詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

宿久理花子「亡霊」

2012-04-03 12:05:19 | 詩集
宿久理花子「亡霊」(「現代詩手帖」2012年04月号)

 宿久理花子「亡霊」のことばに私は何度もつまずいた。

誰もかえらない部屋のエアコンの
風により揺れる洗濯物の

 書き出しの2行なのだが「風により揺れる」の「により」が、私のいまの感覚とあわない。「より」ということばを、宿久は日常的につかうのだろうか。
 「風のために揺れる」「風に揺れる」--私は、そのどちらかになる。
 こんなことは、まあ、どうでもいいことなのかもしれないけれど、私は気になる。そういうことを気にしながら読むと……。

誰もかえらない部屋のエアコンの
風により揺れる洗濯物の
比喩を亡霊のように としたら
きみは待ち人の押すインターホンを空耳して
扉を開けたら
誰もいないかえらない部屋にひとり
としたくなくてきみはわざわざ待ち人の面影の逐一を

 ことばの不自然さがとても気になる。「の」による接続の「揺れ」が気になる。「待ち人」ということばが気になる。「空耳して」ということばのつかい方が気になる。
 「比喩を亡霊のように としたら」「誰もいないかえらない部屋にひとり/としたくなくて」の「としたら」「としたくなくて」が気になる。
 「したら」「したくなくて」
 あ、そうなのか。
 宿久にとって詩とは、対象とことばの関係は、その対象をどうことばに「したい」か、ということなのだ。対象をどうことばに「する」か、なのだ。
 それはエアコンの風により揺れる洗濯物を「亡霊」という「比喩」に「する」か「しない」かによって、次のことばがかわってくるということでもある。洗濯物を洗濯物ということばのままにしておいたら、次の行の「空耳して」ということばは出てこない。「亡霊」というほんとうは存在しないようなものが登場したから、ほんとうは存在しないものを聞く「空耳」ということばが登場する。
 そしてここでも「空耳/して」なのである。「空耳」ということばはあるが、「空耳する」という動詞はない。(あるかもしれないか、私は知らない。つかわない。)
 この「空耳して」では、対象が「音」であるよりも、「きみ」の「意識」である。「きみ」の内部の問題である。そういうものも「する」「しない」「したい」「したくない」である。
 さらえにいえば、「したら」の「ら」に含まれる「仮定」である。
 宿久にとって「世界」とは、「いま/ここ」にあることがらではなくて、それをどう意識「する」か「しない」か、という「仮定」の先にある。
 「仮定」はあくまでことばで動いていく。
 この「仮定」を動かすための工夫として、宿久は「わざと」口語を避けるのである。それも、大きく、ではなく、「少し」避ける。
 「誰もかえらない部屋のエアコンの/風により揺れる洗濯物の/比喩を亡霊の」の「の」の繰り返し。繰り返すことで、先行することばをひきずりながら、「接続」を延長しながら、ずれて行っているのか、ずれることがまっすぐなのかわからないような感じで世界をひとつに「する」感覚。その感覚には、たしかに「により」ということばが似合っていると思う。

 「したら」「したくなくて」に、もどる。ことばで「仮定」して、ことばで「世界」をとらえなおす--その「ことばの世界」が宿久にとって詩である。それは詩のつづきを読むとはっきりする。

誰もかえらない部屋のエアコンの
風により揺れる洗濯物の
比喩を亡霊のように としたら
きみは待ち人の押すインターホンを空耳して
扉を開けたら
誰もいないかえらない部屋にひとり
としたくなくてきみはわざわざ待ち人の面影の逐一を
思いつかなしい目をしかなしいと書きポストへ投函
R指定をひとりで観てるみたいと書いた
濡れそぼったひまわりをみたいと書いた
ひとりで

 「……と書いた」。繰り返される「書いた」。書くことが、宿久にとって「ことばの仕事」なのだ。「ことばを存在させること」なのだ。書かなければ、ことばはことばではない。
 「書く」ことが「ことば」を存在させることだからこそ、そのことばは「口語」を避ける形で動く。
 「風により」についてはもう書いたが、この1連目の後半に出てくる「思いつ」の「つ」--これは、「書く」ことによってのみ動くことばである。少なくとも私には「話す」「聞く」ということばではない。
 私は最初「思いつかなしい」を「思い/なつかしい」と読んでしまった。「思いつ」が「思い/つつ」だとは気がつかなかった。それくらい、私にとっては、「遠い」ことばである。その「遠い」ことばを通りながら、宿久はことばを動かしている。「仮定」し、仮定することで「意識」の動きこそが詩なのだと主張しているように思える。

 そして、この宿久のことばには、また別の要素も混じり合っている。1連目は最終行の「ひとりで」が象徴的だが、そこには「ひとり」しかひとが登場しない。「待ち人」は「亡霊」のように意識の運動でしかない。
 けれど、他人は他人。自分ではどうしようもない「もの」がある。他人のことばは他人が動かしている。そこに、宿久と違う部分がある。ことばを追うと、他人を発見してしまう。それが2連目で、不思議ななまなましさで書かれている。

待ち人の服はみんなぼろで
きみは洗剤を二杯も三杯もいれるから
なんでお金がないかってったらそういうことよ
前会ったときお洗濯が愉快というかそんなんじゃなくて怨念である気がすると
ふやけた指の腹を一生懸命のばしてたきみの
幼年期は洗濯機のことをせんたっきと言っていた

 「幼年期は洗濯機のことをせんたっきと言っていた」という行の「言っていた」というこだわり。(私はいまでも「せんたっき」という人間である。ワープロは「せんたくき」しか受け付けてくれないし、書くときは自然に「せんたくき」と入力するが、口語では「せんたっき」である。)そこから「時間」が見えてくる。
 「仮定」がまだそこに存在しない「時間」をことばで動かすことだが、どういうことばを聞いたか、どういうことばをとおして他人を認識したかは「過去」に属することがらである。「過去」をひきつれて、他人が「いま/ここ」にあらわれ、そうし「時間」を動かしていく。「仮定」ではなく、「過去」が「いま」を動かしていく。
 この「過去」と「仮定」のせめぎ合いが、とてもおもしろい。生々しい。特に、次の部分。

母親は
どの服の所有者も言いあてた
たんすに色あせた桃色のブラジャーがしまってあった
のをひとりになって気がつきドラマチックの気分の
きみの握りしめる手紙の切手代が足りないから
送り返されてくると思い込みたいのでしょう わかります

 「きみ」というのは、ほんとうは「きみ」ではなく、「意識化されたわたし」、つまり宿久と思って私は読んでいるのだが、「きみ」をそうやって「過去」をもった人間として「仮定」へ動かしていく部分が、とても生々しい。言い換えると、そこに「肉体」を感じる。とても惹きつけられる。「意識」なんてとても面倒くさくて、意識の手触りは「により」とか「思いつ」とか「の」のずるずるとした接続という、なじみにくいことばのなかにしかないが、この部分では「意識」であることを忘れてしまうなあ。
 「色あせた桃色のブラジャー」に、スケベな私が反応しているだけなのかもしれないけれど。まあ、そういう具体的な「もの」がことばになる、そういうものもことばに「する」というのはいいなあ。もっとそういうものをことばにしてほしいなあ、とも思う。
 あ、脱線したかなあ。
 で、この部分、「幼年期は洗濯機のことをせんたっきと言っていた」に驚いたのと同じくらいに、

きみの握りしめる手紙の切手代が足りないから
送り返されてくると思い込みたいのでしょう わかります

 に私は飛び上がってしまった。「郵便会社」になってからはどうか知らないが、私の若い時代(大学生以前)のころ、郵便は切手代が足りないと「料金不足」の印をおされて戻ってきたが、その後、そんなことは労力の無駄であるというので若干の料金不足は「料金不足」という印をおしたまま相手へ届けられるということに変わったと思う。私は何度か「料金不足」という手紙を受け取ったことがある。(足りない料金は払いにいかなかったか、問題はなかった。)
 いまはまた「決まり」がかわって料金不足は戻ってくるのかなあ。
 このひと、いったい何歳?
 どんな「過去」を生きている?
 「仮定」で動かしていく「時間」と、その前提になる「過去の時間」の関係--そこにある「肉体」がふいにわからなくなる。
 不思議。不思議。不思議。



現代詩手帖 2012年 04月号 [雑誌]
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