詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中本道代『中本道代詩集』(2)

2012-09-21 11:25:21 | 詩集
中本道代『中本道代詩集』(2)(現代詩文庫197 )(思潮社、2012年08月31日発行)

 中本道代の初期の詩では、「春の空き家」もおもしろかった。

道路が光ってまっすぐにのびている
時々自動車があらわれては消える
街はここから遠い
道路き両側に空き家がならんでいる
ま四角な白い家
窓が光りすぎている
家の向こうを少女の一群が歩いている
ことばを持たず
聞こえない音を聞く
なめらかでかたいはだかの少女たちが
つぎつぎにあらわれ
しっかりした足どりで歩いていく
空に磁気が満ち
道路が光りすぎて
人は息をすることができない

 読んだ瞬間、天沢退二郎を思い出した。宮沢賢治を思い出した、と言ってもいい。天沢も賢治も私はそんなに読んだわけではないのだが、ふっと思い出したのである。理由はとても簡単である。何度も出てくる「光る」という動詞のためである。1行目に「光って」があり、「光りすぎている」がその後2回出てくる。
 天沢の「ぼくの春」。

青ざめた泥濘はインクの襞のかなしさ
遠い空のへりではかすかに
高くハモンドオルガンが鳴る
傾いた日ざしはさびれた村道をてらし
右から左から波のように逼ってくる林の散兵隊
そのずっと向こうの
褐色に落ちた高杉のこずえの方で
ほら あのようにハモンドオルガンが鳴る

空はまだ破れたゴム毬のように青い ひるすぎの
この鎮んだ光の風景を
黒びかりのする二つの輪軸を繰りながら
斜めに斜めにめぐって行くもの

 ここに出て来る「光」は中本の「光る」と同じ性質のものである。共通するのは「硬質」というか、もしこんなことばがあるなら「鋼質」あるいは「鉱質」のものである。それは賢治の光にも感じるものだ。
 どこかで中本は天沢と同じように賢治を共有しているのかもしれない。
 こういう誰かと「共有する感覚」は、詩を書いているうちにだんだん薄れて来る。あるいはだんだんその人らしさがあらわれて、影響が消えていくということかもしれないけれど、そして影響を乗り越えて切り開いた境地こそその詩人のものなのかもしれていけれど、私は、誰かの影響が強く残っている詩の方がおもしろいと感じてしまう。
 「共有」と同時に、そこには「ずれ」があって、その衝突がなかなか楽しい。そうか、似たようなことを書こうとしても、どうしても人間というのは違ってきてしまうのだなあ、という印象がそこから生まれる。
 天沢は「ハモンドオルガンが鳴っている」と書いている。これはほんとうにオルガンが鳴っているのかもしれないが、鳴っていないのにそう書いているのかもしれない。つまり、嘘を書いている。で、その嘘を書く理由は、いま、ここでハモンドオルガンが鳴っていたらかっこいい、という欲望があるからだ。「遠い空のへり」がそのことを語っている。「かすかに」がそれを語っている。そんなものは聞こえはしないのである。聞こえはしないけれど、聞こえたらかっこいいから、それをほっするのである。こういう本能の欲望は正直で、絶対的に間違いがない。
 これが中本では「聞こえない音を聞く」という具合になる。聞こえない音であるから、それを聞くというのは矛盾である。つまり、ここにも嘘がある。本能の、欲望の嘘がある。
 で、この本能の嘘なのだが、二人を比較するとちょっとおもしろい。
 天沢は「鳴っている、中本は「聞く」。天沢は「対象」を客観化する。中本は「主観」を前に出す。天沢は「もの」が主役になる。中本は「少女(私を含む)」が主役になる。この違い。
 天沢は対象(風景)を描いている。中本も風景を描いているようだが、そのなかに登場して来る人間になって、そこに入り込んでいる。この登場人物のなかにはいりこむ感じがあるから、同じ硬質(鋼質、鉱質)であっても、なんとなく中本の方がやわらかい。どんな硬さも、中本にとっては「触覚」で確認した硬さである。天沢の場合、離れて感じる硬さ、目で見る硬さである。
 中本の、触覚をとおして確認した硬さは、「なめらかでかたいはだか」ということばのなかに特徴的にあらわれている。「かたさ」とひらがなで書いてしまう。それは単に硬いというより「たしか」ということかもしれない。「しっかり」は「たしか」を言いなおしたものである。その「たしかさ」を共有する形で中本は詩のなかに入っていく。
 だから、「人は息をすることができない」という具合に、肉体まるごと、少女にのみこまれていく。
 天沢は違う。最初の引用ではあえて書かなかったのだが、詩の最後の部分は、次のようになっている。

ほのかにかぎろう麦畑のこっちで
あるいはへんにあかるい松林のはずれで
進んでくる黒いぼくを見るぼく

  (遠く湧きあがる調べは
   葬送マーチよりも青い春の電車だ)

 「見る」。この動詞は、目と対象とが離れていてこそ可能な動詞である。「ぼくを見るぼく」のなかには「ぼく」の分裂がある。
 けれども中本の「息をすることができない」のなかには分裂ではなく「同化」「一体化」というものがある。
 硬質(鋼質、鉱質)を指向しながらも、中本は対象にふれる形で「一体化」をしてしまう。ここから、詩が動く。ことばが動く。




花と死王
中本 道代
思潮社
コメント
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