高貝弘也『白緑』(3)(思潮社、2012年09月01日発行)
たとえば「母子草」のⅡの書き出し、
何が書いてあるか、わからない。多摩川のそばを歩いているのかな? 土手か何か、あるいはそこから見えるどこかに地層が剥き出しになっているのかな? でも「地層の片葉」って何? 地層って葉っぱ? あたたかい未声もわからない。その声が「舞い降りて」きたのかな? こなかったのかな?
でも何もかもがわからないわけではない。「あたたかい」「そっと」はわかるなあ。私の肉体が覚えている「あたたかい」感じ、「そっと」という感じでいいのなら、まあ、「わかる」ということになる。
で、いま書いた「わからない」と「わかる」を冷静に(?)見つめなおしてみると。
私がわからないと感じているのは、「もの」がどんなふうに動いている。高貝がどんなふうに行動しているかが「わからない」ということになる。散文的というか、論理的というか、ようするに、だれが、どうした、という主語と述語の関係が「わからない」。
一方、私が「わかる」のは主語と述語の、属性(?)のようなもの。「あたたかい」「そっと」。
で、そのいちばんわかりやすい(?)「あたかい未声」にしぼって言うと。
「あたたかい」と「未声」の関係は、「あたたかい」が「未声」を修飾している(形容している)ということになる。そしてわかるのは、いわば「主語」というか「本質」の「未声」ではなく、「あたたかい」という属性である。--これって、変でしょ? 「未声」は「葉っぱ」の比喩かもしれない。あるいは「光(太陽の光)」の比喩かもしれない。さらには「季節」の比喩かもしれない。
私たちは(私は)、その対象が何かであると「わかる」とき安心する。そして、何かを「わかる」とき、まず「何が」「どうした」という形で「わかる」のだが、その「わかる」とき、属性である「あたたかい」を除外して、頭の中を整理している。
しかし、そういう「わかる」では高貝の世界には永遠に近づいていけない。
で、そういういわば「解説書(?)」的な近づき方ができないので、「わかる」ことがらから近づいていくのだが、これって、ほんとうに近づいていること?
まあ、学校の教科書(授業)では、近づいていくことにはならないのだろうけれど、こういう「属性」を「本質」と入れ換える形で近づいていくしかないのが高貝の世界だと思う。
「主語(本体)」は何かわからない。けれど、その「本体」は「あたたかい」。そして同時に「そっと」舞い降りて(くる)という状態にある。くるとも、こないとも断定せず、「舞い降りて」という動きの「属性」だけを書くのが高貝のことばである。
高貝は、まるで「本体(主語)」はどうでもよくて、「あたたかい」「そっと」「まいおりて」という「本体」に付属する何かこそが大事なのだと言う具合である。
そして、そうなのだと思う。私たち(私)が、ふつうに新聞や何かを読むときはだれが、どうした、なにが、どうしたを中心にして「できごと」を「わかる」のだが、高貝はそういう「わかりかた」をしない。そういう世界のとらえ方をしない。「なにが、どうした」ではなく、「どのようにして」から世界をとらえるのである。そして、その「どのようにして」を偏愛するのである。
だから、一片の葉も「片葉(かきは)」なのである。ふつうに言えば(だれにでもわかることばで言えば)「一片の葉」なのだが、それでは「本体」が露骨にあらわれてしまう。そこには「どのようにして」が持つ「主観」の入る余地がない。「客観的」すぎる。高貝は「客観的なことがら」を書きたいのではなく、ただ「主観的なことがら」を書きたい。だから、「わからない」ということが、そこに侵入してくる。
(わけもわからずに、ただ書きはじめて、やっと書きたいことにたどりついたかな、と私はいま思っている。)
「客観的」なことがらと私たちが(私が)考えているものではなく、その「客観的」にまわりについてまわる「主観的」なもの--それを積み重ねていく。そして、高貝は、こういう「主観」(高貝のものの感じ方)は好きですか? と問うのである。こういう「ことばの好み」が「わかりますか」と問うのである。そんなふうに「主観」を打ち出すのである。
何か客観的な「もの」、たとえば「葉脈」とか「枝さき」とか「卵帯」(これ、何?)とか「夕星」が書かれているのではない。
「枝さき」は「枝先」ではない。木の枝の先っぽ、先端ではない。「枝さき」としかいいようなのない、一種の「ひらがな」のやわらかさを含んだもの。あるいは、そのやわらかい感じそのものである。「夕星」は夕方の星、たとえば宵の明星なんかではない。あくまで「ゆうずつ」という音のひびきであり、そのことばが持っている「時間(歴史)」の「主観」である。
高貝は「主観」を浮き彫りにするようにしてことばを動かしていく。ことばが動けば、その奥に「主語」「述語」もなんとなく見えてくるかもしれない(わかった気持ちになるかもしれない)が、そういう「わかり方」は高貝の詩を(ことばを)読む方法ではない。そういう「論理的」なことがら、「客観的」なことがらとはまったく別の、「感覚の一元論」(ことばの歴史の一元論)のようなもので高貝の世界はなりたっている。
「もの(客観)」があり、それに付随して「感覚(主観)」があるという「二元論」(デカルト的世界)ではないのだ。高貝が書いているのは「感覚(主観)」を渡り歩き、そこに「もの(客観)」が切り捨ててしまったものを、それ自体として構築する(あ、いやなことばがまじり込んでしまったなあ)ことなのだ。
私の引用は「るび」をかっこで補って書いているので、高貝の「好み」の世界を忠実に反映しているわけではないので、実際は、詩集で読んでもらうしかないのだが。
最後の「掻きわけて/(かきわけて…、)」が特徴的だが、「掻きわけて」と「(かきわけて…、)」の違いは、「客観的」には何もない。密集している「もの」に、たとえば手を差し入れ、それを左右に分けるようなことを「掻き分ける」というが、漢字で書こうがひらがなで書こうが、その動作そのもの、人間の動作(作用)と、それから始まる「もの」の動き(被作用)に違いがあるわけではない。でも、それは「主観的」には違うのだ。
その「主観」の世界に入っていくか、入らずに、「客観的な世界」はどうなっているのか、ということにこだわるか。--その「読者の立場」によって、高貝の世界は違ってくる。「二元論」から高貝の世界を見ると、わけがわからない。独自の「一元論」から見ないと、何もわからない。
で、この「独自の一元論」というのは、説明しはじめるとめんどうくさいので、私は「好み」、ことばへの「偏愛」というのだけれど。
たとえば「母子草」のⅡの書き出し、
多摩川縁(地層の片葉(かきは)が…、)
あたたかい未声 そっと舞い降りて
何が書いてあるか、わからない。多摩川のそばを歩いているのかな? 土手か何か、あるいはそこから見えるどこかに地層が剥き出しになっているのかな? でも「地層の片葉」って何? 地層って葉っぱ? あたたかい未声もわからない。その声が「舞い降りて」きたのかな? こなかったのかな?
でも何もかもがわからないわけではない。「あたたかい」「そっと」はわかるなあ。私の肉体が覚えている「あたたかい」感じ、「そっと」という感じでいいのなら、まあ、「わかる」ということになる。
で、いま書いた「わからない」と「わかる」を冷静に(?)見つめなおしてみると。
私がわからないと感じているのは、「もの」がどんなふうに動いている。高貝がどんなふうに行動しているかが「わからない」ということになる。散文的というか、論理的というか、ようするに、だれが、どうした、という主語と述語の関係が「わからない」。
一方、私が「わかる」のは主語と述語の、属性(?)のようなもの。「あたたかい」「そっと」。
で、そのいちばんわかりやすい(?)「あたかい未声」にしぼって言うと。
「あたたかい」と「未声」の関係は、「あたたかい」が「未声」を修飾している(形容している)ということになる。そしてわかるのは、いわば「主語」というか「本質」の「未声」ではなく、「あたたかい」という属性である。--これって、変でしょ? 「未声」は「葉っぱ」の比喩かもしれない。あるいは「光(太陽の光)」の比喩かもしれない。さらには「季節」の比喩かもしれない。
私たちは(私は)、その対象が何かであると「わかる」とき安心する。そして、何かを「わかる」とき、まず「何が」「どうした」という形で「わかる」のだが、その「わかる」とき、属性である「あたたかい」を除外して、頭の中を整理している。
しかし、そういう「わかる」では高貝の世界には永遠に近づいていけない。
で、そういういわば「解説書(?)」的な近づき方ができないので、「わかる」ことがらから近づいていくのだが、これって、ほんとうに近づいていること?
まあ、学校の教科書(授業)では、近づいていくことにはならないのだろうけれど、こういう「属性」を「本質」と入れ換える形で近づいていくしかないのが高貝の世界だと思う。
「主語(本体)」は何かわからない。けれど、その「本体」は「あたたかい」。そして同時に「そっと」舞い降りて(くる)という状態にある。くるとも、こないとも断定せず、「舞い降りて」という動きの「属性」だけを書くのが高貝のことばである。
高貝は、まるで「本体(主語)」はどうでもよくて、「あたたかい」「そっと」「まいおりて」という「本体」に付属する何かこそが大事なのだと言う具合である。
そして、そうなのだと思う。私たち(私)が、ふつうに新聞や何かを読むときはだれが、どうした、なにが、どうしたを中心にして「できごと」を「わかる」のだが、高貝はそういう「わかりかた」をしない。そういう世界のとらえ方をしない。「なにが、どうした」ではなく、「どのようにして」から世界をとらえるのである。そして、その「どのようにして」を偏愛するのである。
だから、一片の葉も「片葉(かきは)」なのである。ふつうに言えば(だれにでもわかることばで言えば)「一片の葉」なのだが、それでは「本体」が露骨にあらわれてしまう。そこには「どのようにして」が持つ「主観」の入る余地がない。「客観的」すぎる。高貝は「客観的なことがら」を書きたいのではなく、ただ「主観的なことがら」を書きたい。だから、「わからない」ということが、そこに侵入してくる。
(わけもわからずに、ただ書きはじめて、やっと書きたいことにたどりついたかな、と私はいま思っている。)
「客観的」なことがらと私たちが(私が)考えているものではなく、その「客観的」にまわりについてまわる「主観的」なもの--それを積み重ねていく。そして、高貝は、こういう「主観」(高貝のものの感じ方)は好きですか? と問うのである。こういう「ことばの好み」が「わかりますか」と問うのである。そんなふうに「主観」を打ち出すのである。
あかるい かげひなた
--葉脈だけになった 枝さきに、
白緑(びゃくろく)色の 卵帯。(……耳のそよぎや、夕星(ゆうずつ))
何か客観的な「もの」、たとえば「葉脈」とか「枝さき」とか「卵帯」(これ、何?)とか「夕星」が書かれているのではない。
「枝さき」は「枝先」ではない。木の枝の先っぽ、先端ではない。「枝さき」としかいいようなのない、一種の「ひらがな」のやわらかさを含んだもの。あるいは、そのやわらかい感じそのものである。「夕星」は夕方の星、たとえば宵の明星なんかではない。あくまで「ゆうずつ」という音のひびきであり、そのことばが持っている「時間(歴史)」の「主観」である。
高貝は「主観」を浮き彫りにするようにしてことばを動かしていく。ことばが動けば、その奥に「主語」「述語」もなんとなく見えてくるかもしれない(わかった気持ちになるかもしれない)が、そういう「わかり方」は高貝の詩を(ことばを)読む方法ではない。そういう「論理的」なことがら、「客観的」なことがらとはまったく別の、「感覚の一元論」(ことばの歴史の一元論)のようなもので高貝の世界はなりたっている。
「もの(客観)」があり、それに付随して「感覚(主観)」があるという「二元論」(デカルト的世界)ではないのだ。高貝が書いているのは「感覚(主観)」を渡り歩き、そこに「もの(客観)」が切り捨ててしまったものを、それ自体として構築する(あ、いやなことばがまじり込んでしまったなあ)ことなのだ。
草が、生殖器をひらいている。
わたしは又 たたらを踏んでしまう
あの、夕闇の母子草掻(か)きわけて
(かきわけて…、)
探している 未生の実を、あなたは
私の引用は「るび」をかっこで補って書いているので、高貝の「好み」の世界を忠実に反映しているわけではないので、実際は、詩集で読んでもらうしかないのだが。
最後の「掻きわけて/(かきわけて…、)」が特徴的だが、「掻きわけて」と「(かきわけて…、)」の違いは、「客観的」には何もない。密集している「もの」に、たとえば手を差し入れ、それを左右に分けるようなことを「掻き分ける」というが、漢字で書こうがひらがなで書こうが、その動作そのもの、人間の動作(作用)と、それから始まる「もの」の動き(被作用)に違いがあるわけではない。でも、それは「主観的」には違うのだ。
その「主観」の世界に入っていくか、入らずに、「客観的な世界」はどうなっているのか、ということにこだわるか。--その「読者の立場」によって、高貝の世界は違ってくる。「二元論」から高貝の世界を見ると、わけがわからない。独自の「一元論」から見ないと、何もわからない。
で、この「独自の一元論」というのは、説明しはじめるとめんどうくさいので、私は「好み」、ことばへの「偏愛」というのだけれど。
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