詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アスガー・ファルハディ監督「別離」

2012-04-24 10:21:04 | 映画

監督 アスガー・ファルハディ 出演 レイラ・ハタミ、ペイマン・モアディ、シャハブ・ホセイニ

 アスガー・ファルハディ監督「別離」は、どこから感想を語りはじめればいいのかわからない。ストーリーがわからない。いや、そこで起きていることを順序立てて「ストーリー」にすることはできるのだが、そんなストーリーでは何も語れない。ここにあるのは「ストーリー」ではなく、ストーリーにならない人間のあり方なのだ。人間はストーリーをはみだして、ストーリーとは無関係に、つまり、そのストーリーの結末へ向かって自分を整理していくのではなく、その瞬間その瞬間、ひとはそれぞれの思いを生きていて、それはけっして溶け合わない。そこには「瞬間」という永遠があるだけなのだ。「瞬間」という永遠の中で、ひとの思いはぶつかりあい、そして傷つくしかない--と言ってしまっていいのかどうかもわからない。
 ひとには、それぞれの真実があって、その真実とは「客観的」なのもの(ストーリーとして語れる何か)ではなく、あくまでもその人の「思いの真実」なのである。そして、その「思いの真実」と言ってしまうと、だれの、どんな思いも「真実」でしかありえない。「思った瞬間」、その「思い」は炸裂し、永遠の劇場になる。生々しいいのちのほとばしりになる。
 ややこしいことに、それぞれのひとの思いは「真実」なのだが、その「真実」は、実はあやしい。自分のことなのに、自分の「思い」が決められない--というか、何かあることを「思う」とき、それに反対する「思い」は他人の側からやってくるだけではなく、自分の内部からもやってくる。強引に押し切ろうとするが、どこかで「つまずく」。
 妻を愛している、娘を愛している、父親を愛している--それは全部「真実」である。そして「真実」であるからこそ、ひとりの人間の中でそれが対立してしまう。「矛盾」した動きになって現われてしまう。
 --こんな抽象的なことは、まあ、いくら繰り返しても何にもならない。
 いちばん好きなシーンはどこか。そこから何か語ることができるか。語りはじめることができるか。考えてみるが……これが、また難しい。
 たとえば、ラスト近くの流産した女の家のシーン。そこにもいろいろなシーンが交錯するが、流産した女の娘(幼稚園くらい?)と流産させた(?)男の娘(中学1年生)が、和解が破綻したとき見つめ合うシーンがすごい。中学生の娘の方は、まだいくらか事情がわかる。何が起きているか、「大人」の感覚で理解できる。ところが幼稚園の娘には、そこで起きている「ややこしい」いさかいの細部、大人たちがどんな「真実」を追い求めているかということはわからない(はずである)。ところが、その客観的(?)事実(真実)がわからないけれど、何もかもがつまずいてしまった。もうどうしようもないということだけは、はっきりわかる。そして、絶望と憎しみ、哀しみが入り混じった目で、互いをみつめる。
 大人を--ではなく、こどもはこどもを見つめる。二人は仲良く遊んだこともあるし、ついさっきまでそれなりにわだかまりもなく庭で遊んでいたのだが、それはもう取りかえしがつかない「過去」になっている。二人には互いを憎み合う理由など何もない。批判しあう理由も何もない。けれど、憎しみ合って、みつめる。心底、憎しみ合っているわけではないからこそ、それが、ややこしく、重たい。真に憎しみ合っているなら、その憎しみを取り除けば、なんとかなる。けれど、そこには彼女たち自身の憎しみがないのだ。
 互いに、哀しみあう(哀しみを分け合う)という理由ならあるかもしれない。けれど、二人はそういうことはしない。その哀しみも、実は彼女たちに原因があるわけではなく、どうすることもできないところからやってきた哀しみだからである。
 わけがわからないまま、「あんたのせいだ、あんたが悪い」と目で言い合う。「私が悪い」と言えば何かが違ってくるかもしれないけれど、「私が悪い」は言えない。そこに嘘があっても、あるいはわけのわからないものがあっても「あんたが悪い」しか、言えない。--これは正しい表現ではないかもしれないけれど、そういう人間の剥き出しの、二人のこどもの「真実」が、大人たちの会話から断絶した世界で、しかし、直感そのものとしてぶつかりあい、つながる。「同じ感情」になる。敵対(?)しているのに、同じ感情を持ってしまう。「感情」同じだから、敵対してしまう。矛盾してしまう。
 ああ、そうなのだと、思う。いつでも矛盾は対立するもののぶつかりあいではないのだ。同じもののぶつかりあいなのだ。同じだから、ゆずることができない。そして、その矛盾の中で、いま、そこにある「感情」が「激情」にかわり、すべての人間をのみこんでゆく。
 そういうことがあるのだ。これはいったい誰の憎しみ、誰の哀しみ、誰の愛情なのか。わけがわからない。でも、そこには、そういう感情が「真実」として、そのままある。「肉体」として、そこにある。
 「真実」だけでは生きてゆけない。「嘘」だけでも生きていけない。愛だけでも生きていけない。憎しみだけでも生きていけない。それなのに、私たちはだれもが生きてしまっている。死なない。死ぬことができない。感情だけでは死ぬことはできない。感情かかえたまま、その感情が「真実」であることに苦悩しながら、生きてしまうのだ。
 生きるのではなく、生きてしまう。

 ラストシーンがもっとすごい。両親が離婚することになり、少女は父か母かを親権者として選ばなければならない。そして、彼女はひとりを選択する。それなのに、それをことばにできない。決めたことなのに、それが言えない。言おうとする瞬間、少女のなかの少女が反対するのである。父が好きという感情と母が好きという感情だけがぶつかるだけではない。父が好きというの自分が好き、父が好きというの自分が嫌い、母が好きというの自分が好き、母が好きという自分が嫌い、こんなふうに悩む自分が大嫌い、けれどこんなふうにして悩むことができる自分がいちばん好き--もう、わけがわからない。人間が好き--つまりひとりでは生きていけないということの哀しみが、「好き」というひとつの感情の中で対立する。「嫌い」という感情のなかで対立する。「好き」と「嫌い」は矛盾した概念だが、実は「矛盾」ではないという、奇妙な「矛盾」が起きる。「好き」と「嫌い」はともに「自分の感情」というひとつのなかで、身動きがとれなくなる。
 そして、その「人間そのものの感情」に触れたあと、奇妙(?)なことが起きる。父と母、男と女は、もうどうしようもないところまできてしまったのだが、その瞬間に「つながる」のである。「好き」でも「嫌い」でもなく、あ、いま、ここに苦しんでいる少女(娘)がいる。娘を愛しているのに、その苦悩をどうすることもできない、どうすればいいんだろうという、わけのわからなさ、ぼうぜんとした感覚のなかで「ひとつ」になってしまう。別れるときまった瞬間に「ひとつ」になってしまう。

 矛盾だけがある。矛盾だけが「真実」である。矛盾というかたちでしか、人間は「ひとつ」になれない。憎むことでしか愛せない。愛することでしか憎めない。悲しむことでしか幸せになれない。幸せでないと悲しめない。それなのに、生きている。そういういのちを生きてしまう。
 それにしても。
 感情(思い)は、こんな具合に、いつでも矛盾して、矛盾をとおして「ひとつ」になるのに、「肉体」は「ひとつ」ではない。「肉体」はまじりあわない。感情こそ混じり合わないように見えて、実は、いつでも混じり合う矛盾した感情さえ、混じり合って「ひとつ」になって、人間を苦しめる。でも、「肉体」は「肉体」。少女の肉体は少女を決定する。父の肉体は父を決定する。母の肉体は母を決定する。それは、混じり合わない。
 その不思議。その静かな「事実」。



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