中本道代『中本道代詩集』(現代詩文庫197 )(思潮社、2012年08月31日発行)
「現代詩文庫」のおもしろいところは詩人の若い時代の作品を読むことができる点だ。詩がどんなふうに誕生してきたか、ということが感じられる点だ。
中本道代『中本道代詩集』。巻頭に「三月」という作品がある。
全行である。
あれっ、終わったの? という感じで終わってしまう。まだ何か書きたいことがあるかもしれない。しかしその書きたいことは、このあとにあるのではなく、いままで書いてきたことの中にある。言い換えると行間にある。これがたぶん若い時代の詩の特徴であると思う。
書きたいことがあるのだけれど、ことばにならない。書きたいことを書かない内に次のことばがでてきてしまう。それを追いかける。
その結果、行間がひろびろとした感じになる。行間をさわやかな若さが駆け抜けていく。これが実に気持ちがいい。
で、この詩の場合、それでは行間は何か、というと。
このことばが行間にあふれている。簡単に言うと、「ほしい時がある」を行間に次々に補っても、詩が変わらない。
で、これから、私は、まあ、「誤読」をしていくのだけれど。「ほしい時がある」ということばを省略するのは、それが中本自身にはわかりきったことであるからだ。書く必要はない。書かなくてもわかりきっている。肉体になってしまっている。ひとはだれでも自分にわかりきったことは省略してしまう。そのために人に自分の思いがつたわらないということが起きるのだけれど、この詩の場合、その「わかりきったこと」はわかりやすいし、2行目に書かれてしまっているので読者に誤解されることもないだろうけれど。
でも、私は「誤読」したい。
「ほしい時がある」というとき、中本の「力点」はどこにあるのだろう。「ほしい」の対象は何だろうか。「やさしいくちびる」「かたいつめ」「荒々しいてのひら」「まっしろろ歯」ということば、そしてそれをもとめている「乳房」「わきばら」「腰」「のど」を結びつけると、セックスを思い起こしてしまう。「ほしい」ものは「男」(セックスの時間)である、というふうに感じられるかもしれない。
この詩が書かれたころ(1980年代なかごろ、と私は推測している)は「女性詩」が話題になった。女性の感受性、肉体感覚--そういうものにセックスはとうぜん結びついてくる。だから、この詩もそういうものを引き寄せているだろうと思う。
でもねえ。
ここにはセックスの匂いはぜんぜんしない。中本が書きたいこと、「ほしい」対象(補語)は、男(セックス)とは違うのだと思う。
「のようなもの」がすでに「男」を否定している。「ばらばら」がさらに「男」を否定している。「ばらばら」の肉体の部位は「男」ではない。ばらばらになってしまえば、それは「いのち」ではないのだから。
では何が「ほしい」のか。「時」である。ある「時」がほしい。しかし、その「時」を説明することばがうまく見つからない。
「乳房にやさしいくちびるが」「わきばらに荒々しいてのひらが」「腰にかたついめが」「のどにまっしろな歯の列が」と何度言いなおしても、違う。違うからこそ、言いなおしてしまう。言いなおすしかない。
中本は、ことばにしようとしてできないものと向き合い、それと戦っている、そのために苦悩している--かというと、そうではない。それを楽しんでいる。言いたいことがあるのにうまく言えない。言おうとすると、なぜかこんな形になってしまう。それにとまどいながらも、そんなふうにことばが動いていく「時間」を楽しんでいる。
これはいいなあ。
少し色っぽいことばを並べてみる。きっとこんなふうに書くと、人は色っぽいことを思ってくれる。人にはそう思わせておいて、自分は、それとはちょっと違った場所で、その「時間」を楽しむ。
そうだよね。詩を書く--詩にかぎらず人に何かをいうとき、ことばを受け取った人がどう反応するかは楽しみだよね。この詩が「ラ・メール」に投稿されたものかどうか私は知らないが、詩を投稿するときの楽しみというのは、こういうことばなら選者は反応するかな?と思うことだ。 詩は読者がいて初めて成立するものである。選者が同反応するか、別なことばで言うと投稿誌の場合は選ばれるかどうかということになるけれど、そういうことをうかがいながら自分のことばがどこまで動くか楽しんでいる。
そういう時間も含んでいる。
あ、脱線してしまったかな?
詩にもどる。
このときの「ほしい」が「男の肉体(セックス)」ではなく、「時」そのものであるというのは、最後の、
という行に象徴されている。「ひるねのころ」の「ころ」は「時間」を指し示している。「春になったばかりの」というのは「ころ」を特定させるためのことばである。「ころ」へ向かってことばは一直線に動いている。「時間」と「ころ」は同じ意味なのだ。
「時間」を「ころ」と言い換えてみる。
そうすると、最後の2行が「意味」としてはわかるけれど、なんだか窮屈なことばの動きになる。つまり、無理がある。
もとの中本の詩がはるかにいいことがわかる。
「時間」と「ころ」は同じなのだけれど、微妙に違う。その微妙な違いを本能的に感じとり、その違いの中へことばを動かしていく--これが詩の秘密なのかもしれない。こういう違いを本能的に感じ、無意識的にことばを動かせるとき、その人は詩人になっているということだろう。
私はいま「時間」と「ころ」を入れ換えながら、実はそれが入れ替え不能であることを確かめたのだけれど、こういう「入れ換え不能」のことばこそが詩であり、その人の肉体であり、キーワードなんだなあ。
「ころ」というのは、とてもあいまいである。「ころなんか」と「なんか」をつけるとさらにあいまいになる。
私は意地悪な性格だから、
というようなことをよくやるのだけれど、きっと受講生は困惑する。
「ころなんか」は「ころなんか」としか言いようがない。
そこが「詩」何ですよ。
別なことばで言うと。
「乳房にやさしいくちびるが」ということばは言い直しが可能。中本自身「わきばらに荒々しいてのひらが」など次々に言いなおしている。けれど「ほしい時がある」はうまく言い直しができず、途中は省略し書かないで、最後になってやっと「ころなんか」という中途半端な感じでその「時」を補足説明している。
このあいまいな、補足説明と言っていいかどうかわからない部分を、中本自身の生きている場所からひっぱりだす--この瞬間の、肉体のねじれのようなもの、そこに思想がある。
こういうことばをもっている人は、正真正銘の詩人である。「三月」には、中本の詩人の「正直」な出発点がある。
「現代詩文庫」のおもしろいところは詩人の若い時代の作品を読むことができる点だ。詩がどんなふうに誕生してきたか、ということが感じられる点だ。
中本道代『中本道代詩集』。巻頭に「三月」という作品がある。
乳房にやさしいくちびるが
ほしい時がある
わきばらに荒々しいてのひらが
腰にかたついめが
のどにまっしろな歯の列が
ほしい時がある
男 のようなものでなく
それらがばらばらに
ほしい時がある
春になったばかりの
ひるねのころなんか
全行である。
あれっ、終わったの? という感じで終わってしまう。まだ何か書きたいことがあるかもしれない。しかしその書きたいことは、このあとにあるのではなく、いままで書いてきたことの中にある。言い換えると行間にある。これがたぶん若い時代の詩の特徴であると思う。
書きたいことがあるのだけれど、ことばにならない。書きたいことを書かない内に次のことばがでてきてしまう。それを追いかける。
その結果、行間がひろびろとした感じになる。行間をさわやかな若さが駆け抜けていく。これが実に気持ちがいい。
で、この詩の場合、それでは行間は何か、というと。
ほしい時がある
このことばが行間にあふれている。簡単に言うと、「ほしい時がある」を行間に次々に補っても、詩が変わらない。
乳房にやさしいくちびるが
ほしい時がある
わきばらに荒々しいてのひらが
ほしい時がある
腰にかたついめが
ほしい時がある
のどにまっしろな歯の列が
ほしい時がある
男 のようなものでなく
それらがばらばらに
ほしい時がある
春になったばかりの
ひるねのころなんか(に)
ほしい時がある
で、これから、私は、まあ、「誤読」をしていくのだけれど。「ほしい時がある」ということばを省略するのは、それが中本自身にはわかりきったことであるからだ。書く必要はない。書かなくてもわかりきっている。肉体になってしまっている。ひとはだれでも自分にわかりきったことは省略してしまう。そのために人に自分の思いがつたわらないということが起きるのだけれど、この詩の場合、その「わかりきったこと」はわかりやすいし、2行目に書かれてしまっているので読者に誤解されることもないだろうけれど。
でも、私は「誤読」したい。
「ほしい時がある」というとき、中本の「力点」はどこにあるのだろう。「ほしい」の対象は何だろうか。「やさしいくちびる」「かたいつめ」「荒々しいてのひら」「まっしろろ歯」ということば、そしてそれをもとめている「乳房」「わきばら」「腰」「のど」を結びつけると、セックスを思い起こしてしまう。「ほしい」ものは「男」(セックスの時間)である、というふうに感じられるかもしれない。
この詩が書かれたころ(1980年代なかごろ、と私は推測している)は「女性詩」が話題になった。女性の感受性、肉体感覚--そういうものにセックスはとうぜん結びついてくる。だから、この詩もそういうものを引き寄せているだろうと思う。
でもねえ。
ここにはセックスの匂いはぜんぜんしない。中本が書きたいこと、「ほしい」対象(補語)は、男(セックス)とは違うのだと思う。
男 のようなものでなく
それらがばらばらに
ほしい時がある
「のようなもの」がすでに「男」を否定している。「ばらばら」がさらに「男」を否定している。「ばらばら」の肉体の部位は「男」ではない。ばらばらになってしまえば、それは「いのち」ではないのだから。
では何が「ほしい」のか。「時」である。ある「時」がほしい。しかし、その「時」を説明することばがうまく見つからない。
「乳房にやさしいくちびるが」「わきばらに荒々しいてのひらが」「腰にかたついめが」「のどにまっしろな歯の列が」と何度言いなおしても、違う。違うからこそ、言いなおしてしまう。言いなおすしかない。
中本は、ことばにしようとしてできないものと向き合い、それと戦っている、そのために苦悩している--かというと、そうではない。それを楽しんでいる。言いたいことがあるのにうまく言えない。言おうとすると、なぜかこんな形になってしまう。それにとまどいながらも、そんなふうにことばが動いていく「時間」を楽しんでいる。
これはいいなあ。
少し色っぽいことばを並べてみる。きっとこんなふうに書くと、人は色っぽいことを思ってくれる。人にはそう思わせておいて、自分は、それとはちょっと違った場所で、その「時間」を楽しむ。
そうだよね。詩を書く--詩にかぎらず人に何かをいうとき、ことばを受け取った人がどう反応するかは楽しみだよね。この詩が「ラ・メール」に投稿されたものかどうか私は知らないが、詩を投稿するときの楽しみというのは、こういうことばなら選者は反応するかな?と思うことだ。 詩は読者がいて初めて成立するものである。選者が同反応するか、別なことばで言うと投稿誌の場合は選ばれるかどうかということになるけれど、そういうことをうかがいながら自分のことばがどこまで動くか楽しんでいる。
そういう時間も含んでいる。
あ、脱線してしまったかな?
詩にもどる。
ほしい時がある
このときの「ほしい」が「男の肉体(セックス)」ではなく、「時」そのものであるというのは、最後の、
春になったばかりの
ひるねのころなんか
という行に象徴されている。「ひるねのころ」の「ころ」は「時間」を指し示している。「春になったばかりの」というのは「ころ」を特定させるためのことばである。「ころ」へ向かってことばは一直線に動いている。「時間」と「ころ」は同じ意味なのだ。
「時間」を「ころ」と言い換えてみる。
乳房にやさしいくちびるが
ほしいころがある
わきばらに荒々しいてのひらが
腰にかたついめが
のどにまっしろな歯の列が
ほしいころがある
男 のようなものでなく
それらがばらばらに
ほしいころがある
(それは)春になったばかりの
ひるねの時間なんか(である)
そうすると、最後の2行が「意味」としてはわかるけれど、なんだか窮屈なことばの動きになる。つまり、無理がある。
もとの中本の詩がはるかにいいことがわかる。
「時間」と「ころ」は同じなのだけれど、微妙に違う。その微妙な違いを本能的に感じとり、その違いの中へことばを動かしていく--これが詩の秘密なのかもしれない。こういう違いを本能的に感じ、無意識的にことばを動かせるとき、その人は詩人になっているということだろう。
私はいま「時間」と「ころ」を入れ換えながら、実はそれが入れ替え不能であることを確かめたのだけれど、こういう「入れ換え不能」のことばこそが詩であり、その人の肉体であり、キーワードなんだなあ。
「ころ」というのは、とてもあいまいである。「ころなんか」と「なんか」をつけるとさらにあいまいになる。
私は意地悪な性格だから、
<質問> 私の「現代詩講座」では、この「ころなんか」を自分のことばで言いなおすと
どうなりますか?
というようなことをよくやるのだけれど、きっと受講生は困惑する。
「ころなんか」は「ころなんか」としか言いようがない。
そこが「詩」何ですよ。
別なことばで言うと。
「乳房にやさしいくちびるが」ということばは言い直しが可能。中本自身「わきばらに荒々しいてのひらが」など次々に言いなおしている。けれど「ほしい時がある」はうまく言い直しができず、途中は省略し書かないで、最後になってやっと「ころなんか」という中途半端な感じでその「時」を補足説明している。
このあいまいな、補足説明と言っていいかどうかわからない部分を、中本自身の生きている場所からひっぱりだす--この瞬間の、肉体のねじれのようなもの、そこに思想がある。
こういうことばをもっている人は、正真正銘の詩人である。「三月」には、中本の詩人の「正直」な出発点がある。
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