松尾真由美『松尾真由美詩集』(2)(現代詩文庫195 )(思潮社、2012年08月31日発行)
きのうのつづきをちょっと強引に書いてみる。『密約』の「追記 晴れやかな不在に」。その最初の部分。
テキトウな感想を書くと、「私」はきのうの夜を思い出している。「あなた」とセックスをした。そのことを思い出している。
何がきっかけかというと坂道で小石を見つけたことである。小石をふっと拾い上げたとき、その小石のなかから「巣の夜」が聞こえた。ことばを補えば「愛の巣(部屋)の夜の声」が聞こえる気がした。なぜか。小石の「ぬくもり」が「愛の肌」のぬくもりに似ているからである。
で、その瞬間の、
これが、きのう読んだ「猶予のない留保」とぴったり重なる。「意味」は違うのだけれど、ことばの運動の「切り換え」という部分でぴったりと重なる。
「私」の外側を描写していて、そこに突然亀裂が入り、それから「私」の内側、つまり情動へとことばが動いていくきっかけとして、「独立」している。
最初の短いことばの積み重ねと、これから始まるだんだん長くなっていく詩のことばを分断しながら、同時に接続するための「留保」。これを「肉体のことば」でいいなおすと、「深呼吸」。たとえば五輪体操の内村航平の床の演技を思い出してほしい。最後のタンブリングに入る前、深呼吸して意識をととのえる。その感じ。そこでは演技がいったん「留保」されている。それまでの演技が分断され、そこから再び新しいシリーズが始まる。その「呼吸」。
こういう呼気も呼吸の形は松尾の詩に頻繁にあらわれる。それがもう肉体のリズムになってしまっていて、それをはずすとことばが思うように動かないのである。まあ、くせ、だね。
で、この1行はとても正直で「内側をなぞってみる」という表現が出てくる。小石の「内側をなぞる」というのは「肉体」ではできないね。指はどんなふうにしたって小石の内側には入っていかない。だから、ここで「内側をなぞっている」のは、つまり、その主語は「指」のような肉体ではなく、意識になる。きのう読んだ詩のことばを借りていえば「情」になる。「情」は「感性」か「理性」か、まあ、どっちでもいい。たぶん「感性」と考える方が簡単である。「感情」の「情」は「情動」の「情」である。「理情」なんてことばはたぶんないだろうからね。
で。
問題の3連目。逆三角形のように、詩の行がだんだん長くなっていって、もう一度短くなる。その動きが松尾の「情動」なのである。深くなって、一番底までいったら再び浮上する。きょうは最初の部分だけしか引用していないのだが、詩は、この深くなってまた浅くなるという行の形を何回か繰り返す。
そのとき、そこに何が書かれているか。
「あわい」「ふわふわ」「かすかに」「みだらに」「やさしい」というひらがなの「情動(これは、肉体の感覚、といった方がいいかも)と「座標」「悪意」「意図」「充溢」「応答」「無意味」というような漢語の組み合わせである。この漢語の部分を「理性」といってもいいかもしれないけれど、まあ、「情動」と「理性」をつきあわせて、そのなかでことばの肉体をいじめている。異質なものがせめぎあいながら、その衝突の奥から何かが出てくるのを待っている。まだ姿をあらわさない何か、そのことばが、きっと「情動」の核なのである。エネルギーの源泉なのである。
だから、というのは、かなり飛躍した言い方なのだが。
だから、このことばのせめぎあいに「意味」を探してもむだである。「意味」を探すのではなく、松尾が何かを探しているということをただ受け止めればいい。誰かが道に落とした何かを探している。そういう姿を見たら、その探しているものが「財布」か「携帯電話」かわからなくても、探しているということそのものはわかる。そういう感じのわかり方で、わかればいいのだ。
松尾自身が、自分の内側の情動をさぐっているのである。松尾にもわからないものが、読者がわかるわけがない。だから、わからないことをいいことに、私は「松尾はきのうの夜のセックスを思い出して、そのときに動いた感情を探している」とテキトウなことを書くのである。
「誤読」だと指摘されたら、「誤読の何が悪い」と私は開き直るだけである。「誤読」のなかには私の読みたいことがある。私は読みたいことを読むだけである。あ、脱線した。脱線したのだが……。
いま私が書いた「誤読」を松尾のことばの探し方に関連させると、松尾は積極的に「誤記(誤書)」をことばの肉体のなかに取り込んでいるように思える。
これは何かを追い詰めていく「散文」の文体ではなく(つまり「正確にことばを積み重ねることで論理を構成する」という、ことばが歩行する文体ではなく)、詩の、ことばのダンスの文体である。
ことばは先に進んでいるように見えて、実はおなじところにとどまってダンスをしている。すべての行は「言い換え」である。言い直しである。「あわい」は「ふわふわ」であり、それは「いちまい」という「かすか」なものである。そういう感覚が一方に呼応しあい、他方で「座右」と「悪意」は(主語)「剥がれて」「翻る」(述語)。
そして、それは「焦慮」(主語)のように「引きつる」(述語)。--と単純に言えればいいのだけれど、松尾は「引きつる焦慮のように」と「引きつる」を「述語」にしていない。主語と述語の関係がねじれている。
ここが、まあ、おもしろいところである。「散文」ではなく「詩」であるゆえん。「意味」にならずに、踏みとどまり、「意味」を内側から突き崩していくから「詩」というのかもしれない。
詩は散文と違って先へ先へと論理を進めることばの運動ではないので、加速して先へ進みそうになると防衛本能(?)のようなものが働いて、「誤記(誤書)」を誘う。
「誤読」にしろ「誤記(誤書)にしろ、それは「理性」がすることではなく、本能がすることである。理由なんか、わからない。ただ、こっちのほうが「正しい」、そういうふうに「読みたい(書きたい)」という力が肉体のなかから働いて、そうしてしまう。
それを好きになるか、嫌いになるか。
そこに詩の感想の違いが生まれてくる。
きのうのつづきをちょっと強引に書いてみる。『密約』の「追記 晴れやかな不在に」。その最初の部分。
いつか
来たことのある
緩やかな坂をくだり
置き去りにした小石の
真昼の耳鳴りを
ひろいあつめ
ぎこちなく
あふれる
巣の夜を聴く
そうしてぬくもりが残るこの半円の内側をなぞってみる
にわかに
猥雑な水は流れ
疑わしいものとて
あわい座右がたゆたう
ふわふわと剥がれていく
いちまいの紙の悪意は翻り
かすかに引きつる焦慮のように
したしい身振りであなたを求める
いつも不慣れな素足の意図をからめ
沈みこんだ枠の姿の充溢へとあらたに向かい
私はみだらに躯をひらきやさしい応答を待っている
砂塵にまみれた無意味な生物となり聴覚を研ぎすまし
ここではあつい抱擁の余韻を楽しむことができる
つめたく自堕落な接触の一画を拡げてもいる
くちづけをしたあとの暗がりの強度に迷い
だれもが密室ではぐくむ架空の荒廃を
なにかに埋めてしまっても
私にかたちを与える
あなたのあいまいな綻びに
まるで恋しい死者達の眼差しの
さざめく痛覚を想っていた
テキトウな感想を書くと、「私」はきのうの夜を思い出している。「あなた」とセックスをした。そのことを思い出している。
何がきっかけかというと坂道で小石を見つけたことである。小石をふっと拾い上げたとき、その小石のなかから「巣の夜」が聞こえた。ことばを補えば「愛の巣(部屋)の夜の声」が聞こえる気がした。なぜか。小石の「ぬくもり」が「愛の肌」のぬくもりに似ているからである。
で、その瞬間の、
そうしてぬくもりが残るこの半円の内側をなぞってみる
これが、きのう読んだ「猶予のない留保」とぴったり重なる。「意味」は違うのだけれど、ことばの運動の「切り換え」という部分でぴったりと重なる。
「私」の外側を描写していて、そこに突然亀裂が入り、それから「私」の内側、つまり情動へとことばが動いていくきっかけとして、「独立」している。
最初の短いことばの積み重ねと、これから始まるだんだん長くなっていく詩のことばを分断しながら、同時に接続するための「留保」。これを「肉体のことば」でいいなおすと、「深呼吸」。たとえば五輪体操の内村航平の床の演技を思い出してほしい。最後のタンブリングに入る前、深呼吸して意識をととのえる。その感じ。そこでは演技がいったん「留保」されている。それまでの演技が分断され、そこから再び新しいシリーズが始まる。その「呼吸」。
こういう呼気も呼吸の形は松尾の詩に頻繁にあらわれる。それがもう肉体のリズムになってしまっていて、それをはずすとことばが思うように動かないのである。まあ、くせ、だね。
で、この1行はとても正直で「内側をなぞってみる」という表現が出てくる。小石の「内側をなぞる」というのは「肉体」ではできないね。指はどんなふうにしたって小石の内側には入っていかない。だから、ここで「内側をなぞっている」のは、つまり、その主語は「指」のような肉体ではなく、意識になる。きのう読んだ詩のことばを借りていえば「情」になる。「情」は「感性」か「理性」か、まあ、どっちでもいい。たぶん「感性」と考える方が簡単である。「感情」の「情」は「情動」の「情」である。「理情」なんてことばはたぶんないだろうからね。
で。
問題の3連目。逆三角形のように、詩の行がだんだん長くなっていって、もう一度短くなる。その動きが松尾の「情動」なのである。深くなって、一番底までいったら再び浮上する。きょうは最初の部分だけしか引用していないのだが、詩は、この深くなってまた浅くなるという行の形を何回か繰り返す。
そのとき、そこに何が書かれているか。
「あわい」「ふわふわ」「かすかに」「みだらに」「やさしい」というひらがなの「情動(これは、肉体の感覚、といった方がいいかも)と「座標」「悪意」「意図」「充溢」「応答」「無意味」というような漢語の組み合わせである。この漢語の部分を「理性」といってもいいかもしれないけれど、まあ、「情動」と「理性」をつきあわせて、そのなかでことばの肉体をいじめている。異質なものがせめぎあいながら、その衝突の奥から何かが出てくるのを待っている。まだ姿をあらわさない何か、そのことばが、きっと「情動」の核なのである。エネルギーの源泉なのである。
だから、というのは、かなり飛躍した言い方なのだが。
だから、このことばのせめぎあいに「意味」を探してもむだである。「意味」を探すのではなく、松尾が何かを探しているということをただ受け止めればいい。誰かが道に落とした何かを探している。そういう姿を見たら、その探しているものが「財布」か「携帯電話」かわからなくても、探しているということそのものはわかる。そういう感じのわかり方で、わかればいいのだ。
松尾自身が、自分の内側の情動をさぐっているのである。松尾にもわからないものが、読者がわかるわけがない。だから、わからないことをいいことに、私は「松尾はきのうの夜のセックスを思い出して、そのときに動いた感情を探している」とテキトウなことを書くのである。
「誤読」だと指摘されたら、「誤読の何が悪い」と私は開き直るだけである。「誤読」のなかには私の読みたいことがある。私は読みたいことを読むだけである。あ、脱線した。脱線したのだが……。
いま私が書いた「誤読」を松尾のことばの探し方に関連させると、松尾は積極的に「誤記(誤書)」をことばの肉体のなかに取り込んでいるように思える。
あわい座右がたゆたう
ふわふわと剥がれていく
いちまいの紙の悪意は翻り
かすかに引きつる焦慮のように
これは何かを追い詰めていく「散文」の文体ではなく(つまり「正確にことばを積み重ねることで論理を構成する」という、ことばが歩行する文体ではなく)、詩の、ことばのダンスの文体である。
ことばは先に進んでいるように見えて、実はおなじところにとどまってダンスをしている。すべての行は「言い換え」である。言い直しである。「あわい」は「ふわふわ」であり、それは「いちまい」という「かすか」なものである。そういう感覚が一方に呼応しあい、他方で「座右」と「悪意」は(主語)「剥がれて」「翻る」(述語)。
そして、それは「焦慮」(主語)のように「引きつる」(述語)。--と単純に言えればいいのだけれど、松尾は「引きつる焦慮のように」と「引きつる」を「述語」にしていない。主語と述語の関係がねじれている。
ここが、まあ、おもしろいところである。「散文」ではなく「詩」であるゆえん。「意味」にならずに、踏みとどまり、「意味」を内側から突き崩していくから「詩」というのかもしれない。
詩は散文と違って先へ先へと論理を進めることばの運動ではないので、加速して先へ進みそうになると防衛本能(?)のようなものが働いて、「誤記(誤書)」を誘う。
「誤読」にしろ「誤記(誤書)にしろ、それは「理性」がすることではなく、本能がすることである。理由なんか、わからない。ただ、こっちのほうが「正しい」、そういうふうに「読みたい(書きたい)」という力が肉体のなかから働いて、そうしてしまう。
それを好きになるか、嫌いになるか。
そこに詩の感想の違いが生まれてくる。
睡濫 | |
松尾 真由美 | |
思潮社 |