詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ダニエル・エスピノーサ監督「デンジャラス・ラン」(★★)

2012-09-09 09:16:12 | 映画
監督 ダニエル・エスピノーサ
出演 デンゼル・ワシントン、ライアン・レイノルズ、サム・シェパード

 やたらとアップの多い作品である。顔が映るときは天地がスクリーンからはみだす感じである。アクションもカメラの位置が肉体にとても近い。ちょっと目が痛い。スクリーン全体を細部が埋めすぎる。余白というか、余裕がない。カーアクションもひたすら接近した動きである。
 理由は。
 と書いてしまうと、まあ、いやらしい勘繰りめいた感想になるのだが、ストーリーをそのまま映像化したらこうなった、ということ。主役のライアン・レイノルズは現実に何が起きているかわからない。デンゼル・ワシントンの周辺で何かが起きている。デンゼル・ワシントンがいのちを狙われているということはわかるが、全体の「構造」がわからない。わかるのは今、自分が見ている目の前の「現実」だけ。で、この非常に身近な、肉眼で見える部分だけは理解できるが背後がわからないというストーリーを、そのまま肉眼を強調したカメラでとらえると、こうなりました、という感じ。
 デンゼル・ワシントンが何を考えているのか。そしてライアン・レイノルズは何を感じたのか。それを肉眼で見える表情から読みとる。それを観客にも強いる。同じ体験をしろ、と観客に迫る。まあ、それはたとえばデンゼル・ワシントンが拷問を受ける場面や、デンゼル・ワシントンがライアン・レイノルズに対してCIAの組織、その活動はこういうものだと語って聞かせるシーンではなかなか効果的である。心理を浮き彫りにするには、目をはじめ顔のちょっとした表情が重要である。デンゼル・ワシントンは余裕たっぷりに「心理」を楽しんでいる。拷問シーンで、タオルの重さ(水を含む量がタオルの重さによって違ってくる)を指摘し「600 グラムのタオルでないとだめだ」というシーンなんかはおもしろいなあ。拷問をしてくる相手に自分はこれだけ知っていると言い聞かせていると同時に、これから起きることを自分自身にも語り聞かせている。こころの準備をしている。そうか。心理戦というのは、こころの準備のことなのか、とわかる。
 でも、こういうことが効果的なのは、そこでのみアップがつかわれるときだろう。全編をアップの映像がつづくのはつらい。だいたいカーアクションがそうなのだが、そんなところに「真理」を持ち込んでどうするのだろう。アップの激しい動きでは、動き全体が見えず、そんな全体の見えないところでほんとうに戦えるのか、という疑問の方が強くなる。危険が迫っている、という感じが逆に遠くなる。
 これはスピルバーグの「激突!」(★★★★★)と比較するとわかる。「激突!」でもタンクローリーのアップがぐいぐい押してくるが、そのときのアクションはとても単純である。ただ後ろから追いかける。まっすぐに追いかける。だからこそどんなにアップであっても、そこに動きの全部がある。でも「デンジャラス・ラン」は違うでしょ? 全体の動きが見えず、ただ限定された一部がアップで見えるだけ。そのアップはたしかに日常では見ることのできないものだけれど、それでどうしたの? 日常で見えないものを撮れば映画? カメラの仕事を間違えているね。 
 つくっている側は、いや、このアップの連続だからこそ、ライアン・レイノルズの表情の変化をとおして彼の「成長」の具合が克明にわかる、というだろうけどさ。そんな裏話というか、映像の工夫なんて、見えてしまったら何にもならない。映画館を出た後、ライアン・レイノルズは気骨のあるエージェントに成長したな、なかなかいい男かもしれない、とふと感じさせる具合でないとおもしろくないのである。デンゼル・ワシントンの好き放題の演技、こういうことができてうれしくてしようがない、というこころが透けて見えては映画にならない。サム・シェパードもなんだかなあ。こういうアップで見せる存在感では負けちゃうね。全身の姿に生きる姿勢のようなものが出てくる役者(脚本家はもう廃業?)には、こういうカメラはあわない。


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