野村喜和夫『難解な自転車』(2)(書肆山田、2012年08月30日発行)
「空白」について、私はきのうテキトウなことを書いた。どうもよく覚えていないが、でもそのときはほんとうにそう感じて書いたのだと思う。というのは正しい「弁明」ではなくて、正しくは、私は書くときは何も考えていない、のである。なにも考えずに書けるのかと問われたら、私は考えないから書けるのだとしか言いようがない。考えたら、ことばが動かない。
で、きのうの「空白」とつながるかどうかわからないが、「探求」で「空白」を探求してみたい。(親父ギャグです、すみません。←というようなことを書いてしまうのは、やっぱり何も考えていないからだね。)
この書き出しには「空白」がある。つまり書かれていないことがある。書かれていないのは、それを野村が知らないからだ。具体的に言うと「カーン、カーン、」という音が、何の音か野村は知らない。(野村ではなく、詩のなかの話者というべきかもしれないけれど、そういうめんどうくさいことは苦手なので、野村は、ということにしておく。)どこから聞こえてくるかも知らない。
この知らない部分が「空白」。つまり空白とは意識と対称の関係の途切れている部分、切断している部分である。
しかし、それは完全に隔絶しているわけではない。途切れているのだけれど、つながっている部分もある。
音が耳に聞こえてくる。野村と音がつながっている。そこには「空白」はない。
いや、そうかな?
簡単には言えないかもしれない。
まあ、これはちょっとむずかしい。
別なことから書き直してみる。私は考えると行き詰まるので、行き詰まると考えることをやめて感想にもどるのだ。
この音、聞こえてくる? 私には聞こえました。「意味」はどうでもよくて、ただ聞こえたんですねえ。それも、その音が聞こえて瞬間、これは夜の街だと思った。夜、何も見えない(わけではないが、まあ、そういうふうに「常套句」で私は世界をとらえる。)何も見えないと感じるのは、たぶん、その音がどこから聞こえてくるか、それが何の音かわからないからだと思う。
「見えない」と「わからない」が一致する。
そこに「空白」がある。--のだけれど、夜だからそれは「空白」というより「空黒」かもしれない。「空白」というと、あいだに何もない感じがするが、「空黒」と書くと、あいだにいろんなものがつまっていて、それがじゃましているという感じがする。
私がいま書いていることは、まあ、そういういいかげん、テキトウなことなのだが、意外とそのいいかんげん、テキトウのなにか、ほんとうがあるかもしれない。
「空白」は虚無につながるが、「空黒」は虚無とは違うなあ。逆だなあ。「豊かな」感じがする。--あ、これに似たことをきのう書いたかもしれないなあ、と思う。
いいかげん、テキトウに書いても、ことばはどこかでつながっているのだ。きっと。
あ、また、考えはじめている。考えはじめると、すぐ行き詰まる。
これが聞こえる。その音が私には聞こえた。そしてその瞬間、夜の街が見えた。それが正しいか正しくないか、それはわからないが、正しかろうが正しくなかろうが、その音が聞こえ、そのときの情景が私の肉体のなかにくっきりと存在するなら--逆に言うと、私の肉体が野村の書いたことばのなかに入って言って、そこにあることばを自分のことばのように感じてしまったとしたら、あとは何を書いてもいいのだ。「誤読」していいのだ、と私は感じている。
これはたしかに「空白」を感じさせる音だ。このとき「空白」は「距離」でもある。つまり、自分のとなりにある音ではない。遠くで、「カーン、カーン、」と鳴っている。
でも、鳴っているのかな?
「聞こえてくる」と野村は書いているが、「聞こえてくる」とは書いていない。
これは大事だなあ。
もしかすると、その音と「遠く」にあるのではなく、「近く」にあるのかもしられない。「近く」にありすぎて「距離」がわからない。
このとき「空白」はもっと「空黒」に近づくかもしれない。「空」は「空」ではなく、反対語は何?、「密」かもしれない。「密黒」。こんなことばはない(と思う)が、ふとそんなことばがどこからともなくやってくる。
こういうことを書くとき、「空白」ではなく「密黒」というようなテキトウな造語をつくりだしているとき、私は、対称といえばいいのだろうか、ものといえばいいのだろうか、外部といえばいいのだろうかよくわからないが、そういうものではなく、逆のもの、つまり「身体」のことをふと思い浮かべている。
それは夜の街のどこかから聞こえてくるのではなく、自分の身体から聞こえてくるのではないか、とそふ感じる。
野村も、そういうタイプかな?
「何の音だろうと思って耳をすますと」というのは「常套句」であるけれど、よくよく読むと不思議な気持ちになる。野村は「耳をすます」だけではなく、何の音だろうと「思って」耳をすます。そうすると、そのとき野村は「思う」ときの肉体の動きも「雑音」として聞いてしまう。「音」を純粋に聞くのではなく、「何の音だろう」という「思い」に対する「答え」を聞こうとしている。「思い」とそれに対する「答え」の方へ、もうひとつの耳が動いてしまう。で、その変な動き、聞こえない「答え」を寄稿とする「ノイズ」に邪魔されて、「カーン、カーン」が聞こえなくなる。
で、「耳をゆるく保っていると」、つまり「聞く」ことをやめてぼんやりしていると、つまり「何の音だろうと思う」こともやめて放心していると、また
それは、つまり「何の音だろう」と「思うこと」をやめたときに聞こえる。
もしそうであるなら、その音は外部にあるのではなく、野村の内部にしかない。もし外部にある音なら、何と思っていようと聞こえてくる。
この「それは」もとてもおもしろい。なぜ「それは」と指示しなければならなかったのか。指示することで意識しなければならなかったのか。指示しないと存在しないからかもしれない。それは、つまり、その音が外部にはなく、野村の内部にあるからだ、ということの証拠にもなる。
あ、私は、また考えはじめている?
うーん、考えると、テキトウに感じるは明確につかいわける(?)のがむずかしいが、考えるのはやめよう。感じよう。感じたことを書こう。
人はだれでも自分の「内部」にあるものしか理解できない。「外部」がどうやって内部に入ってくるのかわからないけれど、たぶん、知らず知らずにだろうなあ。なにかを繰り返しているうちに、知らず知らずに、受け入れるともなく受け入れているものが内部にたまってくる。そして、それがある日、突然、結晶する。
たとえば、「カーン、カーン、」という音のように。その「音」に意味はあるか、ないか、まあ、聞こえたということは、意味になろうとするものがあるということなのかもしれない。
こういうことはだれにでもある、と野村は断定して、この詩を次のようにつづける。
野村の「カーン、カーン」はレオ・シラードの《奴らを高く吊るせ》である。で、それを感じた瞬間から、野村はレオ・シラードになってしまう。私が「カーン、カーン、」を読んだ瞬間、野村になってしまったように。
「空白」はそんなふうにして消えてしまう。
「カーン、カー、」は街のどこから化ではなく「レオ・シラード」から聞こえてきたのだ。そのとき野村とレオ・シラードのあいだにあるのは「空白」ではない。かといって「空黒」でもない。
何だろうなあ。
あ、また考えはじめたね。私は。
考えたことは振り捨てよう。ただ、野村とレオ・シラードが「一致」したことを感じよう。「カーン、カーン、」と《奴らを高く吊るせ》が重なり、結晶したのを感じるままに、感じよう。
そこから「意味」を考えるのではなく、「意味」になりそうになったら、それを振り払って感じよう。
なぜ、こんなことをしつこく書いているかというと。
実は、この詩は、このあと「東北大震災(福島原発事故)」へとつながっていくのだが、その「つなぎ目」に「既製の思想(思考)」が侵入してこないように、激しく抵抗している。「流通言語」に頼って「考える(誰かの考えに引きずられ、染まってしまう)」のではなく、考えることを拒絶して「感じる」ことに徹しようとしている。
考える、それをまとめるのはあとでいい。もっとあとにならないと、そういうものは肉体を正確にくぐりおわらない。阪神大震災のとき季村敏夫は『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれる」と書いたが、「考え」と遅れてしかやってこない。遅れを、私たちは待たなければいけない。待っていないと「考え」は「肉体」になるまえに「流通言語」として誰かに利用されてしまう。そういうことに、野村は、ここで厳しく抵抗している。
あ、また私は考えはじめているね。
なぜ、こんなふうに考えはじめてしまうかというと、きょうの「日記」にあてる予定時間をオーバーしてしまって、私が感じることをやめて、しまったからだ。
まあ、いいか。
この詩は「東日本大震災後」に書かれた、もっとも印象的な(つまりもっとも正直な)詩のひとつであると感じる。「東日本大震災」を野村は「カーン、カーン、」という音で実感した。そのことが、読みはじめた瞬間からわかる。わかるというのは、変だけれど、予感してしまう。この予感は、読み進むと「感じ」ではなく「考え」になる。そして「意味」にもなっていくのだが、私はそんなぐあいにこの詩を動かしたくないので、つまり、予感に引きずられて動いたということだけを感想として書き残したいので、あえて最初の2ページ分だけを引用して、そのときに動いた「感じ」だけを書いてみた。
「空白」について、私はきのうテキトウなことを書いた。どうもよく覚えていないが、でもそのときはほんとうにそう感じて書いたのだと思う。というのは正しい「弁明」ではなくて、正しくは、私は書くときは何も考えていない、のである。なにも考えずに書けるのかと問われたら、私は考えないから書けるのだとしか言いようがない。考えたら、ことばが動かない。
で、きのうの「空白」とつながるかどうかわからないが、「探求」で「空白」を探求してみたい。(親父ギャグです、すみません。←というようなことを書いてしまうのは、やっぱり何も考えていないからだね。)
カーン、カーン、
とそれは聞こえてくる、何の音だろうと思って耳をすますと、どこ
かに身を隠したかのように、聞こえなくなり、それからまた、耳を
ゆるく保っていると、
カーン、カーン、
と聞こえてくる、静かに、執拗に、
この書き出しには「空白」がある。つまり書かれていないことがある。書かれていないのは、それを野村が知らないからだ。具体的に言うと「カーン、カーン、」という音が、何の音か野村は知らない。(野村ではなく、詩のなかの話者というべきかもしれないけれど、そういうめんどうくさいことは苦手なので、野村は、ということにしておく。)どこから聞こえてくるかも知らない。
この知らない部分が「空白」。つまり空白とは意識と対称の関係の途切れている部分、切断している部分である。
しかし、それは完全に隔絶しているわけではない。途切れているのだけれど、つながっている部分もある。
カーン、カーン、
音が耳に聞こえてくる。野村と音がつながっている。そこには「空白」はない。
いや、そうかな?
簡単には言えないかもしれない。
まあ、これはちょっとむずかしい。
別なことから書き直してみる。私は考えると行き詰まるので、行き詰まると考えることをやめて感想にもどるのだ。
カーン、カーン、
この音、聞こえてくる? 私には聞こえました。「意味」はどうでもよくて、ただ聞こえたんですねえ。それも、その音が聞こえて瞬間、これは夜の街だと思った。夜、何も見えない(わけではないが、まあ、そういうふうに「常套句」で私は世界をとらえる。)何も見えないと感じるのは、たぶん、その音がどこから聞こえてくるか、それが何の音かわからないからだと思う。
「見えない」と「わからない」が一致する。
そこに「空白」がある。--のだけれど、夜だからそれは「空白」というより「空黒」かもしれない。「空白」というと、あいだに何もない感じがするが、「空黒」と書くと、あいだにいろんなものがつまっていて、それがじゃましているという感じがする。
私がいま書いていることは、まあ、そういういいかげん、テキトウなことなのだが、意外とそのいいかんげん、テキトウのなにか、ほんとうがあるかもしれない。
「空白」は虚無につながるが、「空黒」は虚無とは違うなあ。逆だなあ。「豊かな」感じがする。--あ、これに似たことをきのう書いたかもしれないなあ、と思う。
いいかげん、テキトウに書いても、ことばはどこかでつながっているのだ。きっと。
あ、また、考えはじめている。考えはじめると、すぐ行き詰まる。
カーン、カーン、
これが聞こえる。その音が私には聞こえた。そしてその瞬間、夜の街が見えた。それが正しいか正しくないか、それはわからないが、正しかろうが正しくなかろうが、その音が聞こえ、そのときの情景が私の肉体のなかにくっきりと存在するなら--逆に言うと、私の肉体が野村の書いたことばのなかに入って言って、そこにあることばを自分のことばのように感じてしまったとしたら、あとは何を書いてもいいのだ。「誤読」していいのだ、と私は感じている。
カーン、カーン、
これはたしかに「空白」を感じさせる音だ。このとき「空白」は「距離」でもある。つまり、自分のとなりにある音ではない。遠くで、「カーン、カーン、」と鳴っている。
でも、鳴っているのかな?
「聞こえてくる」と野村は書いているが、「聞こえてくる」とは書いていない。
これは大事だなあ。
もしかすると、その音と「遠く」にあるのではなく、「近く」にあるのかもしられない。「近く」にありすぎて「距離」がわからない。
このとき「空白」はもっと「空黒」に近づくかもしれない。「空」は「空」ではなく、反対語は何?、「密」かもしれない。「密黒」。こんなことばはない(と思う)が、ふとそんなことばがどこからともなくやってくる。
こういうことを書くとき、「空白」ではなく「密黒」というようなテキトウな造語をつくりだしているとき、私は、対称といえばいいのだろうか、ものといえばいいのだろうか、外部といえばいいのだろうかよくわからないが、そういうものではなく、逆のもの、つまり「身体」のことをふと思い浮かべている。
カーン、カーン、
それは夜の街のどこかから聞こえてくるのではなく、自分の身体から聞こえてくるのではないか、とそふ感じる。
野村も、そういうタイプかな?
カーン、カーン、
とそれは聞こえてくる、何の音だろうと思って耳をすますと、どこ
かに身を隠したかのように、聞こえなくなり、それからまた、耳を
ゆるく保っていると、
「何の音だろうと思って耳をすますと」というのは「常套句」であるけれど、よくよく読むと不思議な気持ちになる。野村は「耳をすます」だけではなく、何の音だろうと「思って」耳をすます。そうすると、そのとき野村は「思う」ときの肉体の動きも「雑音」として聞いてしまう。「音」を純粋に聞くのではなく、「何の音だろう」という「思い」に対する「答え」を聞こうとしている。「思い」とそれに対する「答え」の方へ、もうひとつの耳が動いてしまう。で、その変な動き、聞こえない「答え」を寄稿とする「ノイズ」に邪魔されて、「カーン、カーン」が聞こえなくなる。
で、「耳をゆるく保っていると」、つまり「聞く」ことをやめてぼんやりしていると、つまり「何の音だろうと思う」こともやめて放心していると、また
カーン、カーン、
それは、つまり「何の音だろう」と「思うこと」をやめたときに聞こえる。
もしそうであるなら、その音は外部にあるのではなく、野村の内部にしかない。もし外部にある音なら、何と思っていようと聞こえてくる。
カーン、カーン、
とそれは聞こえてくる、
この「それは」もとてもおもしろい。なぜ「それは」と指示しなければならなかったのか。指示することで意識しなければならなかったのか。指示しないと存在しないからかもしれない。それは、つまり、その音が外部にはなく、野村の内部にあるからだ、ということの証拠にもなる。
あ、私は、また考えはじめている?
うーん、考えると、テキトウに感じるは明確につかいわける(?)のがむずかしいが、考えるのはやめよう。感じよう。感じたことを書こう。
人はだれでも自分の「内部」にあるものしか理解できない。「外部」がどうやって内部に入ってくるのかわからないけれど、たぶん、知らず知らずにだろうなあ。なにかを繰り返しているうちに、知らず知らずに、受け入れるともなく受け入れているものが内部にたまってくる。そして、それがある日、突然、結晶する。
たとえば、「カーン、カーン、」という音のように。その「音」に意味はあるか、ないか、まあ、聞こえたということは、意味になろうとするものがあるということなのかもしれない。
こういうことはだれにでもある、と野村は断定して、この詩を次のようにつづける。
(1933年9月12日、
ロンドンのとある十字路でのこと、
歩道からサウサンプトン・ローへと足を踏み外した物理学者、
レオ・シラードの頭のなかで、突然、
群れ立つ鳩のように、
暗い未来を予想させる深刻なヴィジョンが閃いた--
《奴らを高く吊るせ》
野村の「カーン、カーン」はレオ・シラードの《奴らを高く吊るせ》である。で、それを感じた瞬間から、野村はレオ・シラードになってしまう。私が「カーン、カーン、」を読んだ瞬間、野村になってしまったように。
「空白」はそんなふうにして消えてしまう。
「カーン、カー、」は街のどこから化ではなく「レオ・シラード」から聞こえてきたのだ。そのとき野村とレオ・シラードのあいだにあるのは「空白」ではない。かといって「空黒」でもない。
何だろうなあ。
あ、また考えはじめたね。私は。
考えたことは振り捨てよう。ただ、野村とレオ・シラードが「一致」したことを感じよう。「カーン、カーン、」と《奴らを高く吊るせ》が重なり、結晶したのを感じるままに、感じよう。
そこから「意味」を考えるのではなく、「意味」になりそうになったら、それを振り払って感じよう。
なぜ、こんなことをしつこく書いているかというと。
実は、この詩は、このあと「東北大震災(福島原発事故)」へとつながっていくのだが、その「つなぎ目」に「既製の思想(思考)」が侵入してこないように、激しく抵抗している。「流通言語」に頼って「考える(誰かの考えに引きずられ、染まってしまう)」のではなく、考えることを拒絶して「感じる」ことに徹しようとしている。
考える、それをまとめるのはあとでいい。もっとあとにならないと、そういうものは肉体を正確にくぐりおわらない。阪神大震災のとき季村敏夫は『日々の、すみか』で「出来事は遅れてあらわれる」と書いたが、「考え」と遅れてしかやってこない。遅れを、私たちは待たなければいけない。待っていないと「考え」は「肉体」になるまえに「流通言語」として誰かに利用されてしまう。そういうことに、野村は、ここで厳しく抵抗している。
あ、また私は考えはじめているね。
なぜ、こんなふうに考えはじめてしまうかというと、きょうの「日記」にあてる予定時間をオーバーしてしまって、私が感じることをやめて、しまったからだ。
まあ、いいか。
この詩は「東日本大震災後」に書かれた、もっとも印象的な(つまりもっとも正直な)詩のひとつであると感じる。「東日本大震災」を野村は「カーン、カーン、」という音で実感した。そのことが、読みはじめた瞬間からわかる。わかるというのは、変だけれど、予感してしまう。この予感は、読み進むと「感じ」ではなく「考え」になる。そして「意味」にもなっていくのだが、私はそんなぐあいにこの詩を動かしたくないので、つまり、予感に引きずられて動いたということだけを感想として書き残したいので、あえて最初の2ページ分だけを引用して、そのときに動いた「感じ」だけを書いてみた。
風の配分 | |
野村 喜和夫 | |
水声社 |