詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

鈴木孝『鈴木孝詩集』

2012-09-17 11:43:42 | 詩集
鈴木孝『鈴木孝詩集』(新・日本現代詩文庫98)(土曜美術社出版販売、2012年08月30日発行)

 鈴木孝という詩人を私は知らなかった。読みはじめてすぐことばの「強さ」に気がついた。「みちゆき」の書き出し。(鈴木は「送り字」をつかっているが、引用では書き改めた。原文は詩集を参照してください。)

深雪の中 沈みかける日はギラギラと 遠くじっと止まり 原罪を閉じ込めたまま動こうとしないトラピストを 残酷に寒気の中に浮かび出す

 「原罪」「トラピスト」ということばから推測すると、鈴木はキリスト教と関係しているのかもしれない。人間以外のものと向き合った体験がことばを「強く」しているのかもしれない。私は宗教について考えたことがないので、私の考えは見当外れかもしれないが……。
 まあ、知らないことを書いてもしようがないので、私の知っていることに関係づけて「強さ」のことを書いてみると。
 ことばが対象のまわりを揺れ動くのではなく、対象に少しでも近づこうとする感じがある。焦点をしぼりきった感じでことばが動いている。「深雪」「ギラギラ」という厳しいひびきが迫ってくる。そして何よりも「沈みかける」と「じっと止まり」という動きの矛盾が--矛盾といっても沈みかけるものが止まるのは運動の一過程で、矛盾とは言えないのだが--ことばの流れを分断する。矛盾によって、ことばが立ち上がる。そうすると、ちょっと変なことが起きる。

原罪を閉じ込めたまま動こうとしないトラピストを 残酷に寒気の中に浮かび出す

 この「浮かび出す」という動詞のつかい方が、私には奇妙に感じられる。
 「主語」は何? 主語が私にはわからない。主語が何であれ、「トラピストを」なら「浮かび上がらせる(浮かび出させる)」になる。私の「文法」では。あるいはトラピストを「呼び出す」という動詞(述語)なら、なんとなく「わかる」。主語はわからないままだけれど、そこに描かれている「運動」がわかる。
 「浮かび出す」という表現自体、私にはなじみがないのだけれど、それを「浮かび出る」と理解していいなら、トラピスト「を」ではなく、トラピスト「が」「浮かび出す(出る)」ということになる。そのとき、主語は「トラピスト」である。
 鈴木はいったい何を書きたいのか。どういうことを書きたいのか、この書き出しからだけでははっきりしない。何か書きたいことがあるのはわかるが、その書きたいことの「内容」がはっきりしない。ただ、書こうとする「意思」がことばを、そういうふうにねじれさせているのだと感じる。書こうとする「意思」の強さが、ことばの「強さ」になっている。そして、それが強すぎるために、意思を、あるいは意識をねじ伏せて勝手に動いている、ということかもしれない。

かつて 愛は私の胸に息づく 誰かを愛さねば 誰かに愛されねば と云う鼓動でした

 2連目の書き出しだが、この「愛の定義」も、「愛」のなかに矛盾というか逆方向のベクトルが動いていて、しかもそれを矛盾ではなく「息づく」という肉体の必然的な動き、本能によって結びつけ、「鼓動」というこれもまた肉体の必然の本能に言いなおしている。何かが省略され、何かが過剰なのだ。
 宗教(キリスト教)に勝手に結びつけて(私はキリスト教徒ではないので、こういうことを気ままにやってしまうのだが)、ここには神が省略されていて、同時に神の意識が過剰にあふれている。神は書かれることはないが、常に鈴木のとなりにいる。鈴木にとって、その神は、すでに鈴木の肉体になっている(思想になっている)ので、わざわざ書く必要はない。だから省略する。省略するのだけれど、「主語」とならずにあふれてくる。
 「神(主語)は」トラピストを寒気のなかに「浮かび上がらせ(呼び出し)(他動詞)」、「トラピスト(主語)」は寒気のなかに「浮かび出る(自動詞)」のだが、それは鈴木の意識のなかでは区別がなくなる。というか、固く結びついてしまって、「造語(?)8」になってしまう。
 省略されているのは「神」ではなく、「神」といっしょにいる「私=鈴木」といった方がいいのかもしれない。
 この強い結合、融合は、次の連でもっと強烈に感じられる。

いくら祈ろうとけっして解かれることのないこの原罪を 皆 何故 まさぐり合うのです 何故 何故 許しの掌 さしのべ合うのです 静かに去ろうとするものを 何故 何故 大きく波立たせるのです

 「なぜ」と書きはじめたら、私は習慣的に「……ですか」と書いてしまう。「なぜ……ですか」と疑問形にしてしまう。鈴木が書いていることも、ふつうは疑問形で発せられるものかもしれない。

何故 まさぐり合うのです「か」

 と「か」を補っても「意味」はかわらないかもしれない。ふつうの人には。
 しかし、鈴木にとっては「か」をつけくわえると「意味」が完全に違ってくる。鈴木は「疑問」など書いていないのだ。一見、そこに書かれていることは「疑問」に見えるけれど、そうではない。疑問なら、それに対する「答え」が求められる。鈴木は「答え」を求めてはいない。もう鈴木の肉体のなかでは答えは出てしまっている。
 「原罪」をまさぐり合うしかないのである。まさぐり合うことを肯定している。「許しの掌(を)さしのべ合うのです」とさしのべ合うことを肯定している。「か」をつけて「疑問形」にしてまうと、そこにはまだ「迷い」がある。鈴木は迷ってはいない。「神」の声を肉体のなかで聞いてしまっている。「神」はまさぐり合いなさい、と言っている。掌をさしのべ合いなさいと言っている。
 その声が聞こえるからこそ、鈴木のこころは尾と聴く「波立つ」のだけれど、それはそういうものだと「神」が言っているのだ。何かをしながら、それでもなおかつ、こころが騒ぐ。乱れる。騒がせなさい。乱しなさい、とそれは「神」が命じているのだ。
 「原罪」を生きる。そのときにこころはさわぎ、乱れるのは、それが人間の生き方だからである。その結果、人間は何を手に入れるか。

ラザロが死したように 私のこの習性の祈りも いつか絶望するのです

 「絶望」を手にいれる。しかし、それが「神」が与えたものなら、絶望するしかないのである。「絶望」できる力が鈴木にはある、と「神」が判断し、それを鈴木の「天命」にしたということだろう。「神」は鈴木に、「絶望」という「天命」を見出し、そうしなさい、そうすればいつも私(神)はあなたとともいる、と告げたということだろう。
 そのことを、鈴木は肯定している。
 これは理不尽な(私のようにキリスト教徒ではない人間から見ると理不尽としか言いようがない)肯定であるけれど、その肯定する力が鈴木のことばを強くしているのだと思った。




泥の光
鈴木 孝
思潮社
コメント
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