監督 西川美和 出演 松たか子、阿部サダヲ、田中麗奈
この映画にはわからないことが何点かある。
ひとつはラスト近く、松たか子が阿部サダヲのいどころをつきとめ、女の家を訪ねるシーン。その台所。俎板がぬれている。洗い物が放置されている。俎板の上に包丁が放り出してある。一般の家ならありふれた光景である。だが阿部サダヲが板前であることを考えると、これはとても変である。火事のときも忘れずに持ち出した包丁。それをそのまま放り出してあるのはなぜ? 阿部サダヲが板前ではなくふつうのお父さん(ふつうの男)になったことの象徴として描いたのだろうか。たしかにそのあとちょっとした事件が起き、そこで阿部サダヲがとる態度はそれまでの結婚詐欺師の男の態度ではなく、子どもの将来を思うふつうのお父さんの態度である。結婚詐欺につかれてしまい、ふつうの男に戻った、というのならそれはそれで「意味」が通るのだけれど、うーん。包丁一本の描写で「改心」を表現するのはかなり強引な感じがする。
もうひとつ。料理がおいしそうに見えない。料理の話ではなく結婚詐欺の話なのだから料理はおいしそうに見えなくてもいいのかもしれない。見えたらまずいのかもしれない。でもねえ。「食べる」というのは人間の基本的なこと。おいしい料理をつくることに情熱をもっていた男のつくるものが、一瞬でも「あ、おいしそう」「あ、あの作り方美しいなあ」「しあわせって、ここにあるんだなあ」という感じがしないとなあ。(是枝監督の「歩いても歩いても」で樹木希林が食事を作るシーン、明るくておいしそうでしょ?)松たか子がアルバイトで働くラーメン屋のラーメンとかわりない雰囲気の映像ではまずいんじゃない?
いや、これは「わざと」そうしているのかな? 「外食」の料理というのはしょせん愛情とは無関係。一種の「見栄」。料理をつくる人と食べる人のあいだに「愛」は存在しない。板前と客のあいだには愛は存在しない。そういうことかな?
結婚詐欺の仕事(?)は、ある意味で、「外食」の料理を食べる人と客の関係。客は「自分のためにつくってくれている」と勘違いし、そのお礼にお金を払う。客にとって、お金を払うことが愛の表現である。金の切れ目が縁の切れ目。あるいは金さえ払ってもらえればそれでいい。
うーん、そうなのかなあ。そうであるなら、まあ、包丁のシーンも料理の映像も、「ストーリー」としては「完璧」なのだが、完璧すぎて味気ない。そんな手の込んだ嘘をわざわざ映画で見たいとは思わないなあ。
ということで、その「わからないストーリー」はなかったことにして映画を思い出してみると、おもしろいところはたくさんある。
阿部サダヲが浮気(?)をして帰ってくる。松たか子が「服、どこで洗ったの?」と問い詰めるところから始まるシーンがとてもおもしろい。女からもらった金を見つけ、どうやって手に入れたかを推測する。そして風呂場で阿部サダヲをいじめる。阿部サダヲがどうやって女をだましたか(だましたわけじゃないんだけれどね、--というところが大切)、女は何にだまされるか、というか、何にこころを動かし、自分のもっているものを男にささげる気持ちになるか、ということを考えはじめる。男の手口の発見ではなく、女の「弱み」の発見である。ここから松たか子の暴走が始まる。女の弱みをじっくり見つめ、その弱みをつけ、と阿部サダヲをけしかける。阿部サダヲは松たか子にあやつられるようにして結婚詐欺をする。
それを繰り返しているうちに、まあ、阿部サダヲは松たか子のなかに生きている女の悲しさと冷たさを発見し、そこから逃げていくということなのだが。
うーん、どういえばいいのだろう。
私はもともと松たか子という女優が好きになれなくて、偏見がまじっているかもしれないが、最後まで納得ができない。共感できる部分がない。思わず引き込まれていく部分がない。どんな悪役だって、あ、こんなふうに生きてしまえば快感があるかもしれないと思うものである。たとえば「冷たい熱帯魚」のでんでんのやったばらばら殺人鬼(?)。そんなことは現実にできるはずがないのだが、見ながら「あちゃー、これやってみたい」という体が引き込まれていくのである。そういう瞬間が松たか子の演技にはない。オナニーシーンもあるのだが、したくてしている感じがしない。まあ、したくてしているのではなく、無意味にしていることなのかもしれないし、そういう無意味さをねらっているシーンなのかもしれないけれど、そうなるとやっぱり引き込まれない。「見てしまった」という罪の快感がない。(風呂場で松たか子が阿部サダヲをいじめるシーンだけは「見てしまった」という快感がある。)
これは、映画としておかしいと思う。
ではなぜ★4個かというと。そうだねえ、女は女に対してこんなに冷たくなれるのか、ということをしっかり描いているからかなあ。共感はできないけれど、まあ、驚く。松たか子から(私はもともと嫌いだから、そうだろうなあ、と思ってしまうのだが)、こういう「冷たい情熱」をしっかり引き出す西川美和の不気味さに実は★5個なのだが。
もし寺島しのぶが松たか子の役をやったらどうなるだろう。どこかでかわいらしい人間性がでるのではないだろうか。風呂場のいじめシーンも、女の悲しさがもっと出るかもしれない。けれど、そうなってしまうと映画はまったく違ったものになってしまうだろう。
うーん。
私のなかでは、まだ、整理がつかず、ことばがごちゃごちゃうごめいている。映画の途中で、隣の男が出て行ってしまったが、そうだなあ、そういう見方がこの映画にはいちばんいいのかもしれない。ちょっと見て、こんな映画か、と思って出て行ってしまう。結末(ストーリー)なんかはどうでもいい。こんな女がいるんだ、そうわかればいいのかもしれない。私もそうすればよかったのかも。そうすれば「この映画は傑作だ。結末は見ていないんだけれど、大傑作だ」と言いふらしていたかもしれない。
この映画にはわからないことが何点かある。
ひとつはラスト近く、松たか子が阿部サダヲのいどころをつきとめ、女の家を訪ねるシーン。その台所。俎板がぬれている。洗い物が放置されている。俎板の上に包丁が放り出してある。一般の家ならありふれた光景である。だが阿部サダヲが板前であることを考えると、これはとても変である。火事のときも忘れずに持ち出した包丁。それをそのまま放り出してあるのはなぜ? 阿部サダヲが板前ではなくふつうのお父さん(ふつうの男)になったことの象徴として描いたのだろうか。たしかにそのあとちょっとした事件が起き、そこで阿部サダヲがとる態度はそれまでの結婚詐欺師の男の態度ではなく、子どもの将来を思うふつうのお父さんの態度である。結婚詐欺につかれてしまい、ふつうの男に戻った、というのならそれはそれで「意味」が通るのだけれど、うーん。包丁一本の描写で「改心」を表現するのはかなり強引な感じがする。
もうひとつ。料理がおいしそうに見えない。料理の話ではなく結婚詐欺の話なのだから料理はおいしそうに見えなくてもいいのかもしれない。見えたらまずいのかもしれない。でもねえ。「食べる」というのは人間の基本的なこと。おいしい料理をつくることに情熱をもっていた男のつくるものが、一瞬でも「あ、おいしそう」「あ、あの作り方美しいなあ」「しあわせって、ここにあるんだなあ」という感じがしないとなあ。(是枝監督の「歩いても歩いても」で樹木希林が食事を作るシーン、明るくておいしそうでしょ?)松たか子がアルバイトで働くラーメン屋のラーメンとかわりない雰囲気の映像ではまずいんじゃない?
いや、これは「わざと」そうしているのかな? 「外食」の料理というのはしょせん愛情とは無関係。一種の「見栄」。料理をつくる人と食べる人のあいだに「愛」は存在しない。板前と客のあいだには愛は存在しない。そういうことかな?
結婚詐欺の仕事(?)は、ある意味で、「外食」の料理を食べる人と客の関係。客は「自分のためにつくってくれている」と勘違いし、そのお礼にお金を払う。客にとって、お金を払うことが愛の表現である。金の切れ目が縁の切れ目。あるいは金さえ払ってもらえればそれでいい。
うーん、そうなのかなあ。そうであるなら、まあ、包丁のシーンも料理の映像も、「ストーリー」としては「完璧」なのだが、完璧すぎて味気ない。そんな手の込んだ嘘をわざわざ映画で見たいとは思わないなあ。
ということで、その「わからないストーリー」はなかったことにして映画を思い出してみると、おもしろいところはたくさんある。
阿部サダヲが浮気(?)をして帰ってくる。松たか子が「服、どこで洗ったの?」と問い詰めるところから始まるシーンがとてもおもしろい。女からもらった金を見つけ、どうやって手に入れたかを推測する。そして風呂場で阿部サダヲをいじめる。阿部サダヲがどうやって女をだましたか(だましたわけじゃないんだけれどね、--というところが大切)、女は何にだまされるか、というか、何にこころを動かし、自分のもっているものを男にささげる気持ちになるか、ということを考えはじめる。男の手口の発見ではなく、女の「弱み」の発見である。ここから松たか子の暴走が始まる。女の弱みをじっくり見つめ、その弱みをつけ、と阿部サダヲをけしかける。阿部サダヲは松たか子にあやつられるようにして結婚詐欺をする。
それを繰り返しているうちに、まあ、阿部サダヲは松たか子のなかに生きている女の悲しさと冷たさを発見し、そこから逃げていくということなのだが。
うーん、どういえばいいのだろう。
私はもともと松たか子という女優が好きになれなくて、偏見がまじっているかもしれないが、最後まで納得ができない。共感できる部分がない。思わず引き込まれていく部分がない。どんな悪役だって、あ、こんなふうに生きてしまえば快感があるかもしれないと思うものである。たとえば「冷たい熱帯魚」のでんでんのやったばらばら殺人鬼(?)。そんなことは現実にできるはずがないのだが、見ながら「あちゃー、これやってみたい」という体が引き込まれていくのである。そういう瞬間が松たか子の演技にはない。オナニーシーンもあるのだが、したくてしている感じがしない。まあ、したくてしているのではなく、無意味にしていることなのかもしれないし、そういう無意味さをねらっているシーンなのかもしれないけれど、そうなるとやっぱり引き込まれない。「見てしまった」という罪の快感がない。(風呂場で松たか子が阿部サダヲをいじめるシーンだけは「見てしまった」という快感がある。)
これは、映画としておかしいと思う。
ではなぜ★4個かというと。そうだねえ、女は女に対してこんなに冷たくなれるのか、ということをしっかり描いているからかなあ。共感はできないけれど、まあ、驚く。松たか子から(私はもともと嫌いだから、そうだろうなあ、と思ってしまうのだが)、こういう「冷たい情熱」をしっかり引き出す西川美和の不気味さに実は★5個なのだが。
もし寺島しのぶが松たか子の役をやったらどうなるだろう。どこかでかわいらしい人間性がでるのではないだろうか。風呂場のいじめシーンも、女の悲しさがもっと出るかもしれない。けれど、そうなってしまうと映画はまったく違ったものになってしまうだろう。
うーん。
私のなかでは、まだ、整理がつかず、ことばがごちゃごちゃうごめいている。映画の途中で、隣の男が出て行ってしまったが、そうだなあ、そういう見方がこの映画にはいちばんいいのかもしれない。ちょっと見て、こんな映画か、と思って出て行ってしまう。結末(ストーリー)なんかはどうでもいい。こんな女がいるんだ、そうわかればいいのかもしれない。私もそうすればよかったのかも。そうすれば「この映画は傑作だ。結末は見ていないんだけれど、大傑作だ」と言いふらしていたかもしれない。
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