詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井上瑞貴「雨は悲しみの車輪を回す」(あるいは秋亜綺羅詩集の補足)

2012-09-04 09:28:43 | 詩(雑誌・同人誌)
井上瑞貴「雨は悲しみの車輪を回す」(あるいは秋亜綺羅詩集の補足)(「侃侃」18、2012年08月18日発行)

 秋亜綺羅の詩のあとに井上瑞貴を読むと、ことばが重い。「雨は悲しみの車輪を回す」はジリオラ・チンクェッティの「雨」の一節を思い出させるタイトルだが、はじける感じの雨ではなく、変に重たい。

どれだけ書き込んでも一ページにしかならないノートをかかえて
目盛りにした歩幅で駅から遠くまで歩けばもっと遠くがあるような気がする。

 秋亜綺羅が、あるいは寺山修司がといってもいいのだが、書きそうな「意味・内容」である。でも、まったく違うね。何が違うかというとリズムが違う。ことばの粘着力が、粘着力というより「しつこい」。--これは私の「感覚の意見」なので、まあ、わからないかもしれない。この「しつこさ」が「重い」になる。
 そしてこのしつこさは、井上は詩として書いているのだが、散文向きである。しかもその散文というのは、きのう秋亜綺羅の詩の感想のつづきで言うと「donc」と言ってしまえばいいのに、その「donc」を持たないところからくるしつこさである。飛躍のためのことばを持たない。飛躍のことばを持たないことばの運動は、どうしても散文になる。
 特徴的なのは、二行目の「気がする」である。
 詩は感情を書いているようだが、実はあらゆることを「気にしない」。気にしていたら詩にならない。気にせずにぱっと飛び上がる。飛躍する。そのままどこかへ行ってしまう。無責任じゃない? そうです、無責任なナンセンスが詩なんです。

そのとき
水平線は赤いデニムをひき裂き
一匹の金魚を犯した
                             (秋亜綺羅「津波」)

 無責任だよねえ。金魚がレイプされたと書いて、そのことに対して何の「気持ち」も書かない。赤い金魚が犯されるとき、「赤いデニム」が引き裂かれる。この比喩のスピードはナンセンスだよねえ。比喩のスピードのなかで、「気(気持ち)」が振り落とされる。でも、それは、振り落とされたとしてもどこかに残っている。「気(気持ち)」のなかではなく、秋亜綺羅の場合、そういう比喩を成立させる「donc」、論理的理由のなかに抱え込んでいる。

そのとき
赤い金魚をいっしょに買った
恋人は
金魚とも
わたしとも
いっしょにいなかった

そのとき
水平線は赤いデニムをひき裂き
一匹の金魚を犯した

部屋の私論壁には
海の影が動いていた

そのとき、一匹の赤い
わたしの金魚は
海水魚になることを拒んだ
                             (秋亜綺羅「津波」)

 一読して、何に気づく?
 「そのとき」が繰り返されている。ことばは「donc」を抱え込んで飛躍しながら、飛躍しても飛躍しても「そのとき」に戻ってくる。戻ってくるところがあるから飛躍できる。そして、そのもどってくるところは、「気(気持ち)」ではない。むしろ、気持ちを拒絶した「事実」というか「客観」である。
 「客観」なんてものはない、と「気(気持ち)」の詩人・井上瑞貴は言うだろうけれど、そして私も「客観」なんかはないという立場に与するのだけれど、しかしねえ、「客観」のかわりにあるものが「気(気持ち)」とは言えないなあ。そんな簡単にいってしまえば、「一元論」の「ふり」になってしまう。--あ、これも私の「感覚の意見」、いや、「論理の意見(?)」かな。まあ、いいかげんな、まだことばになりきらない何かが、そう言いなさいと私に言うので、とりあえず書いてしまうことばである。
 この「ふり」に比べると、秋亜綺羅のデカルト的「二元論」は、どこかで「とりあえず二元論のふりをしているだけ」「利用しているだけ」という感じ、二元論を馬鹿にしている感じがあって、それがことばのスピードにつながっている。秋亜綺羅をほんとうに動かしいるのはデカルトの「方法叙説的二元論」ではないのだ。

 あ、井上の詩について書いているのか、秋亜綺羅の詩の感想のつづきを書いているかわからなくなってしまうなあ。

どれだけ書き込んでも一ページにしかならないノートをかかえて
目盛りにした歩幅で駅から遠くまで歩けばもっと遠くがあるような気がする。
夕暮れはないが遠くがあるような気がする。

 この3行目は魅力的なものを含んでいるが、「気(気持ち)」のせいで、とても重い。3行目までに、「だれが」という主語が出てこない。それはたぶん「私(井上)」ということなのだろう。主語は出てこないが、そのかわりに「気」が出てくる。「気」が主語であり、「気=私(井上)」という構造が隠れている。この隠された「私(井上)」の、「隠す」ということが「重い」のである。しかも「気」に隠す。ようするに「気」は「気」以外のものを含んでいる--というのは、井上から言わせれば「誤読」になるだろうけれど。「気=私」なのだから「気」は私以外のもの、つまり私の気持ち以外のものを含んでいない、というのが井上の「気の論理」になるのだろう。
 でも、「気=私」を「私=気」という形に書き直してみると、どうなる? 「気=私」ではあっても「私=気」ではないというという拒絶、「私=気」に対する拒絶が、はたして井上の肉体のなかにないだろうか。ないなら、まあ、それでいいんだけれど。ほんとうに、それがないなら、どうぞそのままことばを動かしてくださいとしかいいようがないのだけれど。
 こういうことを書いていると、だんだんめんどうくさくなる。省略して書くと、次のようなことになる。
 井上の詩の4行目以下は、つぎのようにつづく。

豪雨はどうだったのでしょうかと聞かれた。
わたしたちが出会えない理由のある街の交差点を横切りながら
永遠のほんの数瞬を刻むしかない歩幅で豪雨が通って行く。

 「豪雨はどうだったのでしょうかと聞かれた。」という4行目は、それまでの3行の世界から「飛躍」している、と見えないことはない。井上はたぶん飛躍したつもりだね。
 でもねえ。

豪雨はどうだったのでしょうかと聞かれた(気がする)。
わたしたちが出会えない(気がする)街の交差点を横切りながら
永遠のほんの数瞬を刻むしかない歩幅で豪雨が通って行く(気がする)。

 各行に「気がする」を補ってみる。(「理由のある」も「気がする」に置き換えてみる。)そうすると、その「飛躍」は一瞬の内に「気」のブラックホール、「気の重力」にのみこまれてしまう。
 井上の書いているのは「飛躍」ではなく、「気」にのみこまれる瞬間の「悲鳴」のようなものである。で、この「悲鳴」が井上の「抒情」なんだと思う。「悲鳴=抒情」というセンチメンタルが重たい--つまり、すでに存在しているものに絡みつかれているという感じを引き起こすのかもしれないなあ。
 「気がする」の通奏低音(?)に比較すると、「donc」の方が軽いね。「donc」の方が散文の語法なのに、そして「気がする」の方が抒情の、つまり詩の語法なのに、文体の軽さ、明解さ、スピードの違いもあって、井上の「気がする」の方が散文に見える。不思議なもんだね。
坂のある非風景―詩集
井上 瑞貴
近代文芸社
コメント
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