詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アキ・カリスマキ監督「ル・アーヴルの靴みがき」

2012-04-30 22:51:50 | 映画
アキ・カリスマキ監督「ル・アーヴルの靴みがき」

監督 アキ・カリスマキ 出演 アンドレ・ウィルムス、カティ・オウティネン、ジャン=ピエール・ダルッサン

 アキ・カリスマキの映画はシンプルで情報量が少ないと思っていた。たしかに多くはないのだが、ダルデンヌ兄弟の「少年と自転車」を見たあとでは違った感想を持った。
 カリスマウキは「シンプル」を装った映画である。
 たとえば時計が映し出されるシーンがある。壁は一色(赤っぽい)に塗られていて、陰影がない。そのためにシンプルな印象がする。だが、そのとき時計のほかに花が一輪映し出される。ヒマワリのような花だ。花瓶はスクリーンの外。省略されている。情報量が制限されている。
 うーん。
 でも、この一輪の花がうるさい。シンプルを強調していて、その「強調」がうるさいのである。
 靴屋の妻が料理のために紫玉ねぎを切る。切りながら、体の痛みのためにテーブルにうつ伏せになってしまう。そのシーン。紫玉ねぎの断面、その美しい同心円。それが見える。でも、それ以外の野菜は見えない。その「欠如」がうるさい。つまり、非現実的で、童話っぽい。リアルを排除する力がうるさい。
 あるいはクロゼット。男の服はスーツが一組。女の棚にも二着しか服がない。シンプルである。つましい暮らしがとてもよくわかる。しかし、そのシンプルが強調されると、なんだか煩わしい感じがしてくる。
 それはなぜだろう。
 たぶん、カリスマキの映画には「陰影」が少なすぎるのだ。陰影がそぎ落とされすぎているのだ。「時間」の蓄積が、背景の「もの」から感じられないのだ。
 別な言い方をすると。
 私は「長江哀歌」を思い出しているのだが、ダムに沈んで行く街、その人々の暮らしは貧しいのだけれど、生活の細部に「つかいこまれた」美しさ、部屋をつかいこむことによって生じる「汚れ」という美しさ--雑巾のあとが残る壁、テーブルを拭いたとき、そのテーブルと接している壁に雑巾のあとが残る、そのつかいこんでいる暮らしの「美しさ」のようなものまで、カリスマウキはそぎ落としている。「つかいこむ」という時間の蓄積がつくりだす美しさを排除している。
 それが、私にはちょっとなじめない感じがする。(いままで、そんなに強く感じなかったのだけれど、「少年と自転車」を見たあとなので、そういうことに気がついた。)
 もっとも、違う見方ももちろんできるのではあるが……。

 で、その違った見方というのは。
 暮らしの「場」ではなく、「人間」そのものに「つかいこんだ味(つかいこまれた味)」を盛り込んでいるのである。
 この映画の主人公の「靴磨き」は老人といっていい年代の男である。作家のようなこともやったらしい雰囲気をただよわせている。「人間」をつかいこんだ感じは、その白い髪、しわ、という肉体そのものの「味」として表されているが、それとは別なものもある。たとえば、目の前でギャング(?)が殺される。それを見ても「靴磨きの代金を払ってくれたから、それでいい」と表情を変えずに言い切ってしまう。そのユーモア。
 あるいは難民キャンプでの所長とのやりとり。「民法に肌の色で人間を差別してはいけない、と書いてある」というようなことを、しれっとして言ってしまう。そのことばの奥にある「教養」というユーモア。
 人間から滲み出てくる美しさ。彼がそれまで生きてきた「時間」のなかで体験した事柄が「ことば」として表に出てくる。この監督は、シンプルな映像が目につくけれど、少ない「ことば(せりふ)」を「つかいこまれた時間」、そのひとの人格の「蓄積」としてあらわするに活用している。
 それは主人公に限らない。主人公のまわりの、パン屋、飲み屋、八百屋、さらには警察署長。彼らの演技に、そういうものが端的にあらわれている。彼らは「演技」をしない。「感情」を伝えようとはしない。「感情」を演技であらわそうとはしない。なまなましい感情の変わりに、しっかりと「ことば」を語る。そしてそのことばは「ストーリー」を逸脱しながら、「ストーリー」をじゃましない。八百屋の男が主人公にいろいろな食品を提供するとき「これは足が早いから」という。まあ、これは日本語の字幕なので、原語ではどういうか私はわからないのだが、この字幕は、監督の「ことばのなかの時間」を的確にくみ取った訳だねえ。とても感心した。
 ちょっと脇道にそれたかな?
 もとにもどる。役者は感情を浮かび上がらせる(強調する)アメリカ映画のような演技をしない。ぽつりぽつりとストーリーとはちょっとそれかことばを話すだけである。それしかしないのだけれど、そうすると逆に、映画のストーリーというよりも、人生というストーリーを動かしていく「人間性」というものが、見終わったあとにじわーっと浮かび上がってくる。
 それは、「長江哀歌」の壁に残る雑巾のあとのようなものだ。テーブルが取り除かれて、そのとき、あ、この横一直線の汚れはテーブルを雑巾が消したとき壁についてしまった汚れなのだ、テーブルは毎日毎日ていねいに拭かれていたのだとわかるようなものなのである。
 警察署長がふともらすことばが、なかなかいい。「みんな警察が嫌いだ。でも、困ったとき助けを求める。そして感謝をしない。でも、いいのだ」。--だれもが、自分のできることをする。感謝される、されないとは関係ないのだ。自分のできることをすると、それでうれしいのだ。
 それが「時間」として、人間の肉体のなかに残る。それは、「長江哀歌」をまた引用すれば、こころの奥を、すーっと横切っていく雑巾のあとのような陰影。--この美しさは、やはり「童話」だね。大人のメルヘンだね。
 それを見せるために、カリスマキは、「もの」の情報量を減らしているのだと言える。
 



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