詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岸田裕史『メカニックコンピュータ』

2012-09-10 10:13:54 | 詩集
岸田裕史『メカニックコンピュータ』(澪標、2012年06月01日発行)

 岸田裕史『メカニックコンピュータ』は詩集のタイトルがとても奇妙である。コンピュータはもともとメカニックであると私は思っている。ところが岸田はそうは思っていないのだろう。だから「メカニック」とわざわざ強調しているのだろう。
 まあ、メカニックにはいろいろな意味があるだろうけれど。
 私の考えるメカニックにはふたつの要素がある。ひとつは、それがメカニックであるかぎり、その構造を利用してつかえばあることが「定型通り」にできる。コンピュータというとおおげさすぎるが、たとえば私の使っているワープロ。これは「あ」を叩くと「あ」の文字になる。「あし」と入力し変換キーを叩くと「足」になる。「脚、葦」などにもなるが、「手」には絶対にならない。これは、しかしいいかげんなものだと思う。嘘がつけないのである。嘘がつけないものは、まあ、信用に値しない。なぜかというと、何も考えないから嘘がつけないのである。考えるものは嘘をつく。我が家の犬だって嘘をつく。フードを食べた後、デザート(?)のおやつをねだるというのが行動のパターンだが、おやつが先にほしいときは食べたふりをするのである。もちろん犬だから、完璧な嘘はつけない。「食べた?」と聞くと、ほんとうにフードを食べたときはぺろりと口の周りをなめて満足したと告げるのだが、嘘のときは「食べた?」と聞くと悩むのである。ようするに嘘がばれる。それでも嘘をつく。コンピュータにはこういうことができない。「定型」の反応しかできない。
 もうひとつは、いま書いたことの裏返しなのかもしれないが、あらゆる「言語」が「共通言語」になってしまっているということである。専門家に言わせれば、その共通言語にも差別化はあるのだろうけれど、そこには「数学」という「共通言語」が全体的に存在し、支配している。これは透明で美しい。だからときどき「不純物」が混入すると「化ける」。意思の力で「不純物」を無視して動きつづけるというわけにはいかない。正常であるために、常に排除の法則が働いている。「あし」と入力して「足」にならないなら、何らかの「不純物」が混入している。それを排除しないかぎり、正常にはうごかない。ばかばかしいことに、正常以外は存在しないという世界がメカニックの世界である。
 ここから、それではメカニックでは処理できないことがらが起きたとき、つまり新しい何かにであったとき、どうするかという問題が起きる。メカニックにできることは、その新しいものを、既知のもので処理できるところまで処理し、処理できないからこれは「新しい」という結論を出す。めんどうくさい。「これは新しい」と直感として理解した上で、それまでのメカニックを解体するという方向には向かえない。それまでのメカニックを解体する方に向かうにしても、一度は、それまでのメカニックを総動員して点検しなくてはならない。
 これはほんとうにめんどうくさい。けれど、めんどうくさいものには、おもしろいものがある。そこにはたぶん「詩」がある。わけのわからないものがあり、そのわけのわからないものに触れながら、「私自身」が「私ではなくなる」瞬間がある。そこまでいくにはほんとうに時間がかかるが、いってしまえばエクスタシーだから、すべて忘れることができる。

 さて。
 では、岸田にとって「メカニック」とはどういうことなのか。

電源を入れ
身体の中に明かりを灯す
毛細血管に電流が流れ
頸動脈が膨れあがる
さらに電圧を上げ
大脳皮質に電気エネルギーを注入する
覚醒した神経細胞がぶつかり合い
心筋大動脈が収縮する
動脈に韻律が流れ
内皮細胞の壁に激しくぶつかる

 「韻律エネルギー」の冒頭だが、これは「人間の身体(私の身体、岸田の身体)」をコンピュータに見立て、身体にコンピュータを重ねることで、身体内部に起きていることを描いている。身体を、いわばコンピュータの言語で書き直している。そこにはエネルギーの運動の「定型」が描かれている。定型であるという点では、まあ、メカニックである。でも、数学の美しさは感じられないなあ。
 後半。

このまま律動を放置すれば
体外に飛び散ってしまう
律動を制御するため
収縮速度を上げ
電磁誘導エネルギーを過電流に変える
韻律は循環器内にとどまり
磁性体となって高速スピンを繰り返す
目視できるとすれば
網膜欠陥を通過する時だけだ
眼底をよぎる韻律は帯電し
フィラメントのように輝いている
その輝きに眼底が満たされた時
凝縮された韻律は
喚声とともに体外に放射される

 「異物」とまではいわないが、電圧が高くなりすぎ、安全を守るために、それを放出する。そのことを、これまた定型通りに処理する。「メカニック」とはあくまで「定型」なのだ。
 この「数学」がもっと徹底して、たとえばベルグソンのことばの運動にまで行ってしまえば、それはほんとうに美しいと思う。何かよくわからないけれど、この正確さは異常、つまり日常を超越しているということが直感につたわってくる。この美しさをはっきり把握できないのは、私が数学をさぼってきたからだな、ということが反省としてわかる。そうして打ちのめされる。
 あ、これは私の単なる「感覚の意見」であって、いいかげんなものです。私はベルグソンの読者ではないのだけれど、ちらっちらっと読むかぎりでは、ベルグソンは徹底的な数学者だね。数学を利用してことばを動かしている。常にことばの奥に、「数式」がある。「数式」(数学的処理能力)があるから、ことばのスピードを自在に加速させ、飛翔できる。
 余分なことを書いたね。

 余分なことしか書くことができない。

 なんといえばいいのか、岸田のメカニックには、メカニック自身がもっている恍惚がない。「定型」でおわっていて、定型をのがれて暴走する「自律」がない。岸田のメカニックは「定型のメカニック」であり、それがおもしろくない。
 エネルギーの増殖と、その放出による自己保存を「身体内部」から描いているのだけれど、どうもねえ。

 原因は、たぶん、「メカニック」を単に利用しているだけという生き方にあるのだと思う。「メカニック」を何かを理解するための「下図」として利用しているといえばいいのかな?
 「重畳の声」という作品。

この声は本当に自分の声なのか
振幅スペクトルが乱高下し
自分の声が識別できない
暗箱のそこで低周波に攪拌され
他人の声と重畳している
あるいは自分の声が重畳しているのか
わからない 自分の声が

 「重畳」ということばを私はつかわないが、たぶん、文字から判断するに、重なり合うことだろう。そこに「下図」につながるものがある。どちらが「下図」かわからない。自分の声と他人の声が幾重にも重なる。このわけのわからない幾重にも重なったものを明確に分類するには「振幅スペクトル」を利用すればいいのだろうけれど、それもうまくいかない--と岸田は書いているのだろうが、その識別にコンピュータの分析メカニック(振幅スペクトル)を「下図」として利用する、というのは、
 うーん、
 それって、コンピュータのことではなく、人間のことじゃない?

 で、ここまで書いてきてやっとはっきり言いたいことがわかったのだが、岸田は「メカニックコンピュータ」と書きながら、主題は「コンピュータ」でも「メカニック」でもない。人間の(私の)ありようを、コンピュータを利用してメカニック風に書いてみましたということなのだと思う。
 で、その結果、人間もメカニックコンピュータも書き逃している。

 いちばん足りないのは「韻律」「声」ということばが岸田の詩に出てくるのだが、「音楽」がない。音楽が数学的であると発見(?)したのはたしかピタゴラスだったと思うけれど、音が数学的に調和しながら増幅するという感じがない。メカニックなのもは、みな、その数学と音楽の融合した「暴走」寸前のものをもっていると、私は直感的に思っている。それにふれると、思わず、その先に行ってしまいたいという欲望を誘うものだと思う。岸田のことばは逆向きに、「メカニックの下図」をこれだけ知っています、という方向へ「設計図」ふうに下降していく。
 「設計図」なんかなくても、そのままつかってしまえるのが現代のメカニックである。なんだか「時代後れ」という感じがしてしまう。
 いまは、だれもがOSなんかは気にしないで、コンピュータを表層的につかっている。表層を暴走していく。それがいいことであるとは私は思わないけれど、もう表層を暴走するしかないというのも「事実」である。そうであるなら「表層のメカニック」へと視点は動いていかないと現代と向き合ったことにならないだろうと思う。表層のメカニックから逆走して深層のメカニックに変更を迫るという具合でないと、おもしろくないなあ。





メカニックコンピュータ―岸田裕史詩集
岸田裕史
澪標
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