鈴木孝『鈴木孝詩集』(3)(土曜美術社出版販売、2012年08月30日発行)
『あるのうた』には「ある」という文字がゴシックで印刷されている。私の引用では、ちょっとパソコンの操作が面倒くさいので明朝のままにしておく。
「ある」は何か。まあ、「ある」ととしか言いようのないものなのだろうけれど、私はずぼらな読者なので、ついつい「ある」を「ある」のまま維持できなくて、ほかのことばに置き換える。つまり、私の想像力が動きやすい何かを「ある」に代入し、それでことばを追いかける。
私は最初「ある」を「存在する」という動詞、英語で言えば「be」のようなものかな、と思った。「ある」ということをテーマにした「哲学詩(?)」かな、と。それなら、これはおもしろいぞ、と期待した。「空をつかもうとしてあがく」という「流通言語」はつまらないが、
このことばの動きはおもしろい。ふつうなら、
と逆接の接続詞があるべきなのだが、それがない。これは鈴木の中で、歌が聞こえるということと「ある」がいないことが矛盾ではないことを語っている。歌が聞こえる、歌が存在するは、あるが不在であることと矛盾しないだけではなく、鈴木にとっては切り離すことができないものなのである。
ほう。
私はここでぐいと引き込まれる。
逆接ではなく、順接。そうであるなら、「あるはいない、ゆえにあるのうたはきこえる」ということにもなる。
この、逆接、順接は、いわば意識がとらえた「存在形式」である。
これから、この詩は、どうなるのだろう。
鈴木の書いているものが「存在形式」であるなら、これから以後はその「形式」を構成する鈴木の「存在論」になるはずである。鈴木の「外部の世界」ではなく、鈴木の「内部世界」になるはずである。「形而上学」か。そんな面倒くさいものを鈴木は詩で書こうとしているのか。
ぞくぞくしてくる。
ところが。
「長くたれた髪」とは何の修飾だろう。バイオリンをかかえる「ちいさなある」とは何だろう。私は「ある」を別のことばに置き換えて把握できないかとずぼらなことを考えていた。そして、それが「あるのうたはきこえあるはいない。」で拒絶されたと思ったのだが、あれ、これは変だなあ。鈴木自身が「ある」を「あることば」のかわりにつかっているだけなのか、という疑問が浮かんでくる。
「女」ということばを代入するとどうなるだろう。「ぼく(鈴木)」は女のことを思っているだけなのか。そして女のことを思っているということを、女ではなく「ある」ということばに置き換えることで、ことばの運動を何か特別なものにしようとしている、いわば「偽装」しているだけなのか。
うーん。
これは微妙だね。「あるがぼくの中で息づき」ではなく、あくまで「言葉」が息づく。「あるのうたは聞こえる、ゆえにあるはいない、ゆえにあるという言葉がある。」ということになるのかな?「あるはいない、ゆえにあるという言葉がある」。ことばは常に「不在」のものを指し示す。存在するものの前でことばは不要である。
ここには、そういう「哲学」があるかもしれない。
そうすると、ここで描かれる「ある」、つまり「女」はもう鈴木にとっては「不在」の人間ということになる。俗っぽく言うと、失恋した男が昔の女を思い出して、それを「女」ということばを避けて、「ある」という意味ありげなことばで置き換えることによって、ちょっと変わったことを、目新しいことを書こうとしていることになる。
「女のみごとにもりあがった陰部」の「女」はなぜ「ある」ではないのか。どんなふうに意識しているのか、どこまで意識して書いているのかよくわからないが、鈴木は区別しているのだ。「女のみごとにもりあがった陰部」と書いているとき、鈴木は具体的なひとりの女(ある)を思い浮かべるのではなく、違う人間の陰部を、いわば「理想の陰部」を思い浮かべている。そしてそれを「あるの中に」求める。具体的な、いま、そこにいる女に求める。
それを鈴木は「自然」と呼んでいるが、そうなのだろうか。セックスをしていてほかの女(理想の女)のことを思い浮かべるということは、まあ、あるだろうけれどというか、これって変じゃない? これじゃあ女は去って行って当然じゃないだろうか。女は「女という普通名詞」としての存在とセックスしてほしいわけではないだろう。ほかの女はどうでもよくて、ただ「私」という固有の存在とセックスしてほしい。
何か、間違っていない?
たぶんこの「間違い」は「ぼく(俺)」にとってかけがえのない存在を明確にするために、「女」ということばではなく、まだことばにならないことば「ある」ということばをつかったところから発生している。恋人が特別な女であり、「女」ということばでは言い尽くせない、だから「ある」という奇妙なことばにすがってことばを動かしていく--というのはいいのだけれど、それが簡単に「女」ということばに置き換えられてしまうようでは「ある」ということばをつかった意味がない。「ある」と「女」との違いを明確にするために「女」ということばを借りてきては、「ある」は「女」に引き込まれ、「その他多数の女のひとり」になってしまう。
「女」ということばを拒んで「ある」ということばを選んだかぎりは、とんなことがあっても「女」ということばを出してはいけない。「乳房」や「陰茎」という個別の肉体のこだわりは、「女」そのものではない。たとえばデジタル時計にもパソコンモニターにもキーボードにも乳房や陰茎はある。なんとなれば男はデジタル時計やパソコンにもキーボードにも勃起できるからである。そういうふうに動くのが「現代詩」のことばの暴力である。
で、と私は突然飛躍するのだが。
この行にでてきた「言葉」が結局「まずい」のだと思う。「ある」と書いたとき、それはまだことばにならないことば、つまり「流通言語」にならない鈴木独自のことばだったが、それはことば以前のものなのだから「言葉」と呼んではいけなかったのだ。「言葉」と呼んでしまったために、鈴木のことばの運動は「流通言語」のなかに組み込まれ、そこで動くしかなくなったのだ。
「言葉」に頼らず、「ある」は「ある」のまま生き続けなければならない。生かしつづけなければならない。動かしつづけなければならない。動かしつづければ「ある」は「ある」ではなくなる。詩とは、書いてしまえば、書いたことが別なものになってしまうことだからね。「ある」のまま書きつづければ、「女」を超えた、たったひとりの「恋人」に出合え、たったひとつの「恋」を生きることができ、読者をうらやましがらせること(夢中にさせること)ができたのに、と思う。
鈴木は「頭」がとてもしっかりしている人なのだと思うけれど、その「頭」のしっかりさが「流通言語」と共鳴して、「理解」をつくりあげてしまうようにことばを動かす。どうも、おもしろくなりそこねた作品という気がしてくる。
「わからなくてもいい、ただ俺の声を聞け」という具合にことばを動かすと、きっととてもおもしろいのだと思うけれど。
『あるのうた』には「ある」という文字がゴシックで印刷されている。私の引用では、ちょっとパソコンの操作が面倒くさいので明朝のままにしておく。
あるのうたがきこえる。手をあげてもだれもたちどまりはしない夕暮れが、またぼくの中でひろがってゆく。ビルとビルにはさまれたぼくの手は、空をつかもうとしてあがく。だが、むなしさのみをつかみ、ひきさげるぼくの手をかすめて、あるのうたはきこえあるはいない。
「ある」は何か。まあ、「ある」ととしか言いようのないものなのだろうけれど、私はずぼらな読者なので、ついつい「ある」を「ある」のまま維持できなくて、ほかのことばに置き換える。つまり、私の想像力が動きやすい何かを「ある」に代入し、それでことばを追いかける。
私は最初「ある」を「存在する」という動詞、英語で言えば「be」のようなものかな、と思った。「ある」ということをテーマにした「哲学詩(?)」かな、と。それなら、これはおもしろいぞ、と期待した。「空をつかもうとしてあがく」という「流通言語」はつまらないが、
あるのうたはきこえあるはいない。
このことばの動きはおもしろい。ふつうなら、
あるのうたはきこえ「る、しかし」あるはいない。
と逆接の接続詞があるべきなのだが、それがない。これは鈴木の中で、歌が聞こえるということと「ある」がいないことが矛盾ではないことを語っている。歌が聞こえる、歌が存在するは、あるが不在であることと矛盾しないだけではなく、鈴木にとっては切り離すことができないものなのである。
ほう。
私はここでぐいと引き込まれる。
あるのうたはきこえ「る、ゆえに」あるはいない。
逆接ではなく、順接。そうであるなら、「あるはいない、ゆえにあるのうたはきこえる」ということにもなる。
この、逆接、順接は、いわば意識がとらえた「存在形式」である。
これから、この詩は、どうなるのだろう。
鈴木の書いているものが「存在形式」であるなら、これから以後はその「形式」を構成する鈴木の「存在論」になるはずである。鈴木の「外部の世界」ではなく、鈴木の「内部世界」になるはずである。「形而上学」か。そんな面倒くさいものを鈴木は詩で書こうとしているのか。
ぞくぞくしてくる。
ところが。
長くたれた神がふとぼくをさそう。もりあがった鉄骨の上で、ぼくをつつんだ夕暮れがぽっかりとわれ、あるの形がうかぶ。ある! その時から、あるということばがぼくの中で息づき、だが、ぼくの夕暮れの上には、巨大な街々が倍数倍に繁殖しつづけ、ちいさなあるは、その片隅でこわれたヴァイオリンをかかえてぼくをみあげる。
「長くたれた髪」とは何の修飾だろう。バイオリンをかかえる「ちいさなある」とは何だろう。私は「ある」を別のことばに置き換えて把握できないかとずぼらなことを考えていた。そして、それが「あるのうたはきこえあるはいない。」で拒絶されたと思ったのだが、あれ、これは変だなあ。鈴木自身が「ある」を「あることば」のかわりにつかっているだけなのか、という疑問が浮かんでくる。
「女」ということばを代入するとどうなるだろう。「ぼく(鈴木)」は女のことを思っているだけなのか。そして女のことを思っているということを、女ではなく「ある」ということばに置き換えることで、ことばの運動を何か特別なものにしようとしている、いわば「偽装」しているだけなのか。
うーん。
あるという言葉がぼくの中で息づき、
これは微妙だね。「あるがぼくの中で息づき」ではなく、あくまで「言葉」が息づく。「あるのうたは聞こえる、ゆえにあるはいない、ゆえにあるという言葉がある。」ということになるのかな?「あるはいない、ゆえにあるという言葉がある」。ことばは常に「不在」のものを指し示す。存在するものの前でことばは不要である。
ここには、そういう「哲学」があるかもしれない。
そうすると、ここで描かれる「ある」、つまり「女」はもう鈴木にとっては「不在」の人間ということになる。俗っぽく言うと、失恋した男が昔の女を思い出して、それを「女」ということばを避けて、「ある」という意味ありげなことばで置き換えることによって、ちょっと変わったことを、目新しいことを書こうとしていることになる。
ふるえるオゾンの中、真蒼な波と波の中、俺はあるのまだ熟れていない乳房を、水あそびした後の桃のようにガブリと喰いついてやりたかった。(略)あるのちいさなてのひらが俺の昨夜の情事のあともそのままてのひらに重なっていることだけが、おれにわずかな理性を保たせていた。昨夜の女のみごとにもりあがった陰部、おれはあるの中にそれを求めている自分に自然さを感じていた。
「女のみごとにもりあがった陰部」の「女」はなぜ「ある」ではないのか。どんなふうに意識しているのか、どこまで意識して書いているのかよくわからないが、鈴木は区別しているのだ。「女のみごとにもりあがった陰部」と書いているとき、鈴木は具体的なひとりの女(ある)を思い浮かべるのではなく、違う人間の陰部を、いわば「理想の陰部」を思い浮かべている。そしてそれを「あるの中に」求める。具体的な、いま、そこにいる女に求める。
それを鈴木は「自然」と呼んでいるが、そうなのだろうか。セックスをしていてほかの女(理想の女)のことを思い浮かべるということは、まあ、あるだろうけれどというか、これって変じゃない? これじゃあ女は去って行って当然じゃないだろうか。女は「女という普通名詞」としての存在とセックスしてほしいわけではないだろう。ほかの女はどうでもよくて、ただ「私」という固有の存在とセックスしてほしい。
何か、間違っていない?
たぶんこの「間違い」は「ぼく(俺)」にとってかけがえのない存在を明確にするために、「女」ということばではなく、まだことばにならないことば「ある」ということばをつかったところから発生している。恋人が特別な女であり、「女」ということばでは言い尽くせない、だから「ある」という奇妙なことばにすがってことばを動かしていく--というのはいいのだけれど、それが簡単に「女」ということばに置き換えられてしまうようでは「ある」ということばをつかった意味がない。「ある」と「女」との違いを明確にするために「女」ということばを借りてきては、「ある」は「女」に引き込まれ、「その他多数の女のひとり」になってしまう。
「女」ということばを拒んで「ある」ということばを選んだかぎりは、とんなことがあっても「女」ということばを出してはいけない。「乳房」や「陰茎」という個別の肉体のこだわりは、「女」そのものではない。たとえばデジタル時計にもパソコンモニターにもキーボードにも乳房や陰茎はある。なんとなれば男はデジタル時計やパソコンにもキーボードにも勃起できるからである。そういうふうに動くのが「現代詩」のことばの暴力である。
で、と私は突然飛躍するのだが。
あるという言葉がぼくの中で息づき、
この行にでてきた「言葉」が結局「まずい」のだと思う。「ある」と書いたとき、それはまだことばにならないことば、つまり「流通言語」にならない鈴木独自のことばだったが、それはことば以前のものなのだから「言葉」と呼んではいけなかったのだ。「言葉」と呼んでしまったために、鈴木のことばの運動は「流通言語」のなかに組み込まれ、そこで動くしかなくなったのだ。
「言葉」に頼らず、「ある」は「ある」のまま生き続けなければならない。生かしつづけなければならない。動かしつづけなければならない。動かしつづければ「ある」は「ある」ではなくなる。詩とは、書いてしまえば、書いたことが別なものになってしまうことだからね。「ある」のまま書きつづければ、「女」を超えた、たったひとりの「恋人」に出合え、たったひとつの「恋」を生きることができ、読者をうらやましがらせること(夢中にさせること)ができたのに、と思う。
鈴木は「頭」がとてもしっかりしている人なのだと思うけれど、その「頭」のしっかりさが「流通言語」と共鳴して、「理解」をつくりあげてしまうようにことばを動かす。どうも、おもしろくなりそこねた作品という気がしてくる。
「わからなくてもいい、ただ俺の声を聞け」という具合にことばを動かすと、きっととてもおもしろいのだと思うけれど。
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