詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金子鉄夫「虹色バブバブぅ」

2012-04-02 10:42:41 | 詩(雑誌・同人誌)
金子鉄夫「虹色バブバブぅ」(「現代詩手帖」2012年04月号)

 詩はことばである。--というのとき、私にとって、詩とは「音」である。「音楽」である。「意味」ではなく、そこにある「音」の印象が気持ちがいいと、「あ、詩だ」と感じる。感じたあと、まあ、適当な解説(?)をでっちあげて、「この詩がいい」と知ったかぶって書く。感想は、あるいは批評は遅れてやってくる。
 で、書いていることが矛盾しているのはわかっているのだが……。
 この「音」にとって重要なのは、実は「音」ではない。「音」よりもイメージの飛躍、その飛躍のスピード(距離感)が大切である。

 抽象的に書いてもしようがないので、金子鉄夫「虹色バブバブぅ」について書くと、ここに書かれている「音楽」は私には「快感」につながらない。

はろーって、はろー
あたまからビラビラにひろがっちゃったからって
否否、泣いているばぁいじゃないよ
ワタシは虹色のバブバブぅ
続いてゆく続いてゆく贅肉のアバンチュール
誰がわるいってわけじゃない(知ってるわ、くそっ
だから、あえてというべきか
しゃべくりまくる、そのうえの陽のみちで
反脳的にろりんろりんしてうたっちゃうわ、ワタシ

 私が唯一快感を覚えるのは「反脳的にろりんろりん」だけである。このことばとならセックスできる。つまり、あちこちさわりまくって、そこから何が出てくるか肉体で受け止めてみたいと欲望してしまう。
 「ろりんろりん」のなかに「りろん」が隠れていて、それが「反脳」と定義されるとき、そこにいままでなかった「距離(飛躍)」が生まれる。論理と脳を否定して、ただ音が動く。その先にあるのは何なのか、見当がつかない。つまり、エクスタシーがそこにある--だから、追いかけてみたいという欲望に誘われる。
 でも、ほかの部分が、どうも私をそそのかしてくれない。
 「ひろがっちゃったからって」「ばぁいじゃないよ」という口語と「あえてというべきか」という文語(で、いいかな?)の交錯がつくりだす音楽が、「反脳的にろりんろりん」という音楽と、金子のなかでは密接な関係にあるのかもしれないけれど、私の肉体にはそれがなじまない。
 口語はおしゃべりだから「早口」に見えても、とても遅い。「文語」は一種の書きことばだから、手作業がともない、その分遅くなる--ように見えるけれど、実は逆。旧かなで書かれた文章(文語)を読むとわかりやすいが、活用がすっきりしていて(つまりとても経済的に整理されていて)、とても早く読める。
 目は耳よりも情報処理能力が高い。まあ、自分勝手なスピードでことばを読むことができるということだろう。耳は、聞こえてくる音を順番に拾い上げないと、ことばをつかみとったことにならないからね。
 で、「口語」を活字(文字)をとおして読むと、なんだかモタモタしてしまう。ことばのなかにある(あるかもしれない)飛躍が肉体にふれてこない。

あたまからビラビラにひろがっちゃったからって

 ここでの「ひろがり」はいったいどれくらいの広がりなのか--それが肉体に迫ってこない。「広がり」というよりも、「ほつれ(ほころび)」くらいにしか感じられない。「ひろがり」などといわなくてもいいものをわざと「ひろがり」ということばで拡げて見せたような感じがする。「ちゃったからって」というモタモタことばが、あるべき広がりを見えなくさせてしまう。
 次の行の「否否」は何と読ませるのだろうか。「いな、いな」か。私は知ったかぶりをして「ノン、ノン」とフランス語のルビをつけて読んでみたのだが(「ン」ということばをいれると、音が弾むから--というだけで、そうしたのだけれど)、そうでもしないと、音につまずいてしまう。「いないな、ないている」なんて「いなないている」になってしまえばそれはそれでおもしろいのだけれど「否否、泣いている」では「誤読」のしようがない。
 (きのう、私は江夏名枝の「あまいつみ」を「あまいみつ」と読み間違え、書き間違えたのだけれど、そういう「誤読」も起きようがない。)
 何か欠けている--と思ってしまう。

 でも、これは「欠けている」ではなく、何かが過剰なのだ。その「過剰」が、金子のこの作品のことばを重くしている。スピードを押し殺している。
 それは何かなあ……。

しゃべくりまくる、そのうえの陽のみちで

 「そのうえ」の「その」が何を指しているのか、私にはわからない。わからないけれど(わからないからこそ?)、この「その」が金子のことばをモタモタさせている原因だと思う。
 「その」は指示代名詞(だよね)。それに先行することばがある。そのことばを「その」は代弁している。そのときの、論理の粘着力--これが、きっと金子のことばを重くしている。
 金子は「バブバブぅ」という鈴木志郎康がつかった「プアプア」のようなことばをつかっているが、論理の粘着力が顔をのぞかせてしまうので、ことばからことばへの飛躍が小さくなってしまうのだ。遠いもの、相いれないものの結合が難しくなるのだ。「バブバブぅ」という発明した(?)音が、ことばを切断する力として働かないのだと思う。

 逆のことをやってみると音がかわるのかもしれない。広田修は論理的・散文的・哲学的なことばを粘着力で強引に凝縮していた。そして、それがほんとうに凝縮したとき、その凝縮はビッグバンのように爆発し、一瞬のうちに拡大・拡散するという世界の運動(ことばの運動)を押し進めていた。金子は、ほんとうは、広田のようにきても「論理的」なのかもしれない。論理的に、金子の肉体がもっている粘着力をていねいに動かしていった方が、ことばと音がかわるのかもしれない--そんなことを思った。
 「反脳的ろりんろりん」ということばのなかには、「論理」の粘着力が凝縮することで逆に爆発してしまうおもしろさがあると思う。「反・脳」ということばは、そういうことばがほんとうにあるのかどうかわからないけれど、とてもおもしろい。おもしろいと感じるのは、「反・脳」ということばの「意味」を「論理的」に、つまり「脳」を頼りに考えてしまうという運動が肉体のなかにおきるからだ。そして、その「脳に頼った論理」が「ろりんろりん」という音で壊され、ナンセンスに変わるからだ。
 ナンセンスこそが論理的、論理的であることこそがナンセンス--という運動が、金子のことばのなかから生まれてくるとおもしろいのでは、と私は勝手に期待してしまう。
 まあ、私が思っていることは、金子がやりたいこととは違うかもしれないけれど。きっと違うのだろうけれど。


現代詩手帖 2012年 04月号 [雑誌]
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思潮社
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