になり、蕗の皮になり、手紙になり、風呂の湯になり、魚になる。
 そういう幾つもの時間を潜り抜けてきたものを、もう一度「手」にもどすために、相沢は「この手」をさしのべる。そのとき、たださしのべるのではなく「ひらいて」さしのべる。この「ひらいて」が相沢なのだろう。相沢の肉体であり、思想なのだろうと思った。
 「ひらいて」は「開いて」。それは「受け入れる」ということだろうと思った。
 たとえば土を掘る。地面に爪を喰い込ませて--という動作は、土に働きかけながら、土のありようを受け入れるということである。土とは何かを知ることでもある。だからこそ、土から「湿った(土の)匂い」が生まれてくる。土を掘る手に受け入れなれながら、土は湿った土になり、そして匂いを発する土になる。受け入れるということは、「他者」の変化を促すことなのである。そうして、さらにその「匂いを嗅ぐ」とき、その土の匂いは「わたし」の肉体の内部に取り込まれる。開いて受け入れる--それは、わたしがわたしではなくなる、わたしが生まれ変わるということでもある。


テーブルの上のひつじ雲テーブルの上のミルクティーという名の犬
相沢 正一郎
書肆山田
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