詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「タツマキ・オトコ」

2012-04-19 10:53:43 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「タツマキ・オトコ」(「白黒目」34、2012年03月発行)

 豊原清明「タツマキ・オトコ」はシナリオである。

○ マユコの家・マユコの部屋(深夜)
  部屋の戸を開けて、窓を開けている。
  下着のマユコが、パソコンに自分の顔を映して、
  繰り返し、上唇を鼻の下にくっつけている。
  と、くしゃみする。
  パソコン画面を手拭きで拭くマユコ。
  携帯が鳴る。

 ファーストシーンのト書きである。このト書きに詩を感じる。映像の詩、映画の詩を感じる。--と書いても、私の思っていることはだれにも伝わらないかもしれない。
 なぜ、映画の詩、なのか。
 映像が「過去」を持っているからである。「過去」を「役者」の「肉体」にまかせているからである。たとえば「下着のマユコ」。なぜ、下着なのか。豊原は「説明」を書かない。たとえば「風呂上がりなので」という理由を書かない。「セックスのあとなので」という理由を書かない。「夏なので」という理由を書かない。書かずに、「下着姿である理由(過去)」を役者にまかせている。--これは、逆の言い方をすれば、豊原の「肉体」のなかで、そこにいる役者が完全に「現前」しているということである。豊原には、役者の「過去」が自分自身の過去のように、
 --あ、これは正しくないなあ。
 豊原には、役者の肉体が、自分自身の肉体のように見えている。役者の肉体を実感しているということである。役者の肉体を実感しながら、豊原はことばを書いている。
 その実感が、そのまま、ことばになっている。
 実感とは、ようするに肉体が覚えている「過去」のことなのだ。たとえば、風呂上がりは汗がひかないので下着だけでいる。あるいはセックスをしたあとは、体にほてりがのこっているので下着だけでいる……。そういう、私たちの肉体が覚えていることを思い出させる最低限のことばを豊原は書く。そうして、その最低限のことばで、余分なものを取り払った肉体(役者)をそのまま、そこに描いて見せる。
 シナリオなのに、シナリオを通り越して、映像(肉体)そのものが見えるのは、そのためである。

 「パソコンに自分の顔を映して、」というの、役者の行動(演技)の説明であると同時に、私たちの「肉体が覚えていること」を呼び覚まし、私たちの肉体を役者の肉体に重ね合わせることばである。「繰り返し、上唇を鼻の下にくっつけている。」あ、目に見えてしまうなあ。スクリーンいっぱいに広がった、顔、それがだんだん上唇と鼻に焦点をしぼっていく。クローズアップになっていく。そういう映像の運動(カメラの運動)も見えてくる。肉体と、カメラと、両方が「演技」をするのだ。それが映画だ。
 で、そこに突然。

と、くしゃみする。

 これは「現在」を突き破ってあらわれた「過去」である。「肉体」には常に「過去」が存在し(肉体は常に過去を内包し)、それは「現在(いま)」を突き破って、未来へと私たちを動かしていく。

パソコン画面を手拭きで拭くマユコ。

 これは、飛び散った鼻水(?)を拭くという動作だが、そこに予想もしなかったこと、つまり未来がはじまる。そんなことをするつもり(予定)はなかったのに、マユコはパソコンの画面を拭かなければならない。--こういうことは、とても小さなことに思えるかもしれないけれど、そうではない。とても大きなことだ。時間が、過去→現在→未来と動いていくものだとしても、それは「予定通り」ではない。いつでも予想外のことが起きる。過去が突然暴れ出し、脇道へと未来を押しやる。そして、その「押しやり」、一種の過去の「暴力」を「肉体」はとても自然に消化してしまう。
 なぜ、ここでパソコンのモニターに飛び散った鼻水を拭かなければならないのか--などと、肉体は考えない。「なぜ」を考えずに、ただ「肉体」を動かし、モニターに飛び散った鼻水を拭く。その動作は、やはり肉体が「覚えていたこと」である。何が汚れたら、拭きとる。手で拭きとる。--そうして、その拭きとり方に、また「肉体が覚えていたこと」がぐいっと顔を出す。そして、それがどんな「顔の出し方」であっても、肉体は肉体の連続性で、それをつないでしまう。
 ここが、おもしろい。
 意識などというめんどうくさいものは無視して、ただ肉体は動く。その動きにはいつも「過去」がある。どんなに飛躍したことがらでも、それをしてしまう肉体はいつも連続してしまう。私たちの意識に、連続と不連続があるとしても、肉体は不連続など気にしない--というか、肉体の連続性の中に、すべてを飲み込んでしまう。
 (ここから私は、ほんとうは、この世界に存在するのは「肉体」だけ、精神だとか、ことばなんて存在しない、ということを言いたいのだけれど、言えない。そういう論理は「乱暴」だと感じる気持ちがどこかにある。でも、「肉体」しか存在しない、ことばはたまたまそのときの「方便」としてそこにある「肉体の一部」と、私は思っているのである。--脱線した。)

 で。
 「くしゃみ」によって(たとえば、下着だけでいたので体が冷えて反応してしまったという「過去」の噴出によって「現在」が突き破られ、過去→現在→未来という「予定」が破られたのを利用して、

携帯が鳴る。

 ああ、すごい。
 豊原は意識して書いているか、無意識で書いているのかわからない。たぶん、こういうリズムは意識してというよりも、無意識での方がリアルに動くと思うのだが、こういう「未来」の突然の動き、「現在」が「未来」へとかわっていく瞬間を、豊原はとても端的に、つまりとても力強く描ききってしまう。
 もう、映画そのものの中に取り込まれてしまう。シナリオを読んでいるのだが、目の前にはスクリーンがある。そしてそこには役者がいる。

 このあとが、また、すばらしい。

○ まさおのメール「あまり無理しない方がいいですよ。」
恋もいいですが、現実に相手がいないんやから、
趣味の漫画の案を決めたら? いやっ、命令ちゃいまっせ」

○ マユコのメール「あのう、早朝三時に逢えませんか?」

○ まさおのメール「わかった。三時まで寝るね。お休み。」

 むちゃくちゃだなあ。なんのことか、ぜんぜん、わからない--というのは、嘘。たったこれだけのメールなのに、すべてがわかったつもりになる。そうか、マユコは趣味で漫画を描いているのか。マユコとまさおは、親しい間柄なのか……。具体的にはわからないが、私たちの(私の)肉体が覚えていることが、そこに書かれていることばに反応する。むちゃくちゃなものの言い方、脈絡のないことばの奥には、実は、強い脈絡があるということを納得してしまう。「頭」ではなく、肉体が納得してしまう。肉体は、そういうむちゃくちゃな会話があることを「覚えている」。
 豊原は、そういう「肉体がおぼえていること」をそのまま「ことば」にしてしまうことができる。そのことばを「映画」という形で、他人の(役者の)肉体にまかせてしまう--つまり、役者の肉体の中に「覚えていること」を注ぎ込み、その肉体をリアルに動かすことを知っている。
 これは豊原の本能だと思う。
 それが本能だから、私は豊原を天才と呼びたい。


夜の人工の木
豊原 清明
青土社
コメント
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