詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

和田まさ子「皿」

2012-04-20 10:47:28 | 詩(雑誌・同人誌)
和田まさ子「皿」(「独合点」110 、2012年04月14日発行)

 和田まさ子は何でにでもなる。壺になったり、金魚になったり。「皿」では、皿になっている。

朝、
がちゃがちゃと食器を洗う音がして
わたしは皿になっている。
水桶の中で
茶碗にぶつかり、
箸につんつんつかれる。

 あ、いいなあ。「つんつんつかれる」。
 えっ、何がいいかって?
 「つんつんつかれる」の「つんつん」がわからない。いや、わからないというと変なのだけれど、何かに「つんつん」つかれたことを私は、私の「肉体」は覚えている。で、その「覚えていること」を別のことばで、つまり、和田が書いていることを自分のことばで言いなおしてみようとすると、言えない。ただ「つんつん」だけが、そこにある。「ほら、つんつん、だよ」「ちくちく」でもなく「とんとん」でもなく……。そのとき「肉体」は「痛い」わけじゃないなあ。くすぐったい感じがあるかなあ。うるさい感じがあるかなあ。「やめてくれないかなあ」と思うかなあ。いや、「もっと、やって」と時によっては思うかもしれない。「あ、そこじゃなくて、もう少し右……」。あ、違うなあ。こんな感じじゃないなあ。
 ようするに、言い換えがうまくいかない。ただ、それを「つんつん」と受け止めるしかない。こういうとき、私はふいに、「私の肉体」が「私の肉体じゃなくなった」と感じる。「和田の肉体になった」と感じる。瞬間的に、有無を言わさず、「和田の肉体にさせられてしまった」と感じる。和田には迷惑かもしれないけれど、こういうときって、快感だなあ。とってもきもちがいい。一種のエクスタシー。自分が自分でなくなる。
 自分に戻っていく必要なんかない。
 --言い換えると、自分のことばで言いなおす必要はない。そうか「つんつん」は、こういう具合につかうのか。こんな具合につかったことがなかったけれど、これが正しい(?)つんつんのつかい方なのか、と納得してしまう。
 あとは、もう、和田になって、詩のことばを読みつづけるだけ。
 和田が書いているのだけれど、私は和田のことを忘れてしまう。私(谷内)が書いた詩です--と言いたくなるような感じで、すーっと、ことばにのみこまれていく。ことばが動いているのか、私の肉体が動いているのか、よくわからない。

洗われたわたしは
つぎに拭かれてすべすべになる。
たいらな、しんと静かな湖に似ている。
なめらかなその感触に自分でうっとりする。

 「すべすべ」「しん」--これを、自分のことばで言いなおすことは、やはりできない。「うっとり」も、言いなおせない。もう、そのことばしか思いつかない。ね、こんなふうに、そこに書いてあることばしか思いつかないなら、それは和田が書いた詩であるかもしれないけれど、私(谷内)が書いたものです、と言ってもいいんじゃない?
 --というのは、まあ、乱暴な言い方だけれど。
 それくらい、好き。大好きだなあ。ここに書かれていることばのすべてが。

白い皿で
ふちに赤いラインがある。
小さなウサギが一匹描かれているわたし。

 いいなあ。わけもなく、皿になってみたい気持ちになる。私は皿である、と言いたい気持ちになる。家に、白くて、赤い縁があって、ウサギが描かれている皿がないのが悔しい。デパートで買ってこようかなあ、と思ってしまう。デパートで買ってきたら、きっと皿に変身できる、と思ってしまう。

 でも、皿っていいことばかりじゃないかもしれない。

今朝はスクランブルエッグとトマトをのせられた。
油っこいものは苦手だ。
ねっとりした感じが肌にはりついていやだから。
例えば酢豚なんかの日は最悪だ
自分で自分がいやになる。
今朝のメニューは許せる。

 そうか、皿はそんな気持ちになるのか。
 でも。
 これって、ほんとうに皿の気持ち?
 もしかしたら、和田の気持ち?
 和田って、油っこいものは苦手? で、その理由は「ねっとりした感じ」、しかもそれが「肌にはりついて」来る感じがいや? 脂性の男は苦手? 脂っこいものを食べる男は肌もべたべたしていて、いやだなあ、触られたくない、触りたくないなあ……という感じ?
 あ、そんなことは書いてない?
 書いていませんねえ。
 でも、思ってしまう。想像が暴走してしまう。
 だって、

自分で自分がいやになる。

 って、どういう意味さ。自分に選択権がないということ? 拒絶できないということ?ふーん。でもさあ、皿なんて、そんな「権利」そのものがないんじゃない? 皿ってだいたい、何も考えないんじゃない? 皿の声って聞いたことがある?
 「皿」って書いてあるけれど、それは「皿」じゃなくて、和田自身のことじゃない? つまり、比喩じゃない?
 あ、これは、もちろん間違ったことを、私はわざと書いているのだけれど--そういう思いがふっと紛れ込んでくるでしょ? そして、そうい思いを、和田のことばは、そのまま受け止めてくれるでしょ? 
 この文章を読んだ和田は「私はそんなことは書いていません。いいかげんなことを書くのをやめてください」と怒るかもしれない。和田は怒るかもしれないけれど、「ことば」そのものは怒らないねえ。
 怒っているかもしれないけれど、私は平気。
 どんどん怒ってね。
 私は私で、勝手に読むよ。

 あ、変な具合に脱線してしまったなあ。
 でも、こういう脱線をするのが、きっと詩を読む楽しみなのだと思う。そこにあることばを手がかりにして、そこに描かれている「もの」、この詩で言えば「皿」になってみたり、その「皿」を書いている詩人(和田)になってみたり、あるいはスクランブルエッグになってみたり、酢豚になってみたりする。
 いやがる皿に、酢豚になって、ねっとりはりついて、わざと「気持ち悪い?」なんてささやいてみるのも、意外と楽しいかも。
 皿はなんて言うかなあ。
 箸や茶碗は、そういう酢豚を見てなんて言うかなあ。
 洗剤をつけられて、洗われるとき--洗剤や水は、なんて言うかなあ。

わたしの好きな日
和田 まさ子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする