野村喜和夫『難解な自転車』(書肆山田、2012年08月30日発行)
野村喜和夫『難解な自転車』は難解な詩集なのか。そうあってほしいと思って野村はタイトルをつけたのかもしれない。「難解」というのは、わからない、ということだけれど、では何がわからないとき難解というのだろうか。
「現代詩講座」の受講生がいると思って、いきなり質問してみようか。
私は、まあ、そういう「答え」が返ってくるまで質問をつづけると思う。「難解」というのは、実は、質問の仕方がわからないということだと思う。自分には何がわかっていて、そのわかっていることと、いまここに書かれていることばのわからない部分がどうつながっているのかはっきりしない。どこから質問をしていいのかわからない。
変な言い方になるが、質問することができれば、そこからおのずと答えがうまれてくるんじゃないかと思う。答えは読んでいることばにあるのではなく、読んでいる読者の「肉体」のなかにあるのだと思う。
では。
野村の詩に対して、どんな質問ができるだろうか。うーん、とまどうなあ。巻頭に「(どこかで墨が匂ふね)」という詩がある。行わけで、その活字の並べ方がとても手が込んでいる。
野村はどう答えるかわからないが、まあ、野村との一人二役をやってみよう。
あ、これでは何も始まらない。質問の仕方が間違っているんだね。私は質問の仕方をしらなかったことになる。難解以前の問題である。
うーん、また行き詰まってしまった。
あれっ、また同じだ。
たぶん、どこまでつづけても私は同じ答えしか受け取ることができないだろうと思う。私の質問のしたかは、では、どこが間違っているのだろうか。
これは簡単。
私は私の「肉体」のなかにあるものをさらけだしていないからだ。最初の質問こそ「めんどうくさい形」ということばのなかに私が出てくるけれど、これははしょりすぎ。ほんとうは、たとえば次のように質問しなければならない。
こんな質問で、いったい何がわかるのか。見当がつかないでしょ? いや、私も見当がつかないのだけれど、そういうふうに質問してみると、私は、どうも書かれてることばと「空白」についてこの詩から何かを考えようとしている自分を発見する。
つまり。
ここから「誤読」が始まる、「誤読」できることを発見する。詩なんて契約書ではないのだから、勝手に読んで、勝手に「楽しかった」と言ってしまえばいいのだ。そうすれば作者に勝つことができるおもしろい体験なのだ。まあ、別に勝たなくてもいいのだけれど。作者をびっくりさせてやればいいだけのことなのだけれど。作者は読者をびっくりさせようとして書いている。そうであるなら、読者はびっくりするだけではなく、そのびっくりで作者に仕返し(?)をすればいいだけである。仕返しこそが「お礼」なのだ。
で、どんな「誤読」をするか。
空白を数えながら詩の形を調整すると、ここに書かれていることばがどれもこれも空白と向き合っていることがわかる。
で、その「空白」って何?
ここからは野村には質問しないで、自分の肉体のなかにある「空白」を探しにゆく。まあ、わからないね。「空白」というだけでは、自分の肉体のなかにどんな空白があるか、というのは抽象的すぎて、自分自身に対する質問にもなりえていない。
で、少しだけ(ほんとうの形は引用とは違うのだけれど)引用してみる。
空白を「目印」に、ことばがぽきっぽきっと折れて次の行へ動いていく。
ここから私は、そうか「空白」というのは「飛躍」と関係があるのだな、と考えはじめる。つまり、「誤読」をはじめる。いまの私の書いていることがそのまま「空白」を含んでいるのだが--つまり言いなおすと、何かを書こう(言おう)としてことばを動かしている。ところが、そのことばをうまく「論理的」に結びつけることができない。きのう読んだ樫田の詩のように「だから」というような「理由の述語」でことばを結びつけていくことができない。下からことばを積み上げて「答え」という建物を造るのではなく、ふいにこれが答えだと思ったものをつかんでしまう。土台抜きで(論理的な道をへずに)、直感として答えをつかんでしまう。それから、もし理由を見つけることができればそれを書く。そんな具合に飛躍する。そういうことって、あると思う。
かなりの脱線、余談になるのだが、私は小学校のとき「鶴亀算」が得意であった。問題を読むと、その場で答えが出てしまう。私は自分の答えがあっているがどうか、試し算で確かめるだけ。そういう感じ。下から論理で積み上げるのではなく、上からこれでいいのか論理を確かめる--そのときの飛躍のようなもの。
空白は飛躍である、飛躍のジャンプ台である--と感覚の意見に従って、書いてみたりする。
それから「旧仮名遣い」と空白の関係も考えてみる。
「逢ふやうに」「逢うように」--このふたつを比較すると、旧仮名遣いの方に空白がある。「音」の空白がある。別な言い方をすると、旧仮名遣いのときは、私の声帯は動かない。喉は動かない。ことばが「音」、あるいは喉、あるいは耳を通らずに動く。それはほんとうは音も喉も耳も通っているかもしれないが、早すぎて認識できないのかもしれない。早すぎて「空白」を通りすぎた、あるいはショートカットした、という感じ。
それはまた別なことばで言えば、旧仮名遣いでうごくことばは、口語の仮名遣いとは違う時空間を(空白を)動いているために、そこに「空白」を感じるということかもしれない。
でも、それはほんとうに「空白」?
違うかもしれない。その存在を知らないために「空白」と思っているだけで、ほんとうはそこは「豊かな」時空間かもしれない。
そうだとすると、野村の書いている詩の形--その「空白」は、そこに書かれていることば以上に「豊かな」何かをあらわしているのかもしれない。
でも、それって、抽象的すぎる。
ほかに何か言えない?
考えてみよう。調べてみよう。
なんというか、ばかばかしい感じもするのだが、「基」と「墓」という漢字は字面の感じが似ているねえ。(だじゃれです、もちろん。)
さらに、
あれっ、「基」「墓」は「墨」にも似ていないことはないなあ。
何なんだろう。
「まなざし」ということばがあるが、視力は、不思議な空白を飛び越えて、「基」「墓」「墨」を渡り歩く。そしてそのとき野村の肉体は「匂ふ」を引き寄せる。「基」「墓」「墨」を引き寄せるのは視覚(視力)なのに、それを統合するのは嗅覚(匂ふ)なのだ。この瞬間、ふっと、「肉体」が見えない? 感じられない?
何か名づけることのできない「空白」をかかえこんで「ひとつ」になっている肉体が感じられない?
ここから先を書いていくのは、またまためんどうくさいので、私のいいかげんな癖をそのまま拡大して結論を言ってしまうと。
あ、野村は「空白」と向き合いながら「肉体」というもの、いまここに「私がある」ということを楽しんでいるのだなあ、と感じる。
この「遊び」についていく? やめる?
野村なら、逆な形で質問することになるね。
<質問>この「遊び」についてくる? やめる?
野村喜和夫『難解な自転車』は難解な詩集なのか。そうあってほしいと思って野村はタイトルをつけたのかもしれない。「難解」というのは、わからない、ということだけれど、では何がわからないとき難解というのだろうか。
「現代詩講座」の受講生がいると思って、いきなり質問してみようか。
<質問>「難解」ということば、知ってますか?
<答え>知っています。
<質問>どういう意味?
<答え>えっ、むずかしい、という意味です。
<質問>何がむずかしいのかな。
<答え>書いてあることばが私がふつうに使っていることばと違って、高級。
<答え>意味というか、結論がわからない。答えがわからない。
<質問>もし、書いたひとが目の前にいたとしたら、質問できる?
<答え>どういう意味ですか?
<質問>わからない部分を取り上げて、どんなふうにわからないか言うことができる?
<答え>できないと思う。どこがわからないか、わからない。
私は、まあ、そういう「答え」が返ってくるまで質問をつづけると思う。「難解」というのは、実は、質問の仕方がわからないということだと思う。自分には何がわかっていて、そのわかっていることと、いまここに書かれていることばのわからない部分がどうつながっているのかはっきりしない。どこから質問をしていいのかわからない。
変な言い方になるが、質問することができれば、そこからおのずと答えがうまれてくるんじゃないかと思う。答えは読んでいることばにあるのではなく、読んでいる読者の「肉体」のなかにあるのだと思う。
では。
野村の詩に対して、どんな質問ができるだろうか。うーん、とまどうなあ。巻頭に「(どこかで墨が匂ふね)」という詩がある。行わけで、その活字の並べ方がとても手が込んでいる。
野村はどう答えるかわからないが、まあ、野村との一人二役をやってみよう。
<質問>なぜ、こんなめんどうくさい形にしたんですか?
<野村>したかったから。
あ、これでは何も始まらない。質問の仕方が間違っているんだね。私は質問の仕方をしらなかったことになる。難解以前の問題である。
<質問>旧仮名遣いで書かれているけれど、なぜ旧仮名遣いにしたんですか?
<能村>したかったから。
うーん、また行き詰まってしまった。
<質問>途中に、
基
(とか
墓
という行が出てくるけれど、これは何がいいたいのですか?
<野村>ただ書いてみたかったから。
あれっ、また同じだ。
たぶん、どこまでつづけても私は同じ答えしか受け取ることができないだろうと思う。私の質問のしたかは、では、どこが間違っているのだろうか。
これは簡単。
私は私の「肉体」のなかにあるものをさらけだしていないからだ。最初の質問こそ「めんどうくさい形」ということばのなかに私が出てくるけれど、これははしょりすぎ。ほんとうは、たとえば次のように質問しなければならない。
<質問>この詩をワープロをつかって引用しようとすると、私は空白を数えないといけない。野村さんも空白を数えながらワープロで書いたんですか?
<答え>(省略)
<質問>私は一行一行数えるのがめんどうくさくて、全部打ち終わってから空白を調整したのだけれど、野村さんは最初から空白を意識しながらことばを書き進めたんですか?
<答え>(省略)
<質問>書きはじめた行が予想より長くなって、尻がそろわないときはどうするんですか? 空白を増やしたり減らしたりして調整するんですか?
<答え>(省略)
こんな質問で、いったい何がわかるのか。見当がつかないでしょ? いや、私も見当がつかないのだけれど、そういうふうに質問してみると、私は、どうも書かれてることばと「空白」についてこの詩から何かを考えようとしている自分を発見する。
つまり。
ここから「誤読」が始まる、「誤読」できることを発見する。詩なんて契約書ではないのだから、勝手に読んで、勝手に「楽しかった」と言ってしまえばいいのだ。そうすれば作者に勝つことができるおもしろい体験なのだ。まあ、別に勝たなくてもいいのだけれど。作者をびっくりさせてやればいいだけのことなのだけれど。作者は読者をびっくりさせようとして書いている。そうであるなら、読者はびっくりするだけではなく、そのびっくりで作者に仕返し(?)をすればいいだけである。仕返しこそが「お礼」なのだ。
で、どんな「誤読」をするか。
空白を数えながら詩の形を調整すると、ここに書かれていることばがどれもこれも空白と向き合っていることがわかる。
で、その「空白」って何?
ここからは野村には質問しないで、自分の肉体のなかにある「空白」を探しにゆく。まあ、わからないね。「空白」というだけでは、自分の肉体のなかにどんな空白があるか、というのは抽象的すぎて、自分自身に対する質問にもなりえていない。
で、少しだけ(ほんとうの形は引用とは違うのだけれど)引用してみる。
逢ふやうに
すすむまなざし
(退屈なのね
ちがふ
まれであり束の間
創世
(でも
空白を「目印」に、ことばがぽきっぽきっと折れて次の行へ動いていく。
ここから私は、そうか「空白」というのは「飛躍」と関係があるのだな、と考えはじめる。つまり、「誤読」をはじめる。いまの私の書いていることがそのまま「空白」を含んでいるのだが--つまり言いなおすと、何かを書こう(言おう)としてことばを動かしている。ところが、そのことばをうまく「論理的」に結びつけることができない。きのう読んだ樫田の詩のように「だから」というような「理由の述語」でことばを結びつけていくことができない。下からことばを積み上げて「答え」という建物を造るのではなく、ふいにこれが答えだと思ったものをつかんでしまう。土台抜きで(論理的な道をへずに)、直感として答えをつかんでしまう。それから、もし理由を見つけることができればそれを書く。そんな具合に飛躍する。そういうことって、あると思う。
かなりの脱線、余談になるのだが、私は小学校のとき「鶴亀算」が得意であった。問題を読むと、その場で答えが出てしまう。私は自分の答えがあっているがどうか、試し算で確かめるだけ。そういう感じ。下から論理で積み上げるのではなく、上からこれでいいのか論理を確かめる--そのときの飛躍のようなもの。
空白は飛躍である、飛躍のジャンプ台である--と感覚の意見に従って、書いてみたりする。
それから「旧仮名遣い」と空白の関係も考えてみる。
「逢ふやうに」「逢うように」--このふたつを比較すると、旧仮名遣いの方に空白がある。「音」の空白がある。別な言い方をすると、旧仮名遣いのときは、私の声帯は動かない。喉は動かない。ことばが「音」、あるいは喉、あるいは耳を通らずに動く。それはほんとうは音も喉も耳も通っているかもしれないが、早すぎて認識できないのかもしれない。早すぎて「空白」を通りすぎた、あるいはショートカットした、という感じ。
それはまた別なことばで言えば、旧仮名遣いでうごくことばは、口語の仮名遣いとは違う時空間を(空白を)動いているために、そこに「空白」を感じるということかもしれない。
でも、それはほんとうに「空白」?
違うかもしれない。その存在を知らないために「空白」と思っているだけで、ほんとうはそこは「豊かな」時空間かもしれない。
そうだとすると、野村の書いている詩の形--その「空白」は、そこに書かれていることば以上に「豊かな」何かをあらわしているのかもしれない。
でも、それって、抽象的すぎる。
ほかに何か言えない?
考えてみよう。調べてみよう。
基
(とか
墓
なんというか、ばかばかしい感じもするのだが、「基」と「墓」という漢字は字面の感じが似ているねえ。(だじゃれです、もちろん。)
さらに、
基
(とか
墓
(とか思ひ描くと
どこかで墨が
匂ふね
(ちがふ
すすむまなざし
あれっ、「基」「墓」は「墨」にも似ていないことはないなあ。
何なんだろう。
「まなざし」ということばがあるが、視力は、不思議な空白を飛び越えて、「基」「墓」「墨」を渡り歩く。そしてそのとき野村の肉体は「匂ふ」を引き寄せる。「基」「墓」「墨」を引き寄せるのは視覚(視力)なのに、それを統合するのは嗅覚(匂ふ)なのだ。この瞬間、ふっと、「肉体」が見えない? 感じられない?
何か名づけることのできない「空白」をかかえこんで「ひとつ」になっている肉体が感じられない?
ここから先を書いていくのは、またまためんどうくさいので、私のいいかげんな癖をそのまま拡大して結論を言ってしまうと。
あ、野村は「空白」と向き合いながら「肉体」というもの、いまここに「私がある」ということを楽しんでいるのだなあ、と感じる。
この「遊び」についていく? やめる?
野村なら、逆な形で質問することになるね。
<質問>この「遊び」についてくる? やめる?
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