詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小林稔「榛の繁みで(二)」ほか

2012-04-09 10:19:26 | 詩(雑誌・同人誌)
小林稔「榛の繁みで(二)」ほか(「ヒースメロス」20、2012年03月25日発行)

 小林稔「榛の繁みで(二)」の「四、使者」はフラ・アンジェリコの「受胎告知」との出合いを描いている。

ぼくはなぜか一瞬自分の存在を消され空洞になったように感じた。心が、といおうか魂が身体をを抜け出て遠い高みに導かれるようで、(非現実の空間が存在するならば! )恐怖と陶酔の入り混じった気持ちにさせられた。

 ここに小林のことばの運動が凝縮している。「心(魂)」と「身体」を小林は明確にわけて考えている。「二元論」である。そして、その「二元論」をフラ・アンイジェリカの絵が代表するような、いわば「西洋」の「芸術(文化)」によって完結させようとする姿勢である。「理想」が「西洋文化」にあり、それを目指している--そういうことを意識して小林自身に課している。
 「二元論」を小林は「二重」ということばでとらえている。
 そこに、ちょっとおもしろいことばの運動がある。一種の乱丁というか、ちぐはぐなところがあって、私はそこに非常に興味をもってしまった。
 小林の哲学は西洋に起源を置く「二元論」であると思うのだが、そこに何か、小林の「予想」を裏切るものがあるように思えるのだ。小林自身が制御していないものがあるといえばいいかもしれない。

現実と夢の世界の(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )二重性を生きる時間はそれほど長くはつづかなかったし、事物がよそよそしい表情をなげかけることの方が多かったが、すでに変貌しつつある自分を省察するのは愉快であった。

 「二元論」にもとづいて整理すると。
 一方に「身体」と「魂」がある。他方に「現実」と「夢」がある。また「自分」と「変貌しつつある自分」がある。「身体/現実/自分」が一方にあり、他方に「魂/夢/変貌しつつある自分」がある。それを、小林はことばの運動として統一しようとしている。
 そう理解した上で、私は、一瞬、えっ、と思う。
 唐突に挿入されている

(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )

 さて、ここに書かれている「そこ」って、どこ?
 「現実」、あるいは「夢」?
 文法的には、「夢の世界」が「そこ」になるだろうと思う。もし、「現実の世界」が「そこ」なら、

現実と(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )夢の世界の二重性を生きる時間

 という具合になるだろうから。
 でも、そうすると、何か変だねえ。「魂/夢(理想あるいは西洋芸術)」に「悪の怪しさが潜んでいて」、それが「遠い高みに導く」? 「善」が「遠い高みに導く」のじゃないの?

 まあ、「西洋」の哲学のなかには、バッカス思想もあるから、それを「悪の怪しさ」といってもいいのかもしれないけれど、それは「受胎告知」とうまくつながらないねえ。
 何か、変だねえ。

 あるいは、(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )ということば、その「そこ」は「現実」か「夢」かではなく、「現実と夢の世界の」という助詞を含んだことばのあとにあるのだから、「現実と夢」という「二元論」そのもの--つまり、「二元論」を支える運動ということなのかもしれない。
 そうであるなら、それは「一元論」になる。「悪の怪しさ」という「ひとつ」があるときは「現実」になり、あるときは「夢」という姿をとる。あるときは「身体」という姿をとり、あるときは「魂」という姿をとる。しかし、その「姿」は論理を語るための「便宜上のもの」であって、ほんとうに存在するのは「悪の怪しさ」の運動(エネルギー)だけである、という「一元論」になる。
 けれど、小林は、はっきりと「二重性」ということばをつかっている。それは「二重性を生きる」という、微妙な表現といっしょに動くのだけれど、「二重」ということばをともかくつかって整理している。
 何か、ことばが、うまく動いていかない。予想外のものに小林はぶつかっているように、私には思える。

 あるいは、これは「日本語」を生きているということと関係してくるかもしれない。

現実と夢の世界の(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )

 この文の中にある「助詞・の」の力。

現実と夢の世界(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )の
現実(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )と夢の世界の

 こういう文なら、(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )の「そこ」が「現実」をさすのか、「夢」をさすのかがはっきりする。
 けれど、日本語を使い慣れていると(日本語が身体にしみついていると)、

夢の世界(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )の
現実(そこには悪の怪しさが潜んでいた! )と

 という文はつくりにくい。助詞は「名詞」のあとにすぐくっついてしまう。「名詞+助詞」が日本語のことばを動かしている。助詞の粘着力が文を支配している。日本語が身体に密着すればするほど、この「助詞」の粘着力は強くなる(と、私は感じている)。
 さて、ここから、どうやって「二元論」を論理的に組み立てるか。
 傍観者みたいな言い方になるが、実は、私はそのことに非常に興味がある。私はそういうことを試みたいとは思わないのだけれど、こんなふうに「二元論」を生きる小林にとって、「日本語(助詞)」の肉体はどう影響してくるのだろうか--そのことに、非常に興味がある。
 (私は小林のようにやはり「西洋」に触れていろいろ考えはじめたのだと思うけれど、「二元論」にはなじめない。プラトン、ソクラテスも私にとっては「一元論」である。この世界に存在するのは「身体」だけ。「ことば」も身体のひとつである。だから、ソクラテスは毒人参で死ななければならなかった。「身体」と「ことば」が別のものなら、「ことば」が毒人参をあおって死んでいけばいいのだが、そういうことができなかった。ソクラテスは毒人参によって、「身体」と「ことば」を統合し「一元論」を完成させた、と私は考えている。)

 あ、詩の感想からずいぶん逸脱してしまった。
 つづけようがないので、この感想は、ここまで。



 原葵「秋には、第十七号河岸で」には、トカゲと猫と「私」が登場する。「第十七号河岸」には運河を流れてきたものが住みついているらしい。許されないことをしたものが、流れ着いて暮らしているという感じ、まあ、人生の「吹き溜まり」のようなところ。小林の作品にでてきたことばを借りれば「悪の怪しさ」がうごめく町ということになるかもしれない。そこでは、互いに慰め合いながら、同時に他人(?)の罪を暴くというか、思い出させることで自分の気持ちを発散させている。
 だからといって、どうなるものではないのだが。
 その一瞬一瞬の「矛盾」のようなもの、一筋縄ではいかないあれやこれやがおもしろい。ちょっと、どこを引用していいか悩むのだが……。猫がトカゲのしっぽをかみ切る。その傷の手当てのために、トカゲの葵地をなめてやる。すると、

 すると、とかげが、嗄れ声、
 「どうだ、おれの血は、甘いか、苦いか」と私に囁く。「もし甘いなら、あんたの罪は軽くなってきたんだ。もし、苦いなら、あんたはまだ忘れることができないで、苦しんでいるってことだぜ」
 「ふん、生意気なことをいうんじゃないよ。私だって、この街に来て、もう百年以上苦しんできたんだ。もう許されてもいいころさ」
 そううそぶいて、なおもちゅうちゅうと、とかげの血をすする私。ああ、とかげの血の味は、甘いのか、苦しいのか--。頭がくらくらして、体じゅうが熱くなってくる。ああ、何もかも忘れてしまいたい。わすれることなんて、できるのか。まだ、ぼんやり覚えている。昔も、やはりこうやって男の血を舐めたことがあったっけ。

 忘れたいことは、覚えていたいことなのである。あるいは覚えていなければならないことなのである。この矛盾の「一元論」に苦しまないために(?)、私たちは、「「どうだ、おれの血は、甘いか、苦いか」と私に囁く。「もし甘いなら、あんたの罪は軽くなってきたんだ。もし、苦いなら、あんたはまだ忘れることができないで、苦しんでいるってことだぜ」/「ふん、生意気なことをいうんじゃないよ。」というような、口語を生きるのかもしれない。口語を動かしているのは、「頭の論理」ではなく、「身体の論理(身体のきしみ)」である、とふと、考えた。
コメント
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