石毛拓郎「イワシの頭」(「パーマネントプレス」夏の号、2012年07月31日発行)
石毛拓郎「イワシの頭」には「砂漠の空の下では、若者が不自由と闘っている」というサブタイトルがついている。で、その作品はというと。
なぜサブタイトルがついているのか。そんなことは、めんどうくさいのであとから考えよう。サブタイトルがついている、と書き出したのだが、それは実はそんなサブタイトルなんかめんどうくさい、と言いたいためなのである。
なぜめんどうくさいか--ということは、しかし書いておきたい。私はこういうめんどうなことが好きなのだ。
サブタイトルがめんどうくさいのは、それをふっとばすくらい「イワシの頭」がおもしろいからである。おれのすぐそばで、おんなが撃たれた? そんな現実って、ある? いまの日本にはありっこない。でも、おんながイワシの頭を素手でもぎ取るということは? そういうアルバイトは? あると思うなあ。おんながすぐそばで銃で撃たれて死ぬなんてことは私は「肉体」では感じとることができないが、イワシの頭を銃でもぎ取るというのは「肉体」で感じとることができる。いやあ、なまなましい。頭をもいで、それから指で腹を裂いていく、というのはしかし別のひとかな? 流れ作業で頭をもぎ取るということだけをしているのかもしれない。そういうとき、おれも同じように頭をもいでいるのだろうなあ。指は血まみれ。そのなまなましさが、「肉体」のなかに生きているものを刺激するねえ。猥褻なことばがどうしたって浮かんでくるだろう。
この肉体にぴったりくっついている感じがこの詩の面白さであり、そこにぐいとひっぱられる。それをもっと読みたい。--のに、その感じをサブタイトルがじゃまする。これがめんどうくさい感じの原因である。
石毛にしてみれば、砂漠のある国で戦いがあり、そこではだれもが日常をひきずったまま死んでいく。その日常は、たとえていえばおんなが素手でイワシを頭をもぎ取るような、なまなましい暮らしである。つらくておもしろくもない仕事だけれど、そういうことをやりながら「年少のおとこ」に猥褻なことばを浴びせながら、その反応を楽しむというよろこびもある、というようなものである。つまり、その日常というのは砂漠のある国に特徴的なものではなく、日本でも港のあるところへ行けばだれでも見ることのできるようなものである。日常というのは、時空を超えて繋がっているし、そこで動いていることばも似たりよったりである。それなのに、ある国では若者が戦いながら死んでいく。そして日本ではそうではない。そこから何かを感じたい、考えたいのかもしれない。
あ、ここで私はまためんどうくさいなあ、と感じている。
でもまあ、この詩は、そういう具合に、めんどうくさいなあ、と感じながら、そのめんどうくさいことにしばらくつきあってみるという気にさせるから、これは「大成功」なのかもしれないなあ。
で、石毛の「正解(?)」は、そうやって砂漠の国へと想像力を暴走させながら、そこで「正義」を云々しないことだな。日本の現実へするっと戻ってくる。まあ、ここから日本の現実に対する批判をていねいにくみとろうとすると、まためんどうくさいことになる。だから、そういうめんどくさいことはしない。
砂漠の少年の戦いは、こうやっておれの戦いに交錯しながら変化していくのだが。
そこにパラレルな情動がある、といってしまえばめんどうくさくない「流通言語の批評」になってしまうなあ。そういう危険性があるなあ、と私は一方で感じるから、めんどうくさい、めんどうくさいということばで、この詩を読んでいるひとをめんどうくさい方向へひっぱっていきたいと欲望しているのかもしれない。
で。
私の「現代詩講座」なら、ここでこんな質問をしてみたい。
答えられないよね。
いや、これはね、答えられなくていいんです。私の質問はいつでも答えられないことを聞いているのです。答えられないとわかったとき、そのことばのすばらしさが納得できる。「イワシの頭」と石毛が書いたときの「発見」に触れることができる。イワシの頭をもぎ取るという仕事、そのなかにしかないものが、ふっと肉体に触れてくる。これを「体験」という。肉体にふれて、それから体験にふれる。それを揺さぶってみる。
そのことばになる前の感じ、それを肉体で確かめるために、私は質問をする。
「イワシの頭」は極端な例だったかもしれないが、以前河邉由紀恵の『桃の湯』をみんなといっしょに読んだとき、河邉の書いている「ねっとり」「ざらり」を自分のことばで言いなおすとどうなる?と質問したら、やはりみんな悩んでしまった。わかっているのに、ほかのことばが出てこない。言いなおせない。言いなおせなくて考えはじめる。それは自分の肉体をさぐりはじめることだ。肉体のなかに眠っている何かを揺り起こすことだ。そのとき、読者のなかで詩が動きはじめる。
体験を自分のことばでとらえなおすこと--それがおもしろいのだ。
めんどうくさいことは、めんどうくさいなあ、こんなことを説明するのはばかげている、言いなおさなくたってそれでわかるじゃないかと思いながら、それでも自分の肉体のなかへことばを探しに行く。めんどうくさいけれど、そうしてみると自分というものがだんだんわかっている。そしてそれがわかると世の中が少し違って見えてくる。その少しに、どれだけ長い間寄り添うことができるか。その「持続力」が問題になる。「持続」していると、つまりそういうことをいつも肉体にかかえこんでいると、その人も少しずつかわってくる。
なんだか、ずれてしまったかな?
石毛は「イワシの頭」ということば、いや「体験」、つまり石毛の肉体のなかに残っている「現実」をいま私たちの前に投げ出し、ふれてみろよ、と挑発している。「イワシの頭」を「体験」からひっぱりだしたところが、この詩のいちばんいいところだ。「イワシの頭」をひっぱりだしたら、それが勝手に動いていって、わいせつなことばを浴びせるおんなや、すけべな若旦那、あわれな少女を引き出し、それを見ている「おれ」をもひっぱりだし、動きはじめた。
いい詩だねえ。
石毛拓郎「イワシの頭」には「砂漠の空の下では、若者が不自由と闘っている」というサブタイトルがついている。で、その作品はというと。
おれの頭を銃弾がかすめていった
ふりむくと
声も出さずに
一人のおんなが倒れた
見覚えがある
かつてイワシの頭を
素手でもぎとるアルバイトをしていた人だ
はっきりと覚えている
目の前に倒れているおんなは
いつも年少のおれに猥褻な情句を
浴びせてくれた人だった
銃が荒れ狂っている
銃が泳いでいる
身元も問わず
呆然と立ちすくむおれの足元で
ピクリともしないおんなは
イワシ臭いコンクリの床に釘づけである
なぜサブタイトルがついているのか。そんなことは、めんどうくさいのであとから考えよう。サブタイトルがついている、と書き出したのだが、それは実はそんなサブタイトルなんかめんどうくさい、と言いたいためなのである。
なぜめんどうくさいか--ということは、しかし書いておきたい。私はこういうめんどうなことが好きなのだ。
サブタイトルがめんどうくさいのは、それをふっとばすくらい「イワシの頭」がおもしろいからである。おれのすぐそばで、おんなが撃たれた? そんな現実って、ある? いまの日本にはありっこない。でも、おんながイワシの頭を素手でもぎ取るということは? そういうアルバイトは? あると思うなあ。おんながすぐそばで銃で撃たれて死ぬなんてことは私は「肉体」では感じとることができないが、イワシの頭を銃でもぎ取るというのは「肉体」で感じとることができる。いやあ、なまなましい。頭をもいで、それから指で腹を裂いていく、というのはしかし別のひとかな? 流れ作業で頭をもぎ取るということだけをしているのかもしれない。そういうとき、おれも同じように頭をもいでいるのだろうなあ。指は血まみれ。そのなまなましさが、「肉体」のなかに生きているものを刺激するねえ。猥褻なことばがどうしたって浮かんでくるだろう。
この肉体にぴったりくっついている感じがこの詩の面白さであり、そこにぐいとひっぱられる。それをもっと読みたい。--のに、その感じをサブタイトルがじゃまする。これがめんどうくさい感じの原因である。
石毛にしてみれば、砂漠のある国で戦いがあり、そこではだれもが日常をひきずったまま死んでいく。その日常は、たとえていえばおんなが素手でイワシを頭をもぎ取るような、なまなましい暮らしである。つらくておもしろくもない仕事だけれど、そういうことをやりながら「年少のおとこ」に猥褻なことばを浴びせながら、その反応を楽しむというよろこびもある、というようなものである。つまり、その日常というのは砂漠のある国に特徴的なものではなく、日本でも港のあるところへ行けばだれでも見ることのできるようなものである。日常というのは、時空を超えて繋がっているし、そこで動いていることばも似たりよったりである。それなのに、ある国では若者が戦いながら死んでいく。そして日本ではそうではない。そこから何かを感じたい、考えたいのかもしれない。
あ、ここで私はまためんどうくさいなあ、と感じている。
でもまあ、この詩は、そういう具合に、めんどうくさいなあ、と感じながら、そのめんどうくさいことにしばらくつきあってみるという気にさせるから、これは「大成功」なのかもしれないなあ。
で、石毛の「正解(?)」は、そうやって砂漠の国へと想像力を暴走させながら、そこで「正義」を云々しないことだな。日本の現実へするっと戻ってくる。まあ、ここから日本の現実に対する批判をていねいにくみとろうとすると、まためんどうくさいことになる。だから、そういうめんどくさいことはしない。
かつてイワシの頭は
刃物を使わず素手で捌けといった
その教訓に拘泥しているからか
イワシの頭より銃に畏怖を感じるからか
生気の失せた加工場の若旦那が
猟銃の筒先で
日雇いの年端もいかぬ娘のあそこを
少年の耳目に鮮やかに残っている
イワシの腹に
指を食い込ませながら
おのがじしの殺めたい鬼気を
よほど避けられないでいる
だからよけいに
おれはイワシの身体を持て囃し
血走った眼で
呪いをかけている。
砂漠の少年の戦いは、こうやっておれの戦いに交錯しながら変化していくのだが。
そこにパラレルな情動がある、といってしまえばめんどうくさくない「流通言語の批評」になってしまうなあ。そういう危険性があるなあ、と私は一方で感じるから、めんどうくさい、めんどうくさいということばで、この詩を読んでいるひとをめんどうくさい方向へひっぱっていきたいと欲望しているのかもしれない。
で。
私の「現代詩講座」なら、ここでこんな質問をしてみたい。
<質問> 石毛が書いている「イワシの頭」を自分の日常にある何かと置き換えてみて。
「イワシの頭」に一番近いものは何?
答えられないよね。
いや、これはね、答えられなくていいんです。私の質問はいつでも答えられないことを聞いているのです。答えられないとわかったとき、そのことばのすばらしさが納得できる。「イワシの頭」と石毛が書いたときの「発見」に触れることができる。イワシの頭をもぎ取るという仕事、そのなかにしかないものが、ふっと肉体に触れてくる。これを「体験」という。肉体にふれて、それから体験にふれる。それを揺さぶってみる。
そのことばになる前の感じ、それを肉体で確かめるために、私は質問をする。
「イワシの頭」は極端な例だったかもしれないが、以前河邉由紀恵の『桃の湯』をみんなといっしょに読んだとき、河邉の書いている「ねっとり」「ざらり」を自分のことばで言いなおすとどうなる?と質問したら、やはりみんな悩んでしまった。わかっているのに、ほかのことばが出てこない。言いなおせない。言いなおせなくて考えはじめる。それは自分の肉体をさぐりはじめることだ。肉体のなかに眠っている何かを揺り起こすことだ。そのとき、読者のなかで詩が動きはじめる。
体験を自分のことばでとらえなおすこと--それがおもしろいのだ。
めんどうくさいことは、めんどうくさいなあ、こんなことを説明するのはばかげている、言いなおさなくたってそれでわかるじゃないかと思いながら、それでも自分の肉体のなかへことばを探しに行く。めんどうくさいけれど、そうしてみると自分というものがだんだんわかっている。そしてそれがわかると世の中が少し違って見えてくる。その少しに、どれだけ長い間寄り添うことができるか。その「持続力」が問題になる。「持続」していると、つまりそういうことをいつも肉体にかかえこんでいると、その人も少しずつかわってくる。
なんだか、ずれてしまったかな?
石毛は「イワシの頭」ということば、いや「体験」、つまり石毛の肉体のなかに残っている「現実」をいま私たちの前に投げ出し、ふれてみろよ、と挑発している。「イワシの頭」を「体験」からひっぱりだしたところが、この詩のいちばんいいところだ。「イワシの頭」をひっぱりだしたら、それが勝手に動いていって、わいせつなことばを浴びせるおんなや、すけべな若旦那、あわれな少女を引き出し、それを見ている「おれ」をもひっぱりだし、動きはじめた。
いい詩だねえ。
石毛拓郎詩集レプリカ―屑の叙事詩 (1985年) (詩・生成〈6〉) | |
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