坂多瑩子「なつのゆうぐれどき」(「4B」4、2012年09月20日発行)
ことばは「気分」で動く。きのうの井上瑞貴は「気がする」とていねいに語っていたが、だれでも「気がする」のだから、そんなことは気にしないで書いてしまえばいいのだと思う。「気がする」という「理由(donc)」は取り払って、なぜ、そんな気がするかって聞かれたって困るよ、聞かないのが約束だろう? そう言ってしまえばいいのだと思う。で、それはどういうことかというと……。(あ、私は、わりと律儀に「論理」を追いかけているね。)
坂多瑩子「なつのゆうぐれどき」の前半。
道路を渡りはじめたアオダイショウ。その「運命」はどうでもいいことなのだけれど、そういうどうでもいいことにも「気持ち」は動いてしまう。そんなところでアオダイショウを見る「予定」はなかったから、「気持ち」は動いてしまう。「予定」とはあらかじめ「管理」している自分の行動だね。その「管理」の鍵がふいにゆるむのだ。でも、人間だから、鍵がゆるんだとしても、そこに人間がでてきてしまう。
「寝不足など知らない目をして」。あ、そうなんだ、坂多は「気持ち」のどこかに「寝不足」をかかえている。ロンドン五輪をテレビでみていたせいかな? まあ、どうでもいいけれど、「気持ち」はいつでもついてまわる。
「舗装道路には似合わない」。このことばの「気持ち」はどうつながっているかな? わからない。わからないけれど、私は太宰の「富士には月見草が似合う」という変なことばを思い出してしまう。こういうことばは先に言った方が勝ち、みたいなところがある。「似合う」ということばは、そんな具合にはつかわない。富士山のような人間ではないものに対してはつかわない。でも、そういう新しいつかいかたをすると、「似合う」ということばのつかい方が決まってしまう。坂多瑩子に月見草が似合う、坂多瑩子にアオダイショウは似合わない--では、「似合う」ということばのつかい方が正しすぎて、逆に間違っているという印象さえ呼び起こしてしまう。想像もしなかった(だれも言わなかった)ことばを結びつけて「似合う/似合わない」をつかわないと、正しいつかい方とはいえないのだ、という感じだね。
で、坂多は「(アオダイショウは)舗装道路には似合わない」。これは太宰のことばをしってしまったあとでは驚きでもなんでもないけれど、まあ、それでいい。何がそれでいいのかというと。
そこから徐々にずれていくのに、というか、まあ、「気持ち」の世界へはいっていくのに、それくらいの違和感がちょうどいい。ずれていく、というのは、ここから、その「似合わない」と書いた気持ちから、気持ちがアオダイショウにうつっていく。
(似合う、似合わないということをわざわざ書くのは、相手に対して「気持ち」がうつったからだ。気にしていない人が何を着ていても、それが似合う、似合わないは気になるけれど、好きな人が新しい服を着ていたら似合う、似合わないが気になるでしょ?)
で、車に轢かれたら、どうする? なんて心配をしたあと
この間合い(気持ちの広がりの幅)がおもしろいなあ。
アオダイショウの死骸なんかに触れたくない。それが「よけて」通る。肉体は「よけて」いる。「気持ち」も半分「よけて」いる。でも、「よけて」ということが可能なのは、目が「よけて」いないからだね。そうすると、そのとき坂多の肉体のなかでは、「よける」と「よけない」が入り混じっていることになる。それでも坂多は、そのいりまじったもののなからか、いちばん適切な(?)ものを選んで自分自身を動かしていく。それが、まあ「管理」だね。
そう思いながら、「ほら、そこの君、アオダイショウ君、君はそういう自己管理ができなくなって、死んでしまうとこになるんだよ」と呼びかけてしまう。
で、私も坂多に言いたくなる。「本気で気にしてるの?」
さて、どう答える?
私の現代詩講座なら、ここで読者に質問する。
私の質問は意地悪でしょ?
で、私の答え(?)はというと。
「本気じゃないけれど、つまり自分の仕事のこととか暮らしのこととかを考えるような気持ちとは同じものではないけれど、そのとき気持ちはほんとうにそんな具合に動いた。どんな気持ちでも、その気持ちが動いているときは、そのなかに本気がある。本気というのは気持ちの大小ではなく、どんなささいなことでもそれを思ったときには、それしか思えないということ。」
つまり、そう思っている瞬間、坂多はいつもの坂多ではなく、変な人間(?)になっている。そしてそれは、傍から見てもわかるくらい変なのだ。この詩を読んで、坂多って蛇にまで真剣に気持ちを動かすの? をわーっ、変なおばさん、って思うでしょ? これは「正しい反応」ですよ。だって、ほら、詩はこんなふうにつづく。
道路のアオダイショウに感情移入してしまったおばさんって、変です。そういう変な人には「なにか御用ですか」くらいの絶対的な質問がいい。
いやあ、いい呼吸だなあ、と思う。
「なにか御用ですか」と言ったのは、絶対におばさんだな。おじさん(男)や子どもはこんな声のかけ方をしらない。「気持ち」のぶっ飛んでいる人に対する声のかけ方をしらない。おばさんパワー(?)は、すごいなあ、と私はただただ感心してしまう。
で、ふいに、「気持ち」がもどってくる。我にかえる。そして「なんでもありません」か。いやあ、これだってすごいよね。
「気持ち」がびゅんびゅん飛び回る。このスピード。「donc(ゆえに)」なんてことばがないと飛躍できないおじさん(秋亜綺羅)には書けないね。
で、傑作は。
我にかえりながら、いったんアオダイショウに「気持ち」がうつってしまったので、「なんでもありません」と答えたくせに、戻ってくるときに方向を間違えることかなあ。それくらい「真剣」に気持ちが移っていた。「本気じゃないけれど、本気じゃないことでも思っているときは、それしか思わない」ので、どうしたって「間違えて」しまう。
で、最後は坂多瑩子はアオダイショウになってしまって、安全な野原へ帰って行きます。
私を見つめていたおばさん、車にはねられずにちゃんと家に帰られたかな、と心配しているアオダイショウがいる。
いいなあ、この非論理の論理、ナンセンスのセンス--じゃなくて、意味の無意味かな?
ことばは「気分」で動く。きのうの井上瑞貴は「気がする」とていねいに語っていたが、だれでも「気がする」のだから、そんなことは気にしないで書いてしまえばいいのだと思う。「気がする」という「理由(donc)」は取り払って、なぜ、そんな気がするかって聞かれたって困るよ、聞かないのが約束だろう? そう言ってしまえばいいのだと思う。で、それはどういうことかというと……。(あ、私は、わりと律儀に「論理」を追いかけているね。)
坂多瑩子「なつのゆうぐれどき」の前半。
アオダイショウだ
黒くてまるい目をしていて
寝不足など知らない目をしていて
からだはブルーグレイ
舗装道路には似合わない
まっすぐ道路を渡りはじめた
自動車がきたらどうする
前と後ろでタイヤが微妙にずれて
茶色い染みができて
そのうちひからびて雨ふって その前に蟻がきて
あたしはよけて通るけど
あんたは自分の管理ができなくなるんだよ
道路を渡りはじめたアオダイショウ。その「運命」はどうでもいいことなのだけれど、そういうどうでもいいことにも「気持ち」は動いてしまう。そんなところでアオダイショウを見る「予定」はなかったから、「気持ち」は動いてしまう。「予定」とはあらかじめ「管理」している自分の行動だね。その「管理」の鍵がふいにゆるむのだ。でも、人間だから、鍵がゆるんだとしても、そこに人間がでてきてしまう。
「寝不足など知らない目をして」。あ、そうなんだ、坂多は「気持ち」のどこかに「寝不足」をかかえている。ロンドン五輪をテレビでみていたせいかな? まあ、どうでもいいけれど、「気持ち」はいつでもついてまわる。
「舗装道路には似合わない」。このことばの「気持ち」はどうつながっているかな? わからない。わからないけれど、私は太宰の「富士には月見草が似合う」という変なことばを思い出してしまう。こういうことばは先に言った方が勝ち、みたいなところがある。「似合う」ということばは、そんな具合にはつかわない。富士山のような人間ではないものに対してはつかわない。でも、そういう新しいつかいかたをすると、「似合う」ということばのつかい方が決まってしまう。坂多瑩子に月見草が似合う、坂多瑩子にアオダイショウは似合わない--では、「似合う」ということばのつかい方が正しすぎて、逆に間違っているという印象さえ呼び起こしてしまう。想像もしなかった(だれも言わなかった)ことばを結びつけて「似合う/似合わない」をつかわないと、正しいつかい方とはいえないのだ、という感じだね。
で、坂多は「(アオダイショウは)舗装道路には似合わない」。これは太宰のことばをしってしまったあとでは驚きでもなんでもないけれど、まあ、それでいい。何がそれでいいのかというと。
そこから徐々にずれていくのに、というか、まあ、「気持ち」の世界へはいっていくのに、それくらいの違和感がちょうどいい。ずれていく、というのは、ここから、その「似合わない」と書いた気持ちから、気持ちがアオダイショウにうつっていく。
(似合う、似合わないということをわざわざ書くのは、相手に対して「気持ち」がうつったからだ。気にしていない人が何を着ていても、それが似合う、似合わないは気になるけれど、好きな人が新しい服を着ていたら似合う、似合わないが気になるでしょ?)
で、車に轢かれたら、どうする? なんて心配をしたあと
あたしはよけて通るけど
あんたは自分の管理ができなくなるんだよ
この間合い(気持ちの広がりの幅)がおもしろいなあ。
アオダイショウの死骸なんかに触れたくない。それが「よけて」通る。肉体は「よけて」いる。「気持ち」も半分「よけて」いる。でも、「よけて」ということが可能なのは、目が「よけて」いないからだね。そうすると、そのとき坂多の肉体のなかでは、「よける」と「よけない」が入り混じっていることになる。それでも坂多は、そのいりまじったもののなからか、いちばん適切な(?)ものを選んで自分自身を動かしていく。それが、まあ「管理」だね。
そう思いながら、「ほら、そこの君、アオダイショウ君、君はそういう自己管理ができなくなって、死んでしまうとこになるんだよ」と呼びかけてしまう。
で、私も坂多に言いたくなる。「本気で気にしてるの?」
さて、どう答える?
私の現代詩講座なら、ここで読者に質問する。
あなたが坂多瑩子だとしたら、あなたは本気でアオダイショウのことを気にしている? それとも、そう言ってみただけ?
私の質問は意地悪でしょ?
で、私の答え(?)はというと。
「本気じゃないけれど、つまり自分の仕事のこととか暮らしのこととかを考えるような気持ちとは同じものではないけれど、そのとき気持ちはほんとうにそんな具合に動いた。どんな気持ちでも、その気持ちが動いているときは、そのなかに本気がある。本気というのは気持ちの大小ではなく、どんなささいなことでもそれを思ったときには、それしか思えないということ。」
つまり、そう思っている瞬間、坂多はいつもの坂多ではなく、変な人間(?)になっている。そしてそれは、傍から見てもわかるくらい変なのだ。この詩を読んで、坂多って蛇にまで真剣に気持ちを動かすの? をわーっ、変なおばさん、って思うでしょ? これは「正しい反応」ですよ。だって、ほら、詩はこんなふうにつづく。
あたしはよけて通るけど
あんたは自分の管理ができなくなるんだよ
そういってやったら
向かいの家のガラス戸があいた
なにか御用ですか
あっ ほらアオダイショウ とはいえなくて
なんでもありません
大きな声でいったのに
きょろきょろしている
道路のアオダイショウに感情移入してしまったおばさんって、変です。そういう変な人には「なにか御用ですか」くらいの絶対的な質問がいい。
いやあ、いい呼吸だなあ、と思う。
「なにか御用ですか」と言ったのは、絶対におばさんだな。おじさん(男)や子どもはこんな声のかけ方をしらない。「気持ち」のぶっ飛んでいる人に対する声のかけ方をしらない。おばさんパワー(?)は、すごいなあ、と私はただただ感心してしまう。
で、ふいに、「気持ち」がもどってくる。我にかえる。そして「なんでもありません」か。いやあ、これだってすごいよね。
「気持ち」がびゅんびゅん飛び回る。このスピード。「donc(ゆえに)」なんてことばがないと飛躍できないおじさん(秋亜綺羅)には書けないね。
で、傑作は。
我にかえりながら、いったんアオダイショウに「気持ち」がうつってしまったので、「なんでもありません」と答えたくせに、戻ってくるときに方向を間違えることかなあ。それくらい「真剣」に気持ちが移っていた。「本気じゃないけれど、本気じゃないことでも思っているときは、それしか思わない」ので、どうしたって「間違えて」しまう。
で、最後は坂多瑩子はアオダイショウになってしまって、安全な野原へ帰って行きます。
まだきょろきょろしているけど
あたりが急に暗くなってきたし
風がぴったしやんだから
あたしはあきらめて
鳳仙花の根もとをすりぬけながら進む
草が腹にこすれる
見上げると
はじけた種がとんできた
私を見つめていたおばさん、車にはねられずにちゃんと家に帰られたかな、と心配しているアオダイショウがいる。
いいなあ、この非論理の論理、ナンセンスのセンス--じゃなくて、意味の無意味かな?
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