鈴木孝『鈴木孝詩集』(2)(土曜美術社出版販売、2012年08月30日発行)
鈴木の詩を読みながら、鈴木の声を聞きたいと思った。私は「音読」はしないし、朗読についても関心がない。けれど声にはとても関心がある。たとえば「乳房の寝室のなかで」という作品。
とても若い声が聞こえる。それはいまの私の年齢の男の声ではなくて、たとえて言うなら女というものがほんとうに「異」性であることを発見したときの声である。「異」性なのだけれど、「同じ」人間、あるいは「同じ」生き物であると発見したときの声である。そういうことは、たぶんみんな知っている。知っているけれど、あるいは知っているからこそ発見できるものなのだが、その発見の瞬間の声がある。それは書き出しの「貧しさはゆたかな太股をけした」の「貧しさ」と「ゆたかな」ということばの「矛盾」なのかに炸裂している。貧しさと豊かさは反対の概念である。「異」質のものである。けれど、それが愛の瞬間には出合うのだ。そして、それは輝くのだ。「ゆたかな太股をけした」とことばは動くが、そう動いてしまうのは、「ゆたかな太股(太股のゆたかさ)」はけっして消えないからである。消えないものであるからこそ「けした」ということばで向き合わないと、「同じ」質のものの暴走を抑制できない。まあ、抑制できなくてもいいし、抑制したつもりでも、抑制しきれていないのだけれど--そんなことはどうでもよくて、この矛盾のなかで、声が肉体を突き破って動いてくる、その「強さ」がとてもいい。
だから、その声を聞きたいと思う。
この2行の「暴力」とそのあとの「静寂」。その対比から生まれてくる「悲しみ」と「よろこび」。それはことばで書いてしまうとまったく別のものだが、声のなかでは、つまり肉体のことばでは同じものだ。からみあって、ほぐしようがない。同じものと書いてしまったけれど、同じというよりこんがらがっている。そのことに対して、ことばは苛立ち、焦っている。そこに不思議な輝きがある。
だから、その声を聞いてみたい。
「意味」を知りたいのではない。「内容」を知りたいのではない。声によって「意味」や「内容」がどう変わるか、ということには関心がない。私は、ただその声を聞いて、声を動かしている肉体のなかにある力に共感したい。それを感じとってみたい。「意味」「内容」は、こういう詩にあっては「体験のかす」のようなものである。そんなものは誰もが「体験」する「意味」であり「内容」である。違うのは、そのときに思わず噴出してくる声である。
セックスは声でするものなのである。--これは私の「感覚の意見」である。目なんかでセックスはしない。声でする。なぜ、声か。声は耳から侵入し、相手の体のなかへ入っていくからである。相互に侵入しあい、相手の体のなかに触れる。耳でする、と言ってもいいのかもしれないけれど、それでは受け身一方である。やっぱり、声でセックスする、というべきだと、私の「感覚の意見」は断言する。
いま、この詩を鈴木が読んで、それでは声が聞こえるかというと、まあ、すっかり違った声だろうと思う。だからこそ、声が聞きたい。そして、それがかなわぬことだとわかるから、私は私の肉体に耳をすましてみる。私の肉体のなかに残っている声を総動員して読む。
そうしてみると、1行だけ、どうにも納得がいかないところも出てくる。
この1行は読むことができない。のどが動かない。これはほんとうに肉体から出てくる声かな?
もしかすると、鈴木の声には、私が感じている以上に「強い頭」が動いているのかもしれない。肉体でことばを動かす以上に、「頭」でことばを制御する力があるのかもしれない。--これは、しかし、まだ読みはじめたばかりなので、保留しておこう。
こういうことは鈴木自身も感じていることかもしれない。
「何であってもいけないのだ」が「頭」のことばを否定しようと懸命に動く。この否定もまた「頭」の動きかもしれないが、それを声の力で乗り越えようとしている。「果実であってはならない」「愛であってはならない」という否定は、逆にそれが「果実である」「愛である」からこそ発せられる。「頭」はそれを「果実」となづけ「愛」となづける。しかし、声はそれを否定しようとする。「一般名詞」であってはならないのだ。鈴木と、そのときの「おまえ」との、「固有の名前」が必要なのだ。
「固有の名前」「固有のことば」というものは、しかし、そう簡単には手に入らない。それを発見するにはたいへんな時間がかかる。
しかし。
声は違う。と、私の感覚の意見は、またここで主張する。声は、それぞれに個別である。鈴木が「愛」というときの声と私が「愛」というときの声は違う。そういう違いが、ほんとうはこれらの行に含まれている。でも、それはこうやって印刷されたものを読むと「違い」が見えない。活字になってしまうと「文字のくせ」もなく、どの「愛」も「同じ」愛に見えてしまう。けれど、声なら違うのだ。
声にはそのときそのときの「肉体」がある。声を聞くことは肉体を「見る」ことと同じである。遠く離れた場所で、姿を見ずに声を聞くのではなく、目の前に鈴木がいて、その声を聞くとき、それは鈴木の肉体、鈴木の裸を見るのと同じである。つまり、自分が裸になるのと同じである。裸になって、鈴木の声を生きる。鈴木の声が自分の肉体のなかに入ってきて、そこで突き動かす(突き動かされる)肉体になって、自分の声が噴出してくるのを待つ。そういうことをしてみると、とてもおもしろいと思う。
まあ、しかし、これはいまとなっては無理だね。鈴木と同時代を生きた人が少しうらやましい。この当時の鈴木の声を聞いた人がうらやましい。
鈴木の詩を読みながら、鈴木の声を聞きたいと思った。私は「音読」はしないし、朗読についても関心がない。けれど声にはとても関心がある。たとえば「乳房の寝室のなかで」という作品。
貧しさはゆたかな太股をけした
空から光をうばい
くり色にかおった世界の
おちていったすべての夕暮れを
毒のついた爪で柔らかな処女の下腹をかきむしったように
ぼくの胸板にのこした
とても若い声が聞こえる。それはいまの私の年齢の男の声ではなくて、たとえて言うなら女というものがほんとうに「異」性であることを発見したときの声である。「異」性なのだけれど、「同じ」人間、あるいは「同じ」生き物であると発見したときの声である。そういうことは、たぶんみんな知っている。知っているけれど、あるいは知っているからこそ発見できるものなのだが、その発見の瞬間の声がある。それは書き出しの「貧しさはゆたかな太股をけした」の「貧しさ」と「ゆたかな」ということばの「矛盾」なのかに炸裂している。貧しさと豊かさは反対の概念である。「異」質のものである。けれど、それが愛の瞬間には出合うのだ。そして、それは輝くのだ。「ゆたかな太股をけした」とことばは動くが、そう動いてしまうのは、「ゆたかな太股(太股のゆたかさ)」はけっして消えないからである。消えないものであるからこそ「けした」ということばで向き合わないと、「同じ」質のものの暴走を抑制できない。まあ、抑制できなくてもいいし、抑制したつもりでも、抑制しきれていないのだけれど--そんなことはどうでもよくて、この矛盾のなかで、声が肉体を突き破って動いてくる、その「強さ」がとてもいい。
だから、その声を聞きたいと思う。
毒のついた爪で柔らかな処女の下腹をかきむしったように
ぼくの胸板にのこした
この2行の「暴力」とそのあとの「静寂」。その対比から生まれてくる「悲しみ」と「よろこび」。それはことばで書いてしまうとまったく別のものだが、声のなかでは、つまり肉体のことばでは同じものだ。からみあって、ほぐしようがない。同じものと書いてしまったけれど、同じというよりこんがらがっている。そのことに対して、ことばは苛立ち、焦っている。そこに不思議な輝きがある。
だから、その声を聞いてみたい。
「意味」を知りたいのではない。「内容」を知りたいのではない。声によって「意味」や「内容」がどう変わるか、ということには関心がない。私は、ただその声を聞いて、声を動かしている肉体のなかにある力に共感したい。それを感じとってみたい。「意味」「内容」は、こういう詩にあっては「体験のかす」のようなものである。そんなものは誰もが「体験」する「意味」であり「内容」である。違うのは、そのときに思わず噴出してくる声である。
セックスは声でするものなのである。--これは私の「感覚の意見」である。目なんかでセックスはしない。声でする。なぜ、声か。声は耳から侵入し、相手の体のなかへ入っていくからである。相互に侵入しあい、相手の体のなかに触れる。耳でする、と言ってもいいのかもしれないけれど、それでは受け身一方である。やっぱり、声でセックスする、というべきだと、私の「感覚の意見」は断言する。
いま、この詩を鈴木が読んで、それでは声が聞こえるかというと、まあ、すっかり違った声だろうと思う。だからこそ、声が聞きたい。そして、それがかなわぬことだとわかるから、私は私の肉体に耳をすましてみる。私の肉体のなかに残っている声を総動員して読む。
そうしてみると、1行だけ、どうにも納得がいかないところも出てくる。
くり色にかおった世界の
この1行は読むことができない。のどが動かない。これはほんとうに肉体から出てくる声かな?
もしかすると、鈴木の声には、私が感じている以上に「強い頭」が動いているのかもしれない。肉体でことばを動かす以上に、「頭」でことばを制御する力があるのかもしれない。--これは、しかし、まだ読みはじめたばかりなので、保留しておこう。
こういうことは鈴木自身も感じていることかもしれない。
ああ それは何であってもいけないのだ
ちいさな果実のほころびの中に帰る夢
果実であってはならないおまえの夢
手折られた片羽根にたえて泣く
ちいさな蝶のちいさな愛
愛であってはならないおまえの死
ただおまえの知で画かれた夕暮れ
おまえの死の唇である全て
「何であってもいけないのだ」が「頭」のことばを否定しようと懸命に動く。この否定もまた「頭」の動きかもしれないが、それを声の力で乗り越えようとしている。「果実であってはならない」「愛であってはならない」という否定は、逆にそれが「果実である」「愛である」からこそ発せられる。「頭」はそれを「果実」となづけ「愛」となづける。しかし、声はそれを否定しようとする。「一般名詞」であってはならないのだ。鈴木と、そのときの「おまえ」との、「固有の名前」が必要なのだ。
「固有の名前」「固有のことば」というものは、しかし、そう簡単には手に入らない。それを発見するにはたいへんな時間がかかる。
しかし。
声は違う。と、私の感覚の意見は、またここで主張する。声は、それぞれに個別である。鈴木が「愛」というときの声と私が「愛」というときの声は違う。そういう違いが、ほんとうはこれらの行に含まれている。でも、それはこうやって印刷されたものを読むと「違い」が見えない。活字になってしまうと「文字のくせ」もなく、どの「愛」も「同じ」愛に見えてしまう。けれど、声なら違うのだ。
声にはそのときそのときの「肉体」がある。声を聞くことは肉体を「見る」ことと同じである。遠く離れた場所で、姿を見ずに声を聞くのではなく、目の前に鈴木がいて、その声を聞くとき、それは鈴木の肉体、鈴木の裸を見るのと同じである。つまり、自分が裸になるのと同じである。裸になって、鈴木の声を生きる。鈴木の声が自分の肉体のなかに入ってきて、そこで突き動かす(突き動かされる)肉体になって、自分の声が噴出してくるのを待つ。そういうことをしてみると、とてもおもしろいと思う。
まあ、しかし、これはいまとなっては無理だね。鈴木と同時代を生きた人が少しうらやましい。この当時の鈴木の声を聞いた人がうらやましい。
泥の光 | |
鈴木 孝 | |
思潮社 |