詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫『難解な自転車』(4)

2012-09-29 10:12:21 | 詩集
野村喜和夫『難解な自転車』(4)(書肆山田、2012年08月30日発行)

 野村喜和夫『難解な自転車』については、特に書くべきこともないのだけれど、何となく書いてしまっている。書きはじめると、ことばが勝手に動いていく。それは、まあ、この詩集がそれだけおもしろいということなんだけれど。
 で、この詩集について、私はどこから書きはじめたのだっけ? 「難解」ということから書きはじめた。最後に、その「難解」が出てくる「難解な自転車」。

ある日 家の まえに
誰の ものとも しれぬ 自転車が
放置 されて あった

 最初、自転車は「難解」ではなく「しれぬ(知れぬ)」であった。この「しれぬ」は「わからぬ」と置き換えられるね。この段階では「知る=わかる」であり、その否定形が「知れない=わからない」ということになるかな。
 で、その「しれぬ」の内容は、自転車が誰のものであるか、ということ。たとえばこれが私(谷内)の自転車だと、「誰の ものとも しれぬ 自転車が」ではなく「谷内の自転車が」ということになる。そんなこと、いちいち書かなくてもわかる? いや、そうなんだけれど、野村の詩の動きにあわせて、私はいちいち書いているのです。
 この詩には、便器と噴水とか、手術台の上のミシンとこうもり傘だとか、まあ、いちいち書かなくてもいいことが、いちいちていねいに書いてある。いちいちていねいに書くことが、ここでは詩なのである。その「ていねいさ」が、ね。
 で、3連目。

おいおい こんな ところに 棄てるなよ
と 思いきや 棄てたに しては まだ 十分に
あたらしい そうか 駐輪場 代わりに されたんだな
しかし 翌日に なっても 自転車は そこに あるまま
誰も 取りに 来て くれない それに わが家は
住宅街の どまんなか 近くに 駅も スーパーも なく
自転車を 置いて どうこう なる 場所では ないのだ
あるいは もしかしたら 嫌がらせ? 私や 家人が
困る ようにと 誰かが わざと そこに 置いた?

 「しれぬ」対象(?)が「誰のものか」から変わってきている。「放置」は「放置」なのか、ということがまず問題になる。「放置」ではなく「一時的に置いた」のかもしれない。つまり「止めて置いてある」のかもしれない。その根拠(?)は自転車が棄てるのにしては新しいからだ。
 次に、でも誰も取りにこないので、それは「一時的に置いたのではない」という推測に変わる。根拠は、自転車を止めておいて用事をすませるには、その場所は変だからである。駅からもスーパーからも遠い。ここに止める理由が「しれぬ」ということになる。
 次に野村のしたことは、なぜ?と放置の理由探しである。駅からもスーパーからも遠い 私(野村、と仮定しておく)の家の前に止めるのは野村に対するに対する嫌がらせかもしれない……。
 と、ここまで書いてくると、いろんなことが思い浮かぶ。そして、それはすべて「思いきや」の「思い」に関係している。
 「思い」はまだ「事実」になっていない。言い換えると、その自転車が誰のものであるか、その「事実」がわからない。そしてなぜ棄てたのかという「理由」も他人につたわる「事実」にはなっていない。「理由」とは、そのひとの行動の「根拠」であり、それは「思い」のなかにある。「なぜ、こんなことをしたんだ」「こうこう思ったからです」の「思った」が理由だね。その「思い」に誘われて、野村は「嫌がらせ?」と思うのだが、これは「事実」ではない。野村の「思い」にすぎない。たとえ、その思いが的中していたとしても、いまは「事実」ではなく、「思い」である。
 そうすると、「思い」というものは実に変なものである。「的中」していても、その「的中」を誰かが認定(?)しないかぎりは、単なる「思い」なのだから。うーん、めんどうくさいものである。

 で、なぜ、私がこんな、読めば誰でもわかることを長々と書いているかと言うと。

 「思いきや」ということば、それがこの詩の「キイワード」だと言いたいから。キイワードは、ほんとうはなくてもいいことば。あるいは、ほんとうは書かれないことば。無意識的に書いてしまうことば--肉体にしみついたことば、という具合に私は定義しているのだが。
 「思いきや」はなくてもわかるよね。「意味」はかわらないね。ただし、「思いきや」を省略すると、その直前の「と」は「しかし」にならないといけない。学校文法ではね。

おいおい こんな ところに 棄てるなよ
「しかし」 棄てたに しては まだ 十分に
あたらしい そうか 駐輪場 代わりに されたんだな

 と書いても、「意味」は変わらない。そこに書かれていることが野村の「思い」、つまり想像であることかわかる。「……だな」が推量をあらわしているから、そして推量とは「事実」ではなく「思い」なのだから。
 で、書かなくていいことばを書いているのは、そのことばには「比重」がかかっているからである。つまり、単なることばに見えるけれども、そしてふつうは書かないのだけれども、ついつい「強調してしまって」書いてしまったのである。この強調は、しかし「意味」としての強調ではない。野村の「思い」の強調である。これからつづくことばは野村の「思い」をあらわしていることばですよ、という強調なのである。
 そんなこと強調しなくたって、詩は「思い」を書いたもの--というかもしれない。
 いや、そんなことはないんです。
 で、ここで詩の冒頭に書いてある「シュールレアリスム詩」に対するコメントが隠し味のようにきいてくる。便器が美術館で「噴水」と名づけられたら芸術になる。手術台の上でこうもり傘とミシンが出合えば詩になる--その「詩」のなかにある「思い」は? 「思い」なんて、ない。それが、詩。
 おかしいでしょ?
 野村は、そういうことから出発しながら、ここでは「思い」を書いている。自宅の前の空間と自転車の出合い--それは詩ではなく、それについてあれこれ思うこと(思い)が詩であるとしたら、うーん、変。
 とっても、変。
 便器が美術館で「噴水」と名づけられたのを見るとき、見た人間のなかで「思い」がぶったたかられる。衝撃を受ける。「これ、何? これから何を思えばいい?」手術台の上でこうもり傘とミシンが出合うのを見たときも同じ。「これ、何? これから何を思えばいい?」という具合につづけていけば、まあ「意味」は重なりはするけれどね。(という具合に、感想をつづけていくこともできるんだけれど、そういうことは私はしたくない。この詩に関して言えば。)

 シュールレアリスムは「もの」と「思い」を叩ききった。そこに「笑い」がある。「思い」の否定は、人間を「思い」から解放することである。その解放が「笑い」だね。
 と、だけメモしておいて……。

 「難解」にもどろう。
 「難解」って、何? いま、野村を困らせていること、事態が「難解」であると思わせていることは何? 自転車をそこに置いたひとの「思い」がわからない、ということだね。
 それを確認した上で、次の行。

わからない でも
この 手の わけの わからなさ
この ところ 増えた ような 気が する

 「わけの わからなさ」の「わけ」は「理由」だね。「理由」は、ここではそれを実行したひとの「思い」だね。そして、それは増えたような「気が する」。この「気」は「思い」だね。「思い」と「思い」がうまく重ならない。うまく「交通」しない。
 こういうとき、つまり「この ところ」、そういうことを何という?
 私は一度も自分からはつかったことがないのだけれど、

「意味わからん」

 そういうふうに言わない? だれが言いはじめたことばなのか知らないが、しきりに耳にする。映画『奇跡』のなかでは大阪の(?)漫才子役がしきりにつかっていた。会社の同僚もよくつかっている。
 そして、それがつかわれる状況はというと、相手の言いいたいことはわかるが、納得できない。自分の「思い」とは違う、というときである。「意味わからん」は、「私はそうは思わない」。しかし、それでは何を「思う」のか。それをわざわざ言いたくはない。言いたいのは自分の「思い」とは違う、ということ、つまり「不満」である、ということ告げたいのである。「違和感」といっていもいい。
 自分がほんとうに思っていること(思い)を言うのは面倒くさい。言うときっと面倒になる。さらに面倒くさいことが起きるに決まっている。だから、言わない。言わないけれど、「不満」に思っていることを「漏らしたい」。だれかに。それは、いま向き合っているひとかもしれないけれど。
 
 この3行のあと、詩は、こうつづく。

詩が 難解である それは いい
数学が 難解である それも 許せる
でも 家の まえが 自転車が
難解である とは
無意味では ないか
無 意味 では ないか

 ほら(何が、「ほら」なのか、説明しないけれど)、「意味」ということばがでてきたね。「意味わからん」の「意味」と、私には重なって見える。
 野村は「意味わからん」とは言わずに「無意味では ないか(無意味である)」という。「難解な自転車」とは「無意味な(意味のわからない)自転車」である。
 なぜ、これに野村が過激に反応し、こんなに「ていねい」にことばを重ねつづけるのか。「難解(意味わからん)」のなかに「無」と「意味」が出合っているからである。野村にとって「無意味」とは「ひとつ」の「こと」ではない。便器と美術館、手術台の上のミシンとこうもり傘のように、「無」と「意味」の出合いなのだ。何かが出合うとき「思い」が動く。便器と美術館の出合いなら、そのとき野村のなかの「便器に対する思い」と「美術館に対する思い」が出合い、ぶつかる。その瞬間、「意味わからん」。つまり「無意味」が突然発生する。
 その「無意味」は「無」と「意味」から実は構成されている。
 「便器」が「無」? それとも「意味」? あるいは「美術館」が「無」? それとも「意味」?
 何をばかなことを書いているのだ--と思うかもしれない。まあ、ばかなことを私は書いているのだけれど、そんなふうに「思う」ことができ、その「思い」をこうやって書き残すことができるというのは、ことばのほんとうに不思議なところである。
 というようなことを、野村は、この詩集でやっている。
 と、強引に「結論」を書いて、きょうはこれでおしまい。




ヌードな日
野村 喜和夫
思潮社
コメント
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