詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大江麻衣『にせもの』(2)

2012-09-08 10:25:14 | 詩集
大江麻衣『にせもの』(2)(紫陽社、2012年08月25日発行)

 やや終わりの方に「大入道の首」という詩がある。読んだことがある。「初出一覧」を見ると「現代詩手帖2012年4月号」とある。そうか、そこで読んだのか。投稿欄だったのかな? そうならなぜ大江が現代詩手帖賞をもらっていないのだ、おかしいぞ、とちょっと怒りたい気分である。とても新しいのに。ほんとうに新しいのに。
 感想も書いた記憶がある。「四日市々」という表記について書いたように覚えているが、それ以外は覚えていない。私は記憶力が弱い。同じ感想を繰り返すことになるかもしれないが、まあ、気にしない。私の「日記」の読者は、推測するに1週間に多くて10人くらいなものだから、おもしろいと思った作品については何度でも同じことを書いておこう。(読者が10人くらいだから、そのなかには、この感想は読んだと覚えている人がいるかもしれないけれど、書いた私が忘れているのだから、はじめて読む気持ちで読んでください--と、わがままを書いておく。)
 図書館の位置、最寄りの駅のことを1連目に書いてある。私は固有名詞が苦手なので、1連目の引用は省略。2連目。

昔は諏訪が中心で、市役所あたりに色があった
今は歩いているうちに景色が消えていく道である
JR付近には色が無い
ひとつの町が、少しずつのかたまりになって、離れて消えていった

 「市役所あたりに色があった」。この「色」のつかい方がおもしろい。少しつまずく。少し、というのは「色」からなんとなく華やかな感じを想像し、そうか、にぎわいは「色」なのか、と思ったりするからだ。大江がどういう気持ちで「色」ということばを書いたのかわからないが、私は、そんなふうに「誤読」する。「誤読」できるだけのふくらみをもった、豊かなことばだ。言い換えると、「流通言語」のように「経済的」ではない。余分が多い。なんというか、古い人間の「暮らし」のようなものが「色」ということばの奥にあって、それがどこからともなくやってきて、すっと私をつかまえてしまう。つかまえられて、私は「誤読」する。この瞬間が楽しい。
 で、その楽しさなのだが、これはきのうも書いたことだけれど「古い」。古くさい。というか、「流通言語」が振り捨ててきたもの、隠してきたものである。たしかに、そういう「色」というつかい方があったなあ。それはたとえば、「あの男には色がある」というようなつかい方に似ていて、うまくことばにならないけれど、何かある色を見たときにこころに入ってくる印象、その印象の力のようなもの、その力ゆえに、「あ、あの男」と思うような何かである。そういう印象の力をなぜ「色」と呼ぶのかわからないが、ね、聞いたことがあるでしょ? そのときの「古い記憶」につながる「古さ」。そして、これは「古い」のだけれど、なぜか「新しい」。「新しい」と感じさせる力がある。
 で、この力は、きっと大江の「文体」から生まれているのだが、この説明がかなりむずかしい。ややこしい。
 で、その前に、「色」の補足。「色があった」の「色」は次の行で「景色」ということばで補足されている。風景に色を感じるとき、魅力を感じるとき「景色」になるのかな? この風景はきれいだ、とはいわずに、この景色は見事だという--かどうか、断定はできないけれど、まあ、そんなつかいわけはできるかもしれない。「色」はことばではいいつくせない何らかの魅力だ。「色即是空」の「色」とも通じるのかな? 具体的な存在。具体的としか言えない「感じ」。--こういう「感じ」を振り捨ててことばを動かすと「経済的」になる。「流通言語」になる。そういうふに考えると、大江のことばは「流通言語」以前に踏みとどまり、その立ち位置に「過去」を噴出させるものだともいえるかもしれない。その「位置」に立ち止まるときの、そのふんばり方、肉体の構え方が、まあ、文体ということになるのかもしれない。
 で、そのふんばり方というか、立ち止まり方というか……。

ひとつの町が、少しずつのかたまりになって、離れて消えていった

 これは大江の文体のなかではかなり異質の、省略の多い一行である。それからまず見ておく。(わ、偉そうに書いてしまった。--そう気がついたけれど、私は40分で書きつづけるだけなので、書き直さない。)
 この一行は、にぎやかだった商店街が、一軒シャッターを降ろし、また一軒シャッターーを降ろし、そうのち更地になりという具合に、街に空き地ができ、それは別な見方をするといくつかの「かたまり」に分断され(切り離され)、やがて「離れて消えていく」という形になったということだろう。「街に空き地ができて」と私が書いたような説明が省略されている。
 なぜ、そういう説明が省略されているかというと、そこに書かれていることがらは、うまく大江の肉体に入って来ないことがらだからである。毎日、それを見ていたなら(大江がその街の住民だったら、そこが大江の暮らしの現場だったら)、きっとそういうことにはならない。そこには、なんといえばいいのか、「色」に似たことばがからみついてもっと違った文体になるはずである。
 大江のことばは大江の立ち位置(暮らしの現場)ととても密接なのだ。

「四日市々」
と書いている若い人はもう見ない
「四日市々」と書いた時代
四日市とおなじなのだから、市は々…
と大手を降って歩いていた

 「四日市々」には古い表記の「経済学」がある。合理化がある。いまは、それは消えてしまった。ことばの経済学も不思議な具合にかわるのである。かならずしも合理化一辺倒ではない。かわるときにはかならずそこに別の合理化(資本主義的経済学)が働いているのだが、まあ、そんなことはどうでもいい。ただ、大江は、そういうことを丁寧に見つめる。そのなかで起きていた「経済学」を「四日市とおなじなのだから、市は々…」と説明している。この丁寧な説明の仕方と、「ひとつの町が、少しずつのかたまりになって、離れて消えていった」はずいぶん違う。
 さっき私は、「街に空き地ができ云々」が省略されていると書いたが、その省略のかわりに「少しずつのかたまりになって」ということばが書かれている。言い換えると、大江は、私の指摘したこととは「反対」の側から「景色」を眺めている。この「反対側」というのが、もしかすると、大江の「文体の基本」かもしれない。
 ちょっと「飛躍」したね。「誤読」に加速がついてしまったね。その飛躍・加速を利用して言ってしまうと……。
 大江は原因をひとつひとつ積み上げて結果を描くという文体をとらない。過去から現在(いま)、未来へと時間を動かさない。逆なのだ。現在(いま)から過去を見る。しかもそのとき、過去を「原因」として見るのではなく、「過去」のこういうものを振り捨てて現在(いま)があるという具合に見つめる。それは、必然的に、振り捨てた古いものを「いま」に噴出させる形をとる。「古い」何か--しかも、それはずーっと肉体にからみつくようにしてあったのに、「少しずつ」、知らないうちに引き剥がされてしまったものなのである。「経済学」がじわじわと引き剥がしていったものなのである。これを、大江はなぜか、覚えている。
 覚えているものは、つかえる。そして、それをつかうとき、いやあ、不思議だねえ。思わず、「そうだ、そのとおり」と私の肉体は叫んでしまうのである。共感だね。何に共感し、その共感が何を育てていくのかわからないけれど、肉体が、あ、重なってしまったという感じ。

四日市とおなじなのだから、市は々…
と大手を降って歩いていた

 そうだねえ。なぜ「市々」と書くの? 「おなじ文字を繰り返すときは々、知らないの?」そういう「経済学」が「大手を振って歩いていた」。その説明を聞いて、ふーんと感じている大江がいる。すこし利口になったように錯覚している大江がいる。その感じを、私は肉体で感じてしまう。それは、まあ、私もそういう「博識」になるほどと思った体験があるからだね。「意味」ではなく「体験」が重なり、それがふっとあらわれてくる--その「古い新しさ」。「あらわれる」ものは何だって「新しい」のである。「あらわれる」という動きの瞬間のなかに「新しさ」がある。

やがて、市の価値を感じましょうと
「四日市市」(負けた…)
ありがたみを感じる時期になっている
図書館までの道を舐めるように歩きなさいと市が強要する
それまで、四日市、のあとに繋がる単語は
市ではなく
ぜんそく だった

 「市の価値を感じましょう」という「理由」が「四日市市」という表記の裏付けになるかどうかは知らない。でも、そういうふうなことを大江は聞いた記憶があるんだろうなあ。ことばは、自分ひとりでつかうものではないから、どうしても「経済学」に支配される。そういうことを、感じながら、大江は同時に、「それまで、四日市、のあとに繋がる単語は/市ではなく/ぜんそく だった」とも書く。この部分が、また非常におもしろい。「四日市ぜんそく」ということばを、いまどの世代の人まで「実感」できるかわからないが、たしかに「四日市」は「四日市市」ではなく「四日市ぜんそく」というひとつながりのことばだった。「ぜんそく」があったから「四日市」があった、と書いてしまうと、ぜんそくで苦しんでいるひとに申し訳ないが、たしかにそうだったのだ。
 で、大江の文体に強引に関係づけて書くと、ここにふいにでてきた「繋がる」ということば、これが大江の「キーワード」である。「四日市、のあとにつづくことば(単語)」ではなく、あくまで「繋がる」単語なのだ。
 「つづく」も「繋がる」もおなじと感じるひともいるかもしれないが、私は違いを感じる。「繋がる」の方が対象との関係が強固である。結び合わさっている感じがする。大江は、(と、ここで私はまた飛躍する)、大江の肉体と結び合っていることばをほどきながら、そのほどきめに「過去(古い体験、古い肉体)」を開いて見せる。噴出させる。
 先に書いたことの別のことばでの繰り返しになるが、大江は、何かと何かをつないで別の何かをつくる(過去から未来へ、原因から結果へ)というのではなく、いまここにある「結び目(結果)」をほどいて行く。そうすると、そのほどいたところから、体験と肉体が噴出してくる。どうやっていまをほどくか--ということろに、大江の肉体と体験が知らず知らずに噴出してくる。
 それがおもしろいのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする