南原充士『ゴシップ・フェンス』(洪水企画、2012年04月01日発行)
南原充士『ゴシップ・フェンス』の「帯」に「ゴシップ・フェンスに凭れて様々に語られた言葉やがて自立し絶対言語へと変容する」と書いてある。うーん。どういうこと? まあ、わからないのが詩なのだから、これはこれでいいのかもしれない。こういう「わからなさ」のなかで、何かをわかったと感じるのが詩を感じることなのだろう。
で。
この「帯」に書かれていることば(南原のことばではないのだろうけれど)から私がわかることといえば、--南原の詩が「絶対言語」を目指しているということ、その「絶対言語」というのは「変容」したもの、つまり最初の言語とは違ったものということ。あるいは、「自立」したものが「絶対言語」と呼ばれているらしいということである。
ここで私はちょっと(かなり)疑問を感じてしまうのである。
「やがて自立して」「変容する」。この表現のなかにある「運動」、そして運動の到達点としての「絶対言語」、その前提となる「絶対言語以前の言語」の関係のなかにある「矛盾」。
「絶対言語以前の言語」が「自立して」「変容して」「絶対言語」になる。そのときの「言語」は表層的にはどんなふうに違う? たとえば文字の大きさが大きくなるとか、明朝がゴシックになるとか、黒い印刷が赤い印刷になるとか……。そういう区別はないよね。そうすると、同じことばが同じまま、その「内容(意味)」が変わるということ? で、そういうことって、ほんとうに「絶対言語」にしかありえないこと? これが、なんともわからない。
「愛してる」ということばが「いやみ」になったり、感激して涙を誘うものになったりする。そのとき、どっちが「絶対言語」? 「愛してる」ということばは、その時その時の状況に縛りつけられていて、それで「意味(内容)」が左右される。つまり「自立していない」から「絶対言語」とは言えない?
でも、状況と乖離した言語というのは、何? 言語は、どうしても「状況」を引き寄せてしまわない?
……どうでもいいことを書いたけれど、まあ、私はこの「帯」に書いてあるようなことが考えられない。
「誤読」に「誤読」を積み重ねて、私がふと思ったことを書けば。
そこに書かれてある「状況」とは無関係に、あることばが好きになる。かっこいいと思う。そのときのことばが「絶対言語」ということになるのかな?
筆者(話者)が何を言おうとしたのかを無視して、そのことばを自分勝手に読者が受け止め、「かっこいい」「このことば盗んじゃえ」と思ったとき、それが「絶対言語」なのかな?
そうだとすると、たとえば
これは、「絶対言語」とはほど遠い感じがする。「物語」の「時間」を押し進めるために動いているにすぎない。簡単に言うと、退屈なことばである。そこには「状況」しかない。
どのことばも、私は好きではない。かっこいいとは思わない。つかってみたいとは思わない。
私がおもしろいと感じたのは、何か特別な仕掛けでことばが動く詩ではなく、逆に、どこへも動きようのないことばである。「うどんそばラーメンスパゲティ」という作品は小麦やソバを栽培している男が、小麦やソバが食べ物にかわることを想像することを書いている。その、食べ物にかわってからの部分。
あ、この部分はいいなあ、と思う。真似してみたい。こんなふうに具体的にことばを動かすことで、そこにまだ会ったこともない人間を、いつも見ている人間を見るよう書いてみたいなあと思う。書かれてみたいなあとも思う。「うどんをすする顔は下向きになり」というていねいな描写、書かなくていい描写の美しさ。この美しいていねいさがあるから「うどんはつるつると飲み込まれ」というありきたりのことばの連続が、リアリティそのものになる。
そうか「合点」というのは、こういうときにつかうのか。このつかい方は絶対に真似したい。知らん顔して盗み取りたい、と思う。(どこかで、私が「合点」ということばをつかっていたら、「谷内が盗んだ、盗作した」と非難してくださいね。非難されても、つかいたい。そんなふうに非難されることで、南原の詩のおもしろさが伝わっていくなら、とってもいいことだと思う。)
でも。
こう書きながら、あ、この私の感想というか、いいなあと思う部分と、南原がこの詩集で目指したものは違うんだろうなあという思いが入り乱れる。
私は、この詩集の感想を書くのに向いていないなあ、と思う。
「絶対言語」ではないけれど、それに類似したタイトルの「絶対芸術」という作品。
うーん、南原が独りよがりで「絶対」とセックスしているようにしか思えない。「芸術」の全体、その「絵」が見えないので、その絵を超えて噴出する音楽(ラッパの音)が聞こえない。動きだす「時間」が見えない。
ここから、いったい何がはじまり、何がかわっていく?
うどんをすすって合点した客の描写の方が、客の幸福感が伝わるけれどなあ。
南原充士『ゴシップ・フェンス』の「帯」に「ゴシップ・フェンスに凭れて様々に語られた言葉やがて自立し絶対言語へと変容する」と書いてある。うーん。どういうこと? まあ、わからないのが詩なのだから、これはこれでいいのかもしれない。こういう「わからなさ」のなかで、何かをわかったと感じるのが詩を感じることなのだろう。
で。
この「帯」に書かれていることば(南原のことばではないのだろうけれど)から私がわかることといえば、--南原の詩が「絶対言語」を目指しているということ、その「絶対言語」というのは「変容」したもの、つまり最初の言語とは違ったものということ。あるいは、「自立」したものが「絶対言語」と呼ばれているらしいということである。
ここで私はちょっと(かなり)疑問を感じてしまうのである。
「やがて自立して」「変容する」。この表現のなかにある「運動」、そして運動の到達点としての「絶対言語」、その前提となる「絶対言語以前の言語」の関係のなかにある「矛盾」。
「絶対言語以前の言語」が「自立して」「変容して」「絶対言語」になる。そのときの「言語」は表層的にはどんなふうに違う? たとえば文字の大きさが大きくなるとか、明朝がゴシックになるとか、黒い印刷が赤い印刷になるとか……。そういう区別はないよね。そうすると、同じことばが同じまま、その「内容(意味)」が変わるということ? で、そういうことって、ほんとうに「絶対言語」にしかありえないこと? これが、なんともわからない。
「愛してる」ということばが「いやみ」になったり、感激して涙を誘うものになったりする。そのとき、どっちが「絶対言語」? 「愛してる」ということばは、その時その時の状況に縛りつけられていて、それで「意味(内容)」が左右される。つまり「自立していない」から「絶対言語」とは言えない?
でも、状況と乖離した言語というのは、何? 言語は、どうしても「状況」を引き寄せてしまわない?
……どうでもいいことを書いたけれど、まあ、私はこの「帯」に書いてあるようなことが考えられない。
「誤読」に「誤読」を積み重ねて、私がふと思ったことを書けば。
そこに書かれてある「状況」とは無関係に、あることばが好きになる。かっこいいと思う。そのときのことばが「絶対言語」ということになるのかな?
筆者(話者)が何を言おうとしたのかを無視して、そのことばを自分勝手に読者が受け止め、「かっこいい」「このことば盗んじゃえ」と思ったとき、それが「絶対言語」なのかな?
そうだとすると、たとえば
ピエールは シャンパンのコルク栓をしずかに開けようとしていた
針金をはずして そろそろとコルクを押し上げる
一瞬ボトルが滑って傾き コルク栓は あやうくジャンの顔をかすめ
あふれ出た液がカトリーヌのドレスの胸のところにかかった
(「マスカレード」)
たかしというのが彼の戸籍上の名前である
二十歳で同棲したえりと一年で別れた
いやむしろ行方不明になった
どこにいたのかわからないまま
二年後にひょいと戻ってきた
だが そのとき えりは ゆりだった (「多重人格論」)
これは、「絶対言語」とはほど遠い感じがする。「物語」の「時間」を押し進めるために動いているにすぎない。簡単に言うと、退屈なことばである。そこには「状況」しかない。
どのことばも、私は好きではない。かっこいいとは思わない。つかってみたいとは思わない。
私がおもしろいと感じたのは、何か特別な仕掛けでことばが動く詩ではなく、逆に、どこへも動きようのないことばである。「うどんそばラーメンスパゲティ」という作品は小麦やソバを栽培している男が、小麦やソバが食べ物にかわることを想像することを書いている。その、食べ物にかわってからの部分。
冷しきつねうどんにかけた垂れの味
薬味のしょうが味
毎週きまって訪れるうどん屋には
常連の客がいる
うどんをすする顔は下向きになり
うどんはつるつると飲み込まれ
あ、この部分はいいなあ、と思う。真似してみたい。こんなふうに具体的にことばを動かすことで、そこにまだ会ったこともない人間を、いつも見ている人間を見るよう書いてみたいなあと思う。書かれてみたいなあとも思う。「うどんをすする顔は下向きになり」というていねいな描写、書かなくていい描写の美しさ。この美しいていねいさがあるから「うどんはつるつると飲み込まれ」というありきたりのことばの連続が、リアリティそのものになる。
最後に一口二口 汁を吸うと
客の顔は合点してすこし上向きになり
勘定を払う手つきも軽くなる
そうか「合点」というのは、こういうときにつかうのか。このつかい方は絶対に真似したい。知らん顔して盗み取りたい、と思う。(どこかで、私が「合点」ということばをつかっていたら、「谷内が盗んだ、盗作した」と非難してくださいね。非難されても、つかいたい。そんなふうに非難されることで、南原の詩のおもしろさが伝わっていくなら、とってもいいことだと思う。)
でも。
こう書きながら、あ、この私の感想というか、いいなあと思う部分と、南原がこの詩集で目指したものは違うんだろうなあという思いが入り乱れる。
私は、この詩集の感想を書くのに向いていないなあ、と思う。
「絶対言語」ではないけれど、それに類似したタイトルの「絶対芸術」という作品。
なにもない空間からしぶきが上がる
水か 血か 泥か
平面に精密な鳥瞰図が描かれ
それが次第にふくらみはじめる
だれもいないこの場所で
染み入ることをあきらめた油絵の具
ふっと息を吐き出すと こらえきれずに
ラッパが鳴り 秒針が動き始める
うーん、南原が独りよがりで「絶対」とセックスしているようにしか思えない。「芸術」の全体、その「絵」が見えないので、その絵を超えて噴出する音楽(ラッパの音)が聞こえない。動きだす「時間」が見えない。
ここから、いったい何がはじまり、何がかわっていく?
うどんをすすって合点した客の描写の方が、客の幸福感が伝わるけれどなあ。
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