松尾真由美『松尾真由美詩集』(現代詩文庫195 )(思潮社、2012年08月31日発行)
松尾真由美のことばは「散文的」ではない。散文形式で書かれた『燭花』を読むとそのことが鮮明にわかる。
「散文」というのは書いた「事実」を踏まえながら突き進むことばの運動である。その「事実」というのは「もの」であるよりも「もの」をそこに定着させる論理である。したがって「散文」は「論理的」に運動する。
松尾のことばは「論理的」ではない。なぜ論理的ではないかというと、「主語」と「述語」の関係があいまいだからである。
ここまでをとりあえずひとつの「文」として読んでみる。「主語」は? 「私」?
そうであるなら、
ということになるのだろうか。
そうであるなら、そのつづきはどうなるだろう。
「猶予のない留保」は突然挿入された異質な文体である。ここはそのまま「留保」しておく。そのあとに、問題が起きる。
「はなたれた情動は予兆の雫となり」という「文」のなかには「なり(なる)」という動詞があるが、いままでのように「私は」という主語を挿入できない。「情動は」という主語があるからだ。しかし、そのつぎの文には「私は」という主語を挿入できる。そうすると、
と私はとりあえず書いてみたのだが、この「私は」は実は「私は」ではないかもしれないという疑問もわいてくる。
であるかもしれない。そして、実際に、そうなのだと思う。つまり「私は」は「情動は」なのである。「私=情動」が松尾のことばの運動のすべてなのである。
そう思って読むと、
これは、どうなるだろう。私は、あえてこの部分を「行分け」スタイルでいま書いているのだが、この行に「私は」あるいは「情動は」はどう補うことができるか。
この「私は」と「情動は」は入れ替えが可能であるだけではなく、実は区別してはいけないものである。
そうしてみると、ここにあるのは「反復」なのである。先へ進む「論理」ではなく、ここにとどまる「反復」。「反復」の幅を広げ、さらに「反復」の主語を複数に書き換えることで世界を重層化している。
こうやって読み直すと、いったい何が書いてあったのか、よくわからない。「論理的に」そこに書いてあったことを把握できたかどうかよくわからない。まあ、それはわからなくていいのである。つまり松尾は「論理」など書いていないからである。「情動」の、しかも「動」を書いている。
「やわらかな」「静寂」「よそおう」「ただよう」「つめたい」など、「情」にすぐにむすびつくことばを次々に繰り出しながら、その「情」を深く深く問い詰めていくのではなく、どこへ動くかわからない動きそのものに変えていく。
と松尾は書くのだが、それは「私は(つまり情動は)」猶予のない留保ということでもある。どこへも動かないがゆえに「留保」に見えるが、実は「いま/ここ」で動きつづけている。
そのはてしない動きそのものを松尾は書きたいのである。
もし松尾の詩で何かわからないところに出合ったら、そこに「情動である私は」ということばを「形式主語」として補ってみるといい。それは「猶予のない留保」でありながら、同時に「猶予のある留保」であることがわかる。松尾は「情動」が先へ進むのではとなく、「いま/ここ」に立ち止まることを許している。受け入れている。立ち止まることこそ「私」である唯一の根拠であると信じているように思える。
この不思議な「留保」は散文形式で書かれたときよりも、
という具合に行わけで書かれた方が「留保」であることがわかりやすい。繰り返しであることがわかりやすい。1行目より2行目が長い。そうすると、そこにそれだけ「動き」が深化したような錯覚(?)を引き起こす。その行が短くなっていくときは「情」から現実の方へ(だれでもが理解できる「客観」の方へ)浮かび上がってくる印象が生まれる。「情動」の動きが深くなったり浅くなったりしている感じが出てくる。それが『密約』移行の松尾のスタイルになる。詩のなの部分が逆三角形の形をとっているのは、そのためである。
松尾真由美のことばは「散文的」ではない。散文形式で書かれた『燭花』を読むとそのことが鮮明にわかる。
やわらかな静寂をよそおう空隙にかこまれ 周縁にただ
ようつめたい吐息をたどり 稀薄な修辞のざわめきをは
かり 浅瀬にたたずむ渇きに気づく 猶予のない留保
孵化と蘇生をねがいあらたな狭窄にうながされ はなた
れた情動の予兆の雫となり すでにやさしい深淵に沈み
はじめる ふくらむ残滓のなかでさぐる言葉の核 水に
まぎれる水ではなく水にあらがう水でできた言葉の枕
流されるもの 瞬間の捕縛はたしかに在って 私は水の
領域でささやかな刻印を記していた
「散文」というのは書いた「事実」を踏まえながら突き進むことばの運動である。その「事実」というのは「もの」であるよりも「もの」をそこに定着させる論理である。したがって「散文」は「論理的」に運動する。
松尾のことばは「論理的」ではない。なぜ論理的ではないかというと、「主語」と「述語」の関係があいまいだからである。
やわらかな静寂をよそおう空隙にかこまれ 周縁にただようつめたい吐息をたどり 稀薄な修辞のざわめきをはかり 浅瀬にたたずむ渇きに気づく
ここまでをとりあえずひとつの「文」として読んでみる。「主語」は? 「私」?
そうであるなら、
やわらかな静寂をよそおう空隙に「私は」かこまれ 周縁にただようつめたい吐息を「私は」たどり 稀薄な修辞のざわめきを「私は」はかり 浅瀬にたたずむ渇きに「私は」気づく
ということになるのだろうか。
そうであるなら、そのつづきはどうなるだろう。
猶予のない留保 孵化と蘇生をねがいあらたな狭窄に「私は」うながされ はなたれた情動は予兆の雫となり すでにやさしい深淵に「私は」沈みはじめる
「猶予のない留保」は突然挿入された異質な文体である。ここはそのまま「留保」しておく。そのあとに、問題が起きる。
「はなたれた情動は予兆の雫となり」という「文」のなかには「なり(なる)」という動詞があるが、いままでのように「私は」という主語を挿入できない。「情動は」という主語があるからだ。しかし、そのつぎの文には「私は」という主語を挿入できる。そうすると、
すでにやさしい深淵に「私は」沈みはじめる
と私はとりあえず書いてみたのだが、この「私は」は実は「私は」ではないかもしれないという疑問もわいてくる。
すでにやさしい深淵に「情動は」沈みはじめる
であるかもしれない。そして、実際に、そうなのだと思う。つまり「私は」は「情動は」なのである。「私=情動」が松尾のことばの運動のすべてなのである。
そう思って読むと、
ふくらむ残滓のなかでさぐる言葉の核
水にまぎれる水ではなく水にあらがう水でできた言葉の枕
これは、どうなるだろう。私は、あえてこの部分を「行分け」スタイルでいま書いているのだが、この行に「私は」あるいは「情動は」はどう補うことができるか。
「私は」ふくらむ残滓のなかでさぐる言葉の核「である」
「情動は」水にまぎれる水ではなく水にあらがう水でできた言葉の枕「である」
この「私は」と「情動は」は入れ替えが可能であるだけではなく、実は区別してはいけないものである。
「私である情動は」ふくらむ残滓のなかでさぐる言葉の核「である」
「情動である私は」水にまぎれる水ではなく水にあらがう水でできた言葉の枕「である」
そうしてみると、ここにあるのは「反復」なのである。先へ進む「論理」ではなく、ここにとどまる「反復」。「反復」の幅を広げ、さらに「反復」の主語を複数に書き換えることで世界を重層化している。
流されるもの「それは情動であり」
瞬間の「情動に対する」捕縛はたしかに在って
私は「つまり情動は」水の領域でささやかな刻印を「私を、つまり情動を」記していた
こうやって読み直すと、いったい何が書いてあったのか、よくわからない。「論理的に」そこに書いてあったことを把握できたかどうかよくわからない。まあ、それはわからなくていいのである。つまり松尾は「論理」など書いていないからである。「情動」の、しかも「動」を書いている。
「やわらかな」「静寂」「よそおう」「ただよう」「つめたい」など、「情」にすぐにむすびつくことばを次々に繰り出しながら、その「情」を深く深く問い詰めていくのではなく、どこへ動くかわからない動きそのものに変えていく。
猶予のない留保
と松尾は書くのだが、それは「私は(つまり情動は)」猶予のない留保ということでもある。どこへも動かないがゆえに「留保」に見えるが、実は「いま/ここ」で動きつづけている。
そのはてしない動きそのものを松尾は書きたいのである。
もし松尾の詩で何かわからないところに出合ったら、そこに「情動である私は」ということばを「形式主語」として補ってみるといい。それは「猶予のない留保」でありながら、同時に「猶予のある留保」であることがわかる。松尾は「情動」が先へ進むのではとなく、「いま/ここ」に立ち止まることを許している。受け入れている。立ち止まることこそ「私」である唯一の根拠であると信じているように思える。
この不思議な「留保」は散文形式で書かれたときよりも、
ふくらむ残滓のなかでさぐる言葉の核
水にまぎれる水ではなく水にあらがう水でできた言葉の枕
という具合に行わけで書かれた方が「留保」であることがわかりやすい。繰り返しであることがわかりやすい。1行目より2行目が長い。そうすると、そこにそれだけ「動き」が深化したような錯覚(?)を引き起こす。その行が短くなっていくときは「情」から現実の方へ(だれでもが理解できる「客観」の方へ)浮かび上がってくる印象が生まれる。「情動」の動きが深くなったり浅くなったりしている感じが出てくる。それが『密約』移行の松尾のスタイルになる。詩のなの部分が逆三角形の形をとっているのは、そのためである。
松尾真由美詩集 (現代詩文庫) | |
松尾 真由美 | |
思潮社 |