詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

望月遊馬「湖畔」

2012-09-30 10:40:54 | 詩(雑誌・同人誌)
望月遊馬「湖畔」(「Aa」5、2012年09月?発行)

 望月遊馬『焼け跡』という詩集が手元にある。感想を書こう、書こうとしているのだが、ことばがどうも動かない。「助走」がいるみたいだ。で、「Aa」に掲載されている「湖畔」を読むことにした。
 「Aa」には望月を含め5人の詩人が作品を書いているのだが、だれが書いたかは奥付(?)にある「contents」を見ないとわからない。ほんとうに5人が書いたのかどうかは、読者がそれを信じるかどうかにかかっている。まあ、詩には、筆者がだれであるかは関係ないことだけれど。

くちびるに水がはしり
おまえが翅にふれる

肌をうすく染めたやわらかな
水のおもて
ゆるやかにながれる
沈丁花の葉

 ここに書かれているのは、何だろう。「contents」であると、私は思う。「contents」というのは、私は英語を話す人間ではないのでよくわからないが、そのことばのまわりには「内容」とか「中身」というような感じが漂っている。ただし「内容/中身」と言ってもその実際はよくわからない。「内容/中身」につけられたレッテルのようにも感じられる。別なことばでいうと「目次」というのがそれに近い。「内容/中身」が暗示されているだけで、ほんとうの「内容/中身」は別のところにある。「目次」ではない部分にも、「目次」が書かれている--というのが望月の詩である、と、これは私の「感覚の意見」である。
 と、いま書いてきた私の文章は、最後で「飛躍」しているのだが、この「飛躍」というのは簡単に言うと、「説明」の拒否というものだね。私の文章を読んでいるひとに対して説明を拒んでいるのはわかりきったことだが、実は私が私自身に対しても説明を拒絶している。面倒くさくなって、「論理」を棄てて、テキトウに「感覚の意見」というものを持ち出してしまうのである。
 そんなふうにしか、私には書けない。そんなふうにしか、私のことばは動いていかない。望月の詩を読んでいると。と、私は、私の「論理的破綻」を望月のことばのせいにしてしまう。責任転嫁してしまう。
 責任を転嫁してしまうと、「説明」は簡単になる。(ように、感じられる。--ことばは、まあ、いいかげんなものである。ではなく、私がいいかげんであるだけなのだが。)
 で、この詩のどこが「目次」か。「文」になっていないところが「目次」である。「文」というのは「主語+述語」という形で完成する。「目次」は「主語+述語」ではない。それは単なる「単語」である。

 「くちびるに水がはしり」だけを取り上げると、「水が(主語)はしる(述語)」という関係がそこにあるようだけれど、その「文」を「くちびるに」が壊している。いや、そんなことはない。「くちびるに」というのは場所を示しているのであり、この1行のなかにはちゃんと主語と述語がある、という見方もあるかもしれない。まあね。でも、それっていいったい何? 「くちびるに水がはしり」にどんな「意味」がある? わからないね。これだけでは何のことかさっぱりわからない。さっぱりわからないのだけれど、何かがあるように感じさせる。
 「おまえが翅にふれる」。何の翅に? なぜ? 何で? わからないね。1行目との関係もわからないね。くちびるに水がはしった「から」ふれるのか、くちびるに水がはしった「けれど」ふれるのか。
 次の「白」は何? 翅の色?
 「肌をうすく染めたやわらかな」は翅の肌のこと? あるいは「あなた」の肌のこと? これもわからない。さらにこの1行は次の「水のおもて」を修飾しているのであって、「白」とは無関係かもしれない。
 ことばの「つながり」が不明のまま、ことばが展開されている。これでは「文」にはならない。つまり、この「連」には「意味」はなくて、それは別のところにある、ような気がする。
 しかし。
 この1連目は、「おまえ(女)」が流れる水にくちびるをつけて、水を飲もうとしている。そのときその流れに沈丁花の葉が漂ってくる。それがくちびるにふれる。そのとき、女はその沈丁花の一枚の葉を蝶の翅のように感じる。いのちが破壊され、断片となったものが「おまえ」にふれて、「おまえ」のなかにいのちの断片を意識させるということかもしれない。それが1連目の「内容」かもしれない、という思いがふっとよぎる。
 「湖畔」というのだから、そのときの「水のはしり(流れ)」はほんとうの流れではなく、風がひきおこした波、湖全体でうけとめるゆらぎのことかもしれない。

 本の「目次」を読むと、本文は1行も読んでいないにもかかわらず、その「内容」はこういうことかなあ、とわかるときがある。このときの「わかる」はほんとうは「わかる」「理解する」ではなく「推測する」である。「事実」とは無関係である。
 「推測」しているだけで「わかる」というのはいいかげんなものだけれど、そうではないかもしれない。
 「わかる」にはいろいろな「方法」がある。「わかる」というのふつうは一つ一つ事実を確かめながら積み重ねて結論にたどりつくということを指すことが多いが、逆の方法もある。結論を推測し、それにしたがってことばを読み、結論にあう部分だけをつなぎあわせるという方法である。まわりにはほかのこともいろいろあるのだけれど、それは見なかったこと、聞かなかったことにして、「結論ありき」という形で世界をとらえなおす方法もある。
 望月の方法はどうも、それに似ている。何か書きたいことがある。それを「目次」のようにぱっと並べて見せる。それから、それでいいのかどうか、確かめる。それでいいように、形をととのえる。
 どこかに、都合よく言えば、望月の「肉体」のなかにある「コンテンツ」にあうように、「目次」をつくる。書かれているすべてのことばは、いわば「内容」を「抽出」したものであり、「本質」はそれとは別の場所にある。そして、その本質を強く感じることができるがゆえに、望月は、そのわかりきったものを省略して「目次」としてのことばを書きつらねる。

 私のことばはあっちへ行ったりこっちへ来たりとふらふらしているが、何となく、そういうことを感じる。望月はほんとうに書きたい「内容」を望月の肉体の内部にかかえこんでいて、それをそのまま展開するのはたいへんなので、とりあえず「目次」をつくっている。
 「目次」なのに、それがあたかも「内容」そのものであるかのように見えるのは、ほんとうの「内容」が非常に充実していて、「目次」にその一部があふれてきているからである。
 あらまあ、かっこいい。
 望月の詩はかっこいい--ということを「助走」にして、詩集を引き寄せれば、私のことばは動くかなあ、ときょうはそこまで考えてみた。

焼け跡
望月 遊馬
思潮社
コメント
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